自然に死はない

早速枯れ葉を軽トラ2台分畑に敷き詰めた。

麦畑に枯れ葉を

この枯れ葉の上に籾種の泥団子をばらまく。

水田を作るのに手間取ったために、やっとクローバーと麦を蒔いた。その芽を出させるために、ブルーシートをかけていたが、クローバーが地中と勘違いして、もやしのように背丈が高くなってしまった。さらにのびてしまい、ブルーシートをとると、クローバーは死んでしまう。そのため、ブルーシートをやめて、枯れ葉で保湿して、麦の芽を出させようとした。

麦畑の一角につるなしのインゲン豆を植えていたが、急に葉が枯れかかっているのを発見してあわててしまった。病気かと思って、よく見ると、たくさんの実がなっていた。

実ができると枯れるのはカボチャやメロンと同じであった。

リンゴの自然農で有名な木村秋則さんが、自然農で育ったリンゴは腐らない!枯れる!のだという言葉は印象的であった。

腐るか枯れるのかは、昨年生ゴミを堆肥にする経験から、実験済みである。生ゴミは土と混ぜると、春夏は腐敗してすぐに堆肥になるが、秋冬の場合は、腐敗しないで枯れて(水分がなくなって)、土と混ざるのである。

腐敗菌は水分と温度が必要なようで、水分がないと腐敗しないし、温度が低いと腐敗しない。果物でも野菜でも乾燥させたりすると保存できる。果物や野菜のジュースを凍らすとずっと腐らない。

稲種が越冬するためには乾燥させることと、温度を低くすることが必要だというのがよくわかる。

草の種類によって、季節の温度で芽を出し育つようだ。麦は秋、稲は春ということだ。交互に一年中育つようだ。

麦や稲の一生をながめていると、人が死としている姿は自然死ではない、病気や災害で死ぬことであり、寿命をまっとうすることではない。草でいえば、病害虫で実がならないで腐敗してしまうことであろう。自然の死は実を残して、枯れることであり、その実がまた生長することである。

 つまり、枯れて越冬して春に芽を出す時期が自然死の姿であるということだ。すべて無くなることが死であるならば、どんなものも、なにかしらの思い出や生きた痕跡を残しているのが真実の姿である。物質にエネルギーの保存の法則があるように、人は死んでも自己保存の法則があるということである。もちろん、その自己は肉体の姿ではない、人と人の絆の姿である。

 端的にいえば、自然の死とは枯れて実を守ることであり、人の死というのは腐敗することであり、実を残さず消え失せることである。

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落ち葉を集めてきた

麦から稲の籾種を粘土団子にしてばらまくのは11月中旬以降である。そのさい、稲わらを長いまま麦のところに敷き詰めるわけだが、この稲わらはホームセンターで売っていたが、12リットルで399円もするので、とても高くて手が出ない。それに稲わらは大量に必要なので、売っている量では足りない。

稲わらは近所の水田では、稲わらをこまかくして、すぐに土と混ぜ込んで堆肥にしてしまっていたので、もらえなかった。そこで、刈った雑草を使おうとしたが、それはほとんど堆肥にしてしまったから、とても足りない。そこで、近くの山である昇仙峡が紅葉の季節で落ち葉がたくさんあったのでひろいにいった。

昇仙峡は甲府の近くである。

軽トラックに10数袋落ち葉を集めた。

モミジの葉もけっこう集めたのできれいである。これが堆肥となって、米ができたら、さぞかしうまいかもしれない。

稲を越冬させて、ちょうど春に芽を出させることは本当にできるのか疑心暗鬼である。雑草の種はみな越冬するので、不可能であるはずがないと思える。種は水につかると腐敗するか、芽を出すかである。越冬させるためには、乾燥させて、なるべく土にじかに触れさせないために、稲わらを敷いて、その上に乾燥させた粘土団子で包んだ種をまくのだろう。その原理であるなら、枯れ葉の上に粘土団子の種でも同じである。

