自然農法と自然経済

 ゲゼルの自然経済を進める上で、一番の問題は減価率をどのくらいにするかである。それは命のバトンの歳月を何年にするかであり、それを人類だけでなく生き物全体の自然サイクルを学ぶ必要がある。

 その答えはNHKスペシャルの「クニ子おばばと不思議の森」の放送にあった。
縄文時代から数千年も続いている「焼き畑農業」と「森の再生」である。

 森を再生循環させるには「30年」の歳月が必要だということを数千年の智恵で知られている。

 通常、ジャングルを農地にするために焼き畑することで、森林が消えてしまうことを危惧している。そうした、世界の森林が消滅して砂漠化することを阻止するために、伐採したら、植林することをしている。

 しかし、その作業は大変であり、莫大な資金と労働を必要とする。しかし、クニ子おばばが進める焼き畑農法だと、こうした地球の砂漠化を防ぎ、苦労して植林をする必要もなくなる。森の樹木を30年毎に伐採していくと、自然に再生するからだ。30年以上だと再生しないし、30年以下だと樹木は育たない。焼き畑する農地は毎年移動し、30年のサイクルで元の森に戻ってきて、伐採がまたでき、その循環は数千年数万年もあらゆる生き物の命のバトンで永続できる。
 
 つまり、焼き畑が自然破壊ではなく、そのやり方が悪かっただけである。日本古来からしてきた、自然循環する焼き畑農業をすることが必要だったのである。

 現在の増えるお金は循環しない命のバトンであり、減価するお金である自然経済は、お金が確実に循環する命のバトンである。

 循環する自然経済にするには生き物全体の生死のサイクルに合わせた30年間の減価率にすることが一番、自然の生き物が教えてくれるサイクルであろう。

 今の中央銀行が発行する貸借貨幣を法的に苦労して循環させる力は「借りたお金は利息を付けて返済しなければならない」と、法律でも道義でも強制させている。しかし、その強制的信用力がほとんど力のないものであることは、各国の国債が増え続けるが、それは借金返済のための借金をする多重債務に陥って、ギリシャのように破産するしか道がなくなる経済である。

 しかし、そんな洗脳的な借金返済力に頼ることなく、自然に確実に返済できる方法が減価する貨幣である自然経済である。それは貸し借り経済ではなく、お金が30年ごとに生死を繰り返す経済である。

 例えば、東北関東大震災で焼け尽くされた土地を元の土地に復興させるためのお金が100兆円必要だとする。今の増えるお金だと30年で償還する国債を発行し、その利息と元金を増税で返済しようとする。これがどれほど無理なあがきであるかは多重債務者の姿や今のギリシャ国民の怒りをみれば推測できる。

 しかし、貸し借り経済する中央銀行のお金に頼ることなく、国が100兆円の30年の減価するお金を発行すれば、発行された100兆円は30年後は使用できなくなるが、30年後には新しく100兆円を発行できるので、常に100兆円の減価するお金は循環することができる。これは森林の再生循環の原理と同じである。

 減価するので、貸し借りは無意味であり、まして利息も無意味である。しかも、税金で国債を返済する必要もない。政府はただ必要な減価するお金を発行するだけで、自然に返済また税収ができる自然経済になることができる

 日本古来の森の思想を減価する貨幣に適用しようではないか。人の信の力に頼らず、自然の力に頼ってこそ、もっと愉快に、多くの生き物とともに生きられると思うのである。

 

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やれやれウイルスにやられた

 このブログはwordpressという無料ソフトで、そこにたくさんの英文のコメントが入ってくるが、ほとんどはリンクなので、削除していた。しかし、長文でしかもどうしてもそのホームページを訪れて欲しい内容を翻訳ソフトで知った。そのホームページにいくと、有料の内容だったので、キャンセルをクリックして、その画面を閉じようとしたら、その画面が消えない。すると、画面を消すためには、下記をクリックするように書いてあったので、妙とは思いながら、クリックしたら、画面は消えた。
 しかし、それからが大変だった。 自分のブログが見えなくなってしまったのだ。その管理画面にも入れなくなってしまった。1年前にバックアップ用にファイルをダウンロードしておいたので、そのメインの分をアップしたが、また、妙な文句が出てきて、自分のブログが表示されない。
 やられた! ウイルスにまんまとやられてしまった。

