欲望の限界

 現状で満足した方がいいのか、そうじゃないのか?

 長いこと望んでいたことが実現してしまうと、欲望のほとんどはそこで満足してしまう。

 これ以上望むことはいくらでもある。

 だが、それが自分だけじゃない大きなことだと、その望みをあきらめた方がいいのではないかと思ったりする。

 夢は必ずかなえるものだったら、実現可能な夢だけに絞った方がいいように思えるのだが・・・・。

 昔、「ありがとう」という言葉に凝ったことがある。

 「ありがとう」とは感謝の言葉であるが、そのときの心情は「すべてを受け入れる状態」である。それは、「自分のすべての欲望を消し去ってしまう」ことでもある。愛は「その対象のすべてを欲すること」で、「自分のすべての欲望を一つにする」ことである。感謝は「他の欲望を受け入れる」のに対して、愛は「自分の欲望を打ち出す」ため、正反対なものではあるが、相思相愛のような別角度からみると似ているものである。

 感謝と愛には必ず対象が必要であり、「・・・・にありがとう」「・・・を愛する」という目的語が必要な動詞である。このことは、その目的が「すべて」になってしまうと、実現性も具体性も、その言葉の重みもなくなる。てこの力の原理からいえば、力点がなくなってしまうような幻想と言葉だけの世界である。

 感謝は「他の欲望を受け入れ」、愛は「自分の欲望を与え」るので、どちらも心の力点としての「欲望」である。そして、その目的は具体的対象である。そのことは、「欲望が目的対象によって、限界が示される」ということにつながってくる。

 つまり、欲望の限界とは欲望の具体的目的対象をはっきりさせることなのである。

 「あきらめが肝心」は心の平静さであり、「けしてあきらめない」は信じる力の奇跡である。だが、どちらも、そこに具体的対象がはっきりしたものでないと、平安も奇跡の心も起きないことになる。

 ここで、やっと自分の今の心の状態がはっきりしてきた。どっちつかずの自分の欲望がうろうろしていたのは、次の具体的目標が定まっていなかっただけにすぎなかったようだ。

 さて、計画を練り直そう・・・ここからスタートだ!

 欲望の限界とははっきりとした目標のことだったからだ!

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今はもう昔

こんな新聞記事をネットで見つけた。

 

 この事件は私の大家さんである。

 隣のそば屋さんから、今になって教えてもらい、びっくり仰天してしまった。

 6月15日に、家賃の支払いをお婆さんの名義から、養子さんの名義に送金変更する依頼が届いた。

 どうして、養子さんの名義なの? 娘さんの名義ではないの? 

 ここの大家さんとは、もう亡くなった私の両親とも深い関係だった。

 大家さんの家族は両親と娘姉妹の4人だった。妹さんは私と同級生だった。色白で言葉少なく、中学3年の頃、肺炎で亡くなった。その娘を溺愛していたお父さんは後を追うようにして、つまづいた怪我にばい菌が入って、亡くなってしまった。

 このお父さんは地元では大地主であり、うちの両親は大家さんの物置を1日3000円で借りておもちゃ雑貨屋を開いていた。そこの物置を借りることができたのは、その前で長く私の父が露天商をしていたからだ。気の弱い父と気の大きい大家とはえらく馬があったようで、朝から晩まで、大家さんは店を離れなくて、父母が困っていた。

 ただ話すだけなら、まだしも、大家さんは金持ちなので、うちのお客が商品を買わないと、「この貧乏野郎!」とののしるほどだったからだ。

  それから、およそ20数年たって、同級生の姉だった大家の娘さんが養子をもらった。40過ぎだったようで、お子さんは生まれなかった。

 商店街の入り口から路地まで大家さんの土地と家だったが、そこに14階建てのマンションと商店街の3階建ての商業ビルを建てる予定になった。3階建ての商業ビルを建てるときに、一番問題になったのは、そこの角地の一等地にあった寿司屋さんだった。立ち退きに、1億円を要求したのだ。そのため、この案は没になり、大家はくつした屋さんの地上権と奥の土地を交換して、そこに木造2階建ての自宅をつくり、14階建てのマンションだけを作った。

