粗大ゴミ捨て場に感動

 山梨市に引っ越してきたから、8ヶ月になる。始めて粗大ゴミを捨てに市の環境センターに行った。

 東京で生まれた私は元便利屋だったので東京の埋め立て地にトラックを持ち込み、そこで捨てていた。家庭に出た粗大ゴミは郵便局でシールを買い、清掃局に電話予約して、捨てていた。

 丹波山村に引越したときは、月末に1回粗大ゴミ収集があり、無料で捨てられた。でも、山梨市は自分ですべて車を使って、粗大ゴミを捨てにいかなくてはならない。少しの場合は無料で、多くの場合は有料だと聞いていたので、前の住人が残した粗大ゴミや改装の際でた不燃ゴミをトラック1/4ほど持っていった。

 すると、コンテナの天井がないような大きな入れ物があるところへ、矢印に従って行ったら、そこに1人の老人がいて、ボックスの前に駐車するように言われた。

 そして、老人はそのゴミの一つ一つを分けて、燃えるゴミ、燃えないゴミ、蛍光灯、金属、ガラス、電池、ふとん類などに分けて入れた。私も彼に聞きながら分類して入れた。

 家具が一つもないので、「家具はどうするの?」と聞いたら、破砕する車のようなものを指さし「これで壊す」・・そして分類することになる。

 そのため、粗大ゴミの量はわずかで、それを破砕して分類する場所は100坪くらいに見えた。そして担当者は老人1人だった。朝9時から夕方4時までいつでもこれるということだった。料金は無料で、どうやら分類できればすべて無料って感じに思えた。

 ゴミゼロを目指しているのは市も私も同じである。今まで一度だけ、可燃ゴミを朝出しただけで、ほとんどは、その他のプラとミックス紙とペットボトルで、地区の資源ゴミの物置に月に1度ばかり捨てていた。生ゴミはもちろん畑の堆肥にしているので、私のゴミ排出量は消費税と同じくらいの5%にすぎないことになる。個人でゴミゼロはとてもできない。

 私がいたく感動したのは、粗大ゴミの処がきちんと破砕し、分類しており、それが資源化しやすくなっている点である。こうした姿勢だと、自分の畑仕事もはかどることになる。

 日本でもっともすぐれた下水処理をしていると思えるのが、下水汚泥を堆肥にしている山梨県東八代郡豊富村であろう。

もっとも他県でもいろいろが取り組みがされている。

 私が最もよく使っている堆肥は1袋198円でもっとも安い鶏糞である。うちで出る生ゴミを堆肥したものはとても時間も量も足りない。麦や米にはそうしたものをよく食べる鳥の糞が一番食物循環にはいいような感じもする。でも、下水汚泥から作った堆肥が安ければそれをとりよせて使いたい気がする。一番人に必要な養分が畑に返すことができるよう思えるからである。

 リサイクルされた商品を国が自治体がエコ税で負担した安く買えるようにすれば、下水汚泥からの堆肥も、粗大ゴミからのリサイクル商品も、すべて集めて大型リサイクルショップタウンができたら、きっと景気はよくなるような気がする。

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自由って何だ!?

最近のニュースは北朝鮮の一般人への砲撃で死亡者がでたことが大きな国際問題になっている。戦争状態でも、一般人への攻撃は国際法でもマナー違反になっていることからも大きな問題になっている。

それに対して、韓国が報復したが、それがどこに向かって報復したのかが、報道されていない。もし、韓国が北朝鮮のように、報復を軍人や軍事施設ではなく、民間人のすむ町や村を攻撃したならば、それは大きな問題であることは報道されていない。

戦争は問題解決を安易に「人殺し」によって行おうとするところにある。報復の問題解決もやはり「人殺し」である。

この人が人を殺すことで解決しようとすることは、死刑制度がそうである。死刑制度は戦争とは違って安易に殺人で問題解決しようとはしないで、じっくりと時間をかけて「人殺し」という「死刑」という判断をする。