また、市販の粘土をわざわざ買って、包むよりも、土団子でもいいように思える。それに栄養のある黒土団子で種籾を包んでまくようにするつもりだ。

春になって、芽が出なかったら、麦と同じように、培養土と一緒にもう一度種籾をばらまき、それでもだめだったら、稲の苗でも作って植え込みするしかないだろう。

でも、どうして種をわざわざ越冬させる必要があるのだろうか? 秋にまく麦種と同じように春に稲種をまけばいいように思うのだが、どうなんだろう。麦の緑肥として白クローバーを使ったならば、稲の緑肥として、豆科のレンゲ草か、くず大豆を一緒に種をまいたらどうなんだろうか。でも、それが生える空間はないので無理かもしれない。

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お金だけで決定すべきでない

最近のTPPは判断が先送りされたが、これを関税ゼロをあせって決めようとしたのは、どうやら韓国がEUとのFTAで、米以外の関税を撤廃したためのようだ韓国がTPPにまだ参加をしていないので、韓国に負けまいとして菅直人があせったという記述が朝日新聞に書かれたようである。

韓国がEUとの関税を米以外ゼロにするにあたって、農家の反対を押さえられたのは、農家の所得保障をしたためである。

世界全体が国も経済格差をなくし、貿易を盛んにするには、関税を撤廃した方がいいに決まっているが、これは世界の経済だけを見ただけのもので、世界の国民の生活全体を見ていない。

 世界の人々の生活は経済だけで幸せを築かれるものではない。金がありあまるほどあっても、病気にも、災害にもあい、生活が安全とはいえないのである。

 そもそもお金そのものが何なのかをはっきりさせておかないと、生活とお金の主従が逆転してしまう。その最も良い例が「お金のために働く」のは目的と手段を逆転させてしまったものだ。本来は「働くためにお金が必要」だからだ。働くのが目的でお金は手段である。

 これは、働く(生産する)ためのお金(発行額)が必要であるというのが、健全な国民生活を実現する基本である。そのため、お金の発行額は国民総生産額であり、債券などの金融商品の発行額は未来の国民総生産額にする必要がある。

 それが合わないとインフレかデフレになる。お金目的に生産すると、目的と手段が逆転してしまい、お金の奪い合いという競争が激化する。その勝者と敗者の差はまさに生死の差くらいに激しくなる。これは戦争と同じ結果になる。

 お金は本来、100人の村があったら、そこで生産された食べ物を100人で平等に分配する手段であり、そうして、100人の村人全員がどんな災害や病気になっても、一緒に生きられる力になるためのものである。

 世界共通のお金はまだない、それぞれの国の通貨がある。それはその国で生産されたものを平等に分配するためのものであり、他国で生産されたものを奪う手段ではない。貿易は他国と協力しあってともに生きるためであり、国の損得が優先されるものではない。

 今回のTPP問題を解決するには、農林漁業牧畜などの国内の食料生産者の所得保障がポイントであろう。しかし、所得保障の基本は国民すべてに必要である。それがベーシックインカムの主旨である。それは最低限の所得保障なのであるが、それもお金だけで判断することは危険である。

 そこで、国内の食料の自給率を100%にし、その食料を国民すべての平等に分配されることが、本当のともに生きていくための基本にすべきである。

 そのためには、国内の食料生産の自給率が100%になった分の通貨を発行させることである。そして、その通貨は食料にあわせた腐敗率を1年にして、1年の期限通貨を発行することで、それが貯蓄したり、奪いあうこと、また税の徴収も必要なくなる。