 それから10年くらいたって、問題の寿司屋さんは急遽亡くなってしまい、一銭もとれずに出て行った。しかし、大家さんはめんどうな事は嫌で誰にも貸さず、そのままだったが、やり手の不動産屋さんが、借りることに成功した。

 大家さんは80過ぎのお婆さんであったが、若い頃は非常に愛そうがよかったが、旦那さんが亡くなってから、ほとんど家の外にでなかった。実質は長女がしきっていた。けっこう神経質で、うちの内装も柱一本もいじってはならなかった。ウチノ店が四角ではなく、一部へこんでいるのは、そこは昔大家の風呂場があったところである。

 改装をするときに、その部分を広げて良いかきいたら、「柱の一本もいじってはならない」というので、そのままになってしまったのだ。これは寿司屋あとの、不動産屋さんの改装もそうで、柱だけはそのまま残して、それを補強して新しい柱を立てて、まるで新築の家を造ったのである。

 それからまた数年の月日がたった。

今年の5月始めに、お婆さんがもう高齢で亡くなった。

 莫大な資産のすべてを引き継いだのは娘1人である。この重圧はすざまじかったのだろう。気が変になってしまったのだ。

 そして、5月27日のこの事件である。

 これは想像するに娘さんが自分で自分の家と最上階の自分のマンションを放火して、自殺したと思われる。火事はそれほど大事にならなかったのは、発作的にやってしまったためだろう。

  大家さんの血筋を引く一家4人はすべて消え去ってしまった。しかも、父は娘次女を追うようにして亡くなったように、母を追うように娘長女も亡くなった。

 それは資産家の重圧がそんな悲劇を生んだように思われてならない。

 放火したのも、きっと

「家も金もみんないらない!」

 という自由な立場になりたかったのだろう。

自殺もまた、資産の重圧に苦しむ自分自身からの開放だったのではないだろうか?

 資産の重圧ではなく、もっと前向きに大きな遺産をとらえた家族もいる。

地元の最も大きな資産家が笹塚駅前に30階高層駅ビル「笹塚ランドマークタワー」を企画している。先月だったか、そのオーナーであり、あの笹塚交差点でタンクローリー事故の被害者でもあったお婆さんが亡くなった。その遺産相続は大変なものだろう。

その娘さんもまた私と同級生である。その一族は経営には秀でていて、孫の代までいろいろな事業をすることをこよなく愛している。

 先の不幸な出来事は、もし、大家さんに子供や孫がいたとしたら、起きなかったのではなかろうか。子供や孫は遺産の重圧なんか、足らないくらい押し返す力があるように思えるからだ。

 遺産より子孫

 って感じがした大きな事件であった。

 

 

 

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もし生活通貨が世界に流通したら

 貸し借りができる中央銀行券のクレジットカードと、貸し借りができない生活券の寄付保証カードの2枚をほとんどの人が持っている。
 中央銀行カードは世界のどこでも使えるが、生活カードはその国でしか使えない。

Aさんは、生活カードでスーパーストアで買い物をした。レジで

店員:「残金が足りません。クレジットカードでお支払いしてください」

A:「もう、残金がなくなりましたか、明日の月初めには送金されるのにな」

 他の買い物をしたくなったAさんは銀行のATMに行った。

ATM:「日銀円を生活円にいくら両替しますか? また、生活円は日銀円には両替できませんのでご注意ください。日銀カードと生活カードの両方を入れていれてください」

A:「10万円を両替するか」
ATM:「寄付は何%いたしますか?」
A:「10%の10000円」
ATM:「日銀円の10万円を生活円の9万円と1万円の寄付に両替しました。ありがとうございました」