しかし、アメリカの陪審員制度における死刑判決は3437件あり、そのうちの4%である138件が冤罪が死刑執行の前に確定され、自由の身になった。そして、死刑執行のあとに、冤罪の可能性のある人が1人現れた。それは自分の子供3人を父親が放火で殺したかどうかの判断が、放火のような焼け跡と、火事のあとに父親が子供を助けなかったという近所の目撃者があったことである。これは状況証拠だけで死刑にしてしまったことが問題で、放火のような焼け跡は放火でなくてもできること、火事がひどくて子供を助けられなかったことが遺族のうったえで解ってきたことだった。

アメリカの陪審員制度を真似た裁判員制度で、地方裁判で初の死刑判決がでたが、その裁判員も涙がかれるまで悩み抜いて決断したという。そうした陪審員や裁判員に心のケアが必要が叫ばれている。

これは、アメリカの退役軍人の心のケアと同じである。その心の健康を保持するためには、「そのときの判断は正当であった」ということを正当化するしかない。

人が人を「死」で裁くこと自体が、不自然な行為であることは明らかである。自然は人のどんな理由でも人を死で裁かないからである。自然は人の善悪で死の判決をしないからである。

 2年前だったが、ゲゼルの研究会の集まりで、ある青年が政治家になろうとしていたので、その理由を聞いて驚かされた。

「自殺する権利を主張するため!」

 そもそも自殺する権利なんかあるのか? 自殺は自分という人間を殺す犯罪ではないのか? と、その青年の将来を不安視したことがあったが、今再び考えてみると・・・

 自殺は究極的の自由であることの主張であるかもしれない。

 というのは、死刑執行された冤罪の可能性のある父親の遺言は「死後も冤罪であることを調べてほしい」ということだったのだ。彼は殺されずに生きて冤罪をはらそうとしていた! もっと生きたかったのだ。

 一方、裁判員制度で死刑の判決を受けた19歳の青年は即最高裁判に告訴しようとはしなかった。死刑を受け入れようとしているのは、このまま生きたくなかったような自殺を受け入れるものだった。

 今、私は畑仕事をしながら、自然と人間の関係を研究しているが、自由ということがいったいどういうことなのか? それがひょっとしたら、あの青年が主張するように、「自殺する権利」かもしれない。なぜなら、人が人間らしく生きるためには、自由であることが最低必要条件である。

 他人を殺すことは自由ではないのは明らかだ。他人の生きる欲求も生きている自然の姿を破壊するからだ。しかし、自分で自分を殺すことはまったく他人がその人に依存していない限りにおいて、小さな自由があるかもしれない。

 この小さな自由とは、死刑になった冤罪可能性のある父親が「生きる意志」があった場合は死刑は不当であり、もし、有罪であっても、「生きていれば謝罪、反省できる可能性がある」ということである。

 一方、死刑を受け入れるかもしれない19歳の青年は「自分で自分の死刑を決める意志がある」ということだ。それは自殺する権利・・・それが最後に残された自由であるといえるかもしれない。

 切腹という行為は、江戸時代における死刑制度における自分の命は自分で決めることが許された唯一の恩赦という考え方がある。その犯罪が凶悪の場合は自殺する切腹行為さえも許さない歴史がある。

 もし、自由主義の国が国民の基本的人権としての命の保証するならば、「自分の命は自分で決められる」ということこそ、もっとも必要な条件かもしれない。

 そうなると、死刑制度も死刑廃止制度でもなく、「自分の命の最終決定権の保証制度」が自由社会の根幹になるかもしれない。

 もし、これが認められたならば、安易に人殺しのような戦争や報復戦争をしなくなるだろし、退役軍人や裁判員のケアも楽になるかもしれない。

 自然においては、人は寿命や災害や病気で死ぬことがあっても、人の善悪で人を殺したり、人に殺される社会はありえないからである。

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驚いた!自家採種しないで、毎年買っているとは!