 こうすることで、国民のすべては自分に必要な食料は実質的に無料でもらえることになる。他国から安い農産物が入ってきても、それらと競争することはなくなる。

 この国内食料通貨は最終的にその生産者に集まる。その通貨を日銀券に一定率で交換すれば、それが農家の所得保障よりも大きい、文化と技術保証になってくるだろう。

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つるはしが折れた

裏の雑草地を水田と畑に代えようとした。

山を削って水平な水田を作るため、山を削るのだが、それがまさに堅く砂岩のような土である。そのため、つるはしで、その土を砕いていくと、そのつるはしが折れてしまった。

両手は親指と人差し指にたこができた。そうして、やっと、

ここまで水平にしたが、ここで終わりではなく、雨水をためる堤と砂岩のような土を水田の堤にし、そのとりのぞいたところに栄養豊かな土を入れ込まないとならない。

ここは、30坪くらいであろう。ここに麦と米を植えるつもりである。

最近、TPPに日本が参加するかもしれないと論議が盛んである。TPPが環太平洋の国々で、シンガポール、チリ、ニュージーランド、ブルネイの4か国が2006年に発行した経済連携協定であり、2015年までの原則100%関税撤廃を目指し、アメリカ・オーストラリア・ベトナム・ペルー・マレーシアが参加を表明している。そして、11月9日のAPEC首脳会議で、日本・中国・フィリピン・カナダが参加するかが問われている。

 もし、関税を100%撤廃したら、どうなるか、アメリカとの米の輸入価格と車の輸出価格で比較してみると、米の日本の関税は778%で、車のアメリカの関税は2.5%である。100万円の車を輸出する場合は102万5000円で販売されたのが、100万円で輸出できることになる。一方、100万円の米を輸入するときには、878万円だったものが、約8割安の100万円で買えることになる。米と自動車の輸出入が100万円の同額だとしたら、差し引き 878万円ー2.5万円=875.5万円の輸入が増えることになる。今の輸出国より、大幅な輸入大国になると思われる。

 私は小麦を今作っているが、小麦の自給率は14%である。小麦の関税は252%であるので、さらに、その自給率は減ることになる。関税率が高くても、日本で小麦を作る農家はほとんどいなくなった。昔は米と麦を二毛作していたのに麦は儲からないのでやめたためと思われる。

 日本の1農家の平均作付け面積は1ヘクタール(3024坪)であるが、EUは9ヘクタール、アメリカは99ヘクタール、オーストラリアは1902ヘクタールである。日本は1ヘクタールといっても、あちらこちらに分散しているのが実情である。

 これは機械と手作業との競争であり、その価格を競争することもできない状態である。私の隣のぶどうと桃の果樹園はあちらこちらにまとめて5反(1500坪)あるが、それだけの収入では生活ができないという。

 国は自給率をあげる目標が景気対策で逆になっていく。これは環境よりも経済を優先するからだ。自給率というのは、安心して生活できる最低の環境のことである。経済に左右されないで安心して暮らせる環境のことである。

 ベーシックインカムが検討されているが、それを経済のお金だけで、生活保障をしようとすれば本来の生活環境を失うことになるだろう。戦争や災害にあったときには、お金が重要ではなく、生活物資である。そのため、米や麦や野菜は配給制になるだろう。

 人がみな安心できる環境とは経済環境ではなく、生活に必要な食べ物の自給率が100%になり、その食べ物が国民すべてに毎日配給されることである。

 それができてからの経済の損得が考えられるべきではないだろうか。

人はお金を食べて生きていない、米と野菜を食べて生きているのだ。お金は道具であり、常に二次的な考案事項にすぎないのである。

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人は何もしなければ自然は循環する

米と麦の自然農法について思うのだが、春麦が実り、秋稲が実るのを毎年自然循環させるとしたら、雑草と同じ方法をとればいいのかもしれない。

 つまり、人は何もしないで、ただ雑草が生い茂り、その雑草の交代が自然に行われればいいことになる。毎年、春も秋も同じ雑草が生える・・・人は何もしなくもそうなる。

 そこで、

もし、人が米麦に対して、何もしないで、もちろん収穫もしないで、米麦が毎年循環できる土地になれるかもしれない。

 でも、収穫して米麦を食べるならば、それを食べた生ゴミや人糞は肥料としてもとの土地にもどして肥料にするなら、米麦人の三者が自然循環することになる。

人は自然の一部である。虫も鳥も、牛もみなそうである。雑草も、病害虫もまたしかり。

つまり、その土地の命の循環を生かされている生物で生死をくりかえし、その種を共存させるような自然循環にすれば、人はほとんど苦労しないで、食べ、働くことができるのではないだろうか。

自然を主して、人が従になってこそ、人は快適な生活が可能になるのではないだろうか。それを逆にするから、えらい苦労をすることになって、自然の反動をうけて、被害をうけるのではないだろうか。

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