 そこで、wordpressのソフトを保存してあったのを、そのまま上書きして、FTPでアップしたら、治った。
 やれやれと思ったのはつかのまで、今度はブログのレンタルサーバーにまでいたずらされてしまった。フリマ笹塚のメインのホームページが表示されなくなってしまったのである。
 それを治すには、レンタルサーバーの管理会社にサーバー障害として治してもらうようにメールした。半日かかって復帰したが、もうウイルスの被害を受けないために、サーバーのパスワードを変更し、ブログのソフトwordpressの新しいのに入れ替えた。 
 この作業はなんだかんだと二日に及んだ。うかつに妙なホームページにアクセスしたり、クリックすることは二度としないようにと反省した。

 このウイルスはウイルスキラーで自分のパソコンを完全にスキャンしたが、みつからず、それはレンタルサーバーに入り込んだため、自分ではどうにも削除できなかったようだ。

 しかし、ウイルスを作るやつはよほど頭がいいのに、その頭をもっといいことに使えばもっと楽しくなると思うのだが、そんな愚痴をいってもムダかもしれないなあ。

 ウイルスはみなウインドーズを使うが、マックは使わないらしい。マックに換えた方が楽かもしれないが、問題はソフトもたくさん買わないと入れ替えできそうにないのがそれを難しくさせる要素かもしれない。

 

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秋の陽差しが輝いている

 ハンスト10日が過ぎ、今日から食べられる1日が始まった。この10日間で学んだことは断食ダイエットの基本法則があることを発見した。それは五日マイナス5キロの原則である。断食(塩と水だけ)の効果は5日間しか効果はなく、6日目に食事をとらないと、めまいなど体に変調をきたす。メタボの人だと、1日5キロ痩せるが個人差がある。最高で5キロと思って良い。しかも、一気に5キロ落とすと、必ず減量が停滞するのである。それは何も食べなくても同じである。

 この停滞期こそ、食生活を安定化させるには大事な時期である。今後、リバウンドするかしないかを決定することになる。

 その停滞期の第一日目が今日である。私は食事バランスのコマをみて、運動量の少ないコマの下から始めた。1,果物 2,乳製品 3,大豆などの蛋白質 4,野菜や海草 5,ご飯・麺・パンを5日間で徐々に通常食品にもどるようにした。

 この断食ダイエットを実行する前は逆の手順にすることも、苦痛がなくできるものになる。

 ダイエットは山登りと似ているので、登るときは1日2日3日4日5日とし、下山するときはー1日、ー2日、ー3日、ー4日、ー5日とするのがいい。ダイエット準備期間はカウントダウン方式で、ready5day,ready4day,ready3day,ready2day,ready1day,・・・・Go!で突入すればいいだろう。

 今日、お腹が空いたときは11時くらいだったので、プラムを一個食べようとしたら、胃袋が小さくなったせいか、一気に食べられないので、ゆっくりと時間をかけて食べたら、もうそれでお腹一杯になった。

 そして、用事があってバイクで街にでたら、いつもの街並みが輝いてみえてきた。まるで、牢獄から解放された気分になった。そこで歩いて散策したくなり、発見したのが街の駅である。引っ越してきてから1年半たつが、そこに足を踏み入れたことはなかった。なんと、入り口には足湯があり、自転車のレンタサイクルもある。中に入ると、広いロビーで、人がまばらだ。ここだと、図書館で勉強するより、くつろぎながらできそうだ。しかも無料のパソコンが2台あり、いちいちパソコンを持ち歩かなくてもいい。そこに市の情報がコンパクトにまとめられている。

 いつか、友人がきたときに、自分が作った1日観光ツアーガイドでも作りたくなったが、とてもそんな余裕はないので心だけにとめておこう。

 断食ダイエットで感じたことは、十日間で自分が赤ちゃんに生まれ変わったような体験をすることができたことだ。それは、赤ちゃんの食事の最初は離乳食から始めるように、断食ダイエット後は離乳食から始めるような感じだからだ。