 種を蒔く時期を工夫していると、種の保存方法が難しいと思えてきた。そして、ほとんどの農家が毎年種を買っているということがわかった。種は高価であるので、どうしてそんな無駄をするのか不思議だった。

 しかも、ほとんど買える種が、同一品種で大手企業が作ったもので、現代農法に合わせた種だということを知ってびっくりした。あの宮崎の口蹄疫のニュースで種牛の話でびっくりさせられたのは、たった一頭の優秀な種牛からできていた牛がほとんど飼育されているということだった。

 それと同じ事が穀物や野菜にもいえることで、まるで、独裁政治のような農業だということだ。それぞれの農家がその土地やその農法に合った種を採種させないおそるべき金権農業があることを知らされた。

 民主主義の政府のように、それぞれの農家が自家採種することで、その土地と人にあった個性的な品種ができることで、より強い野菜や穀物ができるはずだ。

 お金のシステムも金持ちと投資家に牛耳られるように、穀物も野菜も1遺伝子と1農法で牛耳られている。これでは投資家の意向で右往左往させられる農業しかできなくなる。

 生ゴミを堆肥にする自然循環を目指していたが、もっと大事な種そのものの自然循環がされない農業の現実がどんどん疲弊していくのはあたりまえのように思える。

 今のお金は循環しないで、みな金持ちのところに、今の穀物も野菜も循環しないで、みな金持ちのところにいく。みな根本的に欲望につながっており、自然にはつながっていない。

 これはお天道様から見れば、私たちはほとんど差がないが、人の欲望から見れば、私達は天と地の差があるようなものである。

 自家採種の研究をしてみよう。種の自然循環をどのようにするか、それが編み出せれば自ずとお金の自然システムもできるだろう。

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収穫してそのまま植える「種の自然循環」

生ゴミから育って、収穫したメロンとカボチャの種を再び蒔いたら、季節はずれで、すぐ発芽してしまい、そして成長は止まり、枯れてしまった。

メロンもカボチャも春に種を蒔かないと実らないようである。

 麦畑に越冬させる稲の種を土団子にしてまいた。それがもし成功するならば、どんな春に蒔く種も越冬させることが可能である。

 自然の植物の循環は、春の植物はみな越冬するはずである。人が野菜を収穫せずに、実がなったままに放置すれば、その実は、腐らず、季節を待って発芽するはすである。

 生ゴミの種だけを冷蔵庫に入れたり、乾燥させたりしているが、それを保存するのが大変で、腐敗してしまうことが多く、かなりの技術が必要である。

 そこで、自然が行う種の保存方法を真似てみようと思った。

 すならち、実は食べずにそのまま土に埋め込んでしまう。カボチャもメロンも、実のままで土の中に入れてしまえば、実は徐々に枯れたり、腐ったりして、種だけが生き残り、ちょうどいい季節に発芽するのではないだろうか?

 買ってきたリンゴやキュウイも、トマトもそのまま土に埋め込んでしまうと、時期がきたら発芽するのではないだろうか。

 もし、収穫した野菜や穀物をその時期のその種を蒔けば、種や苗を毎年わざわざ買うこともなくなる。穀物だって、保存したりして、カビがはえたり、虫にやられたりはしなくなる。

 土は保存というよりも、種の発芽を待つ世界という意識が必要ではないだろうか?

 人は死ぬとあの世にいき、再びこの世に生まれる時期を待つという神道思想は、植物でいえば、土中があの世にあたり、土の外がこの世にあたる。

 そこで、春に蒔きたかったくず大豆を土団子にしてあちらこちら蒔くことにした。私がかったくず大豆は消費期限がきれる直前のもので、カビがはえている部分もあった。ネットで調べると、くず大豆とは規格外の大きさが小さいもので売れない大豆のことだが、こうした賞味期限がわずかなものも入るようだ。

 (執筆後昨日作った大豆の土団子は乾燥させると、大豆が土の水分をすってしまい、土が乾燥して団子がわれてしまい、土団子は無理であることがわかった。そのため、黒土と大豆を水なしで混ぜて、春の雑草をおさえるようにして、雑草が枯れたところすべてに、大豆を蒔いた。冬の寒さと、ちょうどいい湿度で腐ったり、虫や鳥に食べられたりしないで、越冬してくれるかどうか実験した)