 人は自分の身体も心も、リセットして、再出発すると、世界がずいぶん違ってみえるようだ。今日だって、まったく今まで無視していたものが、みなやさしく自分を迎えてくれるような気がしてきたからだ。

 今たくさんのダイエット本がでるもっと昔は断食がダイエットの方法だった。私が高校生のとき、伊勢原にある断食道場にお世話になったことがある。もちろん、断食が目的ではなく、その道場主が神懸かりの本を出していて、その内容に興味をもって、話をききにいったら、泊まっていけというので、玄米かゆをいただいた記憶がある。

 そのとき、その参加者の姿は何か異様だった。まるで飢餓のキャンプにいるようなものだった。一週間断食しているものもいて、そんなことができるのかと、びっくりしたことを覚えている。まさか、自分が今になってそんな体験を実行するとは驚きである。

 今の自分の腹の状況からすると、一食一つの果物だけで充分すぎるくらい満腹するというより、一つ食べられるかどうかである。よほど胃袋が小さくなっているように思える。時間をかければなんとか食べられるだろう。

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集中と和の学問

 家を造る 意味=目的 をどんどん追求していったら、結局、今作るべきでないという結論がでた。

 実は、家を造る計画は突如生まれたもので、それまでやっていたことが、おろそかになり、うちの畑は雑草が高く生い茂り、誰がみても、畑ではなく、放置された空き地って感じになっていた。回りの果樹園の人は除草剤を使うことを私の畑のためためらっていたが、今日みたら、除草剤をつかって、雑草をきれいに枯らしていた。

 ダイエットも4キロリバウンドしてしまい、あわてて、減量した。一週間でもとにもどしたが、翌日安心したのか、2キロリバウンドした。体重計が壊れていたのか確認したが、正確だった。思い当たるふしがあっても、はっきりとその原因はつかめなかった。こうなると、頭にきて、断食に近いダイエットを強行した。だが、意外と意志が弱いので、そこに集中しないと、意志が貫けないことに気が付いた。

 人はあれやこれや同時にはできやしない。やることをに一つにしないと、集中できないで、みな中途半端になってしまう。

 だが、現実的にダイエット一本に絞るわけにはいかない。いくつかのことをバランスよく、しかもみな成功させなくてはならない。これには生活する技術がいるようだ。

 集中とバランスをどう実現するか?

 ふと、ピアノ演奏が浮かんだ。右手と左手はまったく別な動きをしているが、そこに奏でられる音は和音であり、右手だけの演奏よりもはるかに快い。これだ!

 娘の就職のある会社案内の相談をうけた。その営業品目をみると、あれでもか、これでもかというような幅広い分野に手を出している。全国に数百店舗あるというが、各店舗ばらばらで、この会社は何をしようとしているのかわからない。そこで、社長の言葉をみたら、「今年は1つにまとめようかと・・」というだけだった。

 これでは無理だ。ピアノの和音演奏はできない、不協和音でいつか分裂するような気がした。でも、それを娘には言わなかった。ただ、「ずいぶん幅広いねえ・・山梨は2件だけかあ」というだけにした。否定すれば反発するのは目に見えているからだ。事実だけを伝えるだけにとどめた。

 人が一日でやるべきことは多い。日本政府だって、突如3月11日の震災と原発事故で、その他の事項は2の次にならざるをえなくなったが、全部やらざるをえないことが山ほどある。

 それらすべてを成功させるためには、集中学が必要になる。それはオーケストラのように指揮することが必要になる。どの楽器の音も全体の和音をはずさずに、一つのパートに全勢力をそそぎこまなくてはならない。

 一日の生活リズムをきざみ、やるべきことの優先順位をし、主旋律を何にするかを決め、その和音のメロディとして、その他を入り込ませるのである。

 うつになりそうな友人の生活が朝昼逆転している。しかも、それは悲しく重苦しい旋律とリズムを奏でている。それを転調して、明るい軽快な旋律とリズムにする必要がある。それも集中と和の技術が必要になる。

 たくさんの人が歌っているのに、その声が1人の声に聞こえるときはまことに天国の声のように響く。まったく関係がないことをやっていても、その両者を分解してみると、いくつもの共通点があることに気が付くことがある。そこに和音が隠されている。そこを引き出せばいい。