 マメ科の植物は肥料がいらないで育つようで、空気中の窒素を肥料にするような感じがする。そのため、どんなところでも育ちやすく、しかも他の野菜や穀物の緑肥になるようだ。単に緑肥だとクローバーのようだが、大豆のように他の緑肥にも食べることもできると一石二鳥の働きがあると思える。

 これもネットの情報だが、大豆の種は消毒しないと、病虫害になりやすいため、売っている種は消毒薬の色がついたものが覆いようだ。でも、自然農を目指すならば、消毒しないで大豆を育てられるか挑戦したくなった。

 庭の小さなスペースに、家にあった、ジャガイモやさつまいも、地中にいくつか植えた。リンゴとキューイを食べずにそのまま土に植えたら、自分の行為があまりにもおかしく映ったので、1人笑いしてしまった。

 「収穫して、そのまま植える」

 という種の自然循環がどういう結果になるか、春が楽しみである。

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主体は収穫ではなく種なんだ

ビニールハウスの1/4くらい野菜の種を蒔いたら、ぐんぐん成長した。昨晩と今朝のおかずに、サラダ菜をおいしそうな葉をつみとって食した。

これは直播きだが、実は野菜造りは何も知識がなかったので、最初の春は種から苗を作ってから、それを移植して、野菜畑を作ろうとした。肥料も入れず、ただそこにある土だけで一粒か二粒の種を一つ一つずつ苗用の小さなビニール鉢に入れて、毎日のように水をあげて育てた。

 でも、ほとんど育たなかった。育ったとしても、移植したら、枯れてしまって、つるなしエンドウ豆以外全滅した。その原因は肥料とアルカリ度が主であり、同じ種でもビニール苗鉢だといくらか育っても、直播きだとまったく芽も出さなかった。その原因は水分の保湿が保たれているかどうかだとわかった。

 秋になって、麦とクローバーをブルーシートで保湿し、かつ肥料は土にまず鶏糞をばらまき、そして、種を市販の培養土と混ぜてばらまいたら、芽をすぐに出した。この方法で、秋野菜の種をホームセンターで全種試してみた。ほうれん草と長ネギ以外はうまく成長した。この2種類はたぶん土がアルカリ性を強くしないと育たないように思える。

 ブルーシートは芽が出れば覆いをはずした。雑草対策には麦と同じでクローバーを蒔いたのでそれを緑肥にした。種まきとしっても、苗を育てる感じで、5粒くらいをまとめて点蒔きした。というのは、種は100%発芽するとは限らないからだ。しかも、種は人と同じように家族のように寄り添って成長するように思えたからである。発芽が5粒のうちの1粒でも成長すれば良しとした。

 種をまいたら、土を盛るとかいうのはまったくしない。みな培養土と一緒に点蒔きしたものだ。この方法は実に簡単なもので、前回の失敗は嘘のようだった。

 葉は虫にわずかばかり食べられるが、病気はしない。人間の方が虫よりも大量に食べる。私がサラダ菜をつまんだようにだ。味は苦みがわずかにあったが、ドレッシングをかければ気にならない。

 そこで、ふと思ったのだが、野菜は人に食べられるために生まれてきたのではない。野菜はその種を残すために生まれてきた。主体は人間ではなく、野菜自身なのだ。

 人は野菜の中でもっとも大きな病虫害にあたる。なぜなら、種を残す前に、その種さえも全部食べ尽くしてしまうからである。種は海外の業者から大量に買っている。国産の種はわずかである。

 人が野菜と共存するならば、野菜の種をまず作ることから始めるべきであると思える。野菜も魚と同じように、全部とりつくしてはならない、野菜が自然に毎年育つようにして、人がその一部を食べられるようにすることが大事であると思えたのである。

 お金もそうだが、野菜の自然循環は野菜の命の循環を主にし、人はその補助をするような農業が大切に思えてきた。

 野菜に農薬をまく理由がよくわからない。それはたぶん収穫した際、腐りにくくしたり、害虫に合わないためのもののように思える。野菜には関係のない人のための処置であろう。

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