 例えば、私の腹のような今の日本経済はダイエットと和音で結びつくが、グルメとは不協和音になる。

 いつか、集中と和の学問が小学校のときから必須科目になるかもしれない。

 

 

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ゴールが決まらなければスタートはきれない

 今朝のフジテレビの知りたがりで、最終放射能廃棄物の処分場がないだけでなく、中間貯蔵施設もないため、東北関東の放射性ゴミの行き場がない状態で、復興が少しも進まない状態だと報じていた。

 つまり、

 ゴールが決まらなければスタートは切れない

 のだ。 

 これは、「目的がなければ進んでも迷ってしまう」という意味でもある。

 心の病に陥る魔の入り口である。「生きる目的を失う」のだ。それは「生きる理由がみあたらない」「生き甲斐を失う」「なぜ生きる?」

 それを問い続けると、そこに死の世界しかなくなるのだ。それは単純な推測思考から生まれる。生まれたら必ず死ぬのはどんな生き物でも鉄則だからである。いわば、どんな生き物も死ぬために生きているのは明瞭な事実であるからだ。

 こうした生きる目的を失った場合、それを解決するには「たった一つ」しか道がない。

その問題を捨てることである。難しい問題の多くはその問題自身に解決が隠されている。

 例えば

 もし、あなたが地球だったとしよう。「あなたはどこいくの?」と問うようなものである。それは行き先も、スタートも同じ地球であるから、聴くだけ野暮なことなのだ。 

 命において、生きる目的も、そのスタートも同じところにあるからだ。命は生死を繰り返すから、生きる目的を追い続けると、生死の無限回廊に迷い込むのである。それは鏡の中の鏡を見続けるようなものであり、その終点はない。限りなく近づいてもけしてその目的地には届かない双曲線のようなものである。

 生きる目的のような問題はその問題自身に欠陥があり、問う必要がないものだ。そうした生きたいというような生存欲以外の欲望には時間と同じで、始まりも終わりもある。

 では原発はどうであろう。原発の電気を使う使わないにしても、原発自身の目的は地球に放射能廃棄物を生産し、地球全体に増やし、命あるものすべてを抹殺することである。地球全体を死の灰で覆うようなものである。そこに始まりも終わりもあるのだ。

 そのため、原発の問題を解決するには「たった一つ」しか道がない。

いますぐにすべての原発の稼働をやめ、今まで生産された放射能廃棄物を安全に保管、管理するしか道がない。

 つまり、原発そのものが人類自滅兵器だからだ。もし、稼働したら、それはその地域住民をすべて未来永劫にわたって抹殺しようとする狂気な行為である。

 今の技術では放射能を無害にすることはできない。それ故に安全に保管することが、原発廃止と同時に必要になる。それが今回の東北関東大震災被害からの復興の第一歩になる。それが決まらなければ、どんな復興の一歩も踏み出せない。以前の阪神大震災とはまったく違い、原発事故処置が人類の最優先課題になったからである。

 大量の放射能廃棄物を日本国内に最終保管するとしたら、現実的に福島しかない。しかし、福島を最終処分場にしたとしても、将来の安全が保証できるものではない。地下水から海に流れ落ちる危険性があるからだ。

 そのため、日本国内は一時的保管を福島にし、国外の安全な最終処分場を世界人類の問題として、探すことがすぐに必要になる。地下水が入り込まないように、フィンランドのオンンカロの地下500mに10万年埋めて封じ込めるような建設を大がかりにするのが先決である。

 その場所は国際問題になるので、国連が主導するしか決められないかもしれないが、とにかく、人類全体の存続問題なので、人がほとんど住んでいない土地で、他の影響が少ないところをすぐに決めることを人類の最優先課題にすることである。

 それはエネルギーの問題ではなく、人類存続の問題だからである。この世界のオンカロを決めて、すぐに東北関東の放射能廃棄物をそこに運び込むことが、福島の人たちを安心させることにもなる。そうでないと、震災復興の一歩も前に進めないで、福島は震災津波原発の責め苦だけでなく、放射能廃棄物で未来永劫に攻められることになるからだ。

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