A:「これで買い物が安くできるな」

Aさんはアフリカのルアンダに行った。
VISAのクレジットカードは使えたが、ルアンダの生活カードは使えない。
商品には二重の料金が書かれている。

A:「この高い方の値段は外国人用の値段で、安い方はルアンダ人用の値段ですか?」

店員:「いいえ、高い方が銀行券で、安い方が生活券です」

A:「それにしても、3倍の差があるのはどうしてですか?」

店員:「外国資本がたくさん入って、銀行券が高騰したんです。生活券は身内料金みたいなものですから、ほとんど変化がありません」

A:「毎月、ルアンダではどのくらいの生活券がもらえますか?」

店員:「先月銀行券が高騰したので、生活券への両替と寄付が増えたので、1.5倍の7500Bになりました」

Aさんは友人が日本企業の社長に会った。

社長:「先月から銀行券が高騰したので、法人生活カードの寄付を倍の80%にしたよ」

A:「その法人カードはルアンダ以外の国でも使えるのですか?」

社長:「いやいや、これはルアンダ内だけだ。それは日本でも同じでしょう」

A:「ええ、その法人生活カードとクレジットカードとの使用金額の差はどのくらいありますか」

社長:「そりやあ、日本企業だから、クレジットカードの方が多く10倍の差があるな」

A「ここの生活カードが欲しいのですが、なんとかなりませんか?」

社長「私個人でも持てないから無理だよ。もし現地の人の生活カードを借りたりしたら、犯罪になるのですぐに捕まってしまうよ」

A:「どうしてそれが犯罪なんですか?」

社長:「そりゃあ、生活カードは国民の寄付で成り立っており、その寄付が平等に分配されて、毎月支給されるからだ。もし、他人のカードを使ったら、その人の生存権を奪うようなものだからさ」

中央券と生活券の違い・・・

銀行券は貸借、生活券は分配

世界がアダムとイブの二人きりだったら、どう共存していくかの違いである。

アダムはリンゴを栽培し、イブはレモンを栽培している。
お互いに同じように実が実れば交換できるが、アダムのリンゴができなくて、イブのレモンができた場合の二人の約束の内容によって、銀行券と生活券の違いができる。

 
       
  銀行券制度   生活券制度
       
  銀行券の約束   生活券の約束
   「アダムはイブにレモンを半分くれれば、来年リンゴが収穫できたら、半分以上あげる」という約束をする」   「アダムとイブは今年からリンゴとレモンを共有し、果樹ができてもできなくても、収穫を半分ずつにすると約束する
       
  未来のリンゴの返済は不確定である。もし、返済ができない場合は、さらに借りるか、相手に従属しなければならなくなる。   未来の収穫がどんなでも、二人の収穫は確実に半分ずつにできる
       
  約束の実現性が低い   約束の実現性が高い
       
  税金による政治
  寄付による政治
  返済を強制するような
税制
  未来を共有するような
任意の寄付制
       
  銀行券の使用範囲   生活券の使用範囲
       
  どんなもの、どんなサービスでも、
世界中で、
いつでも、どこでも使える
  生活必需品とサービスのみで、
国内だけに使用でき、
それは使用限定期間もありえる
  銀行券の発行   生活券の発行
  国や企業や国民が返済可能の金額だけ発行する   国民や企業が自主的に寄付した金額だけ発行する
  銀行券の分配   生活券の分配
  強制的な税収と資本家からの借金の合計額を社会事業と国家事業にする。   任意的な寄付を国民と企業から集めたその合計額を国民すべてに等しく分配する、ベーシックインカム制である
       
  銀行券の特性   生活券の特性
  不確実な未来を想像するので、未来へのギャンブル性が高い。   寄付とその分配券の特性で、貸し借りはできないため、未来を共有する意識が強い
  主に、株や為替や債券に依存した社会になる   主に、生活必需品とサービスしか交換できないため、基礎生活の衣食住中心経済の充実じた社会になる
  銀行券は生活券に両替できる。
不確定なものを確実にはできるが・・
  生活券は銀行券に両替できない・
確定的なものを不確定にはできない
     
   理論的詳細については下記で  
   http://sekaibank.net/keizai/seikatu01.htm  
   
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金で食べるな体で食べろ

昨夜、甘いシュークリームを食べ過ぎた。夜中の3時に胃液が出てきて目を覚ました。太田胃散を飲んでまた寝た。

その夢の中で考えた。

「ダイエットが自然なのか! メタボが人間的なのか!」

最近、雑草が伸び放題の畑をどうするか、考えてばかりおり、動かないで体重ものび放題だ。体が重くてならない。

お金のシステムで健康な社会を模索していたが・・・??

「お金でなんでも解決しようとしてないか? ベーシックインカムだって、、ひょっとしたら、、そうかもしれないぞ!?」

頭で食べているのは間違いかもしれない、体で食べるのが自然だろう!

私もほとんどの人が金で食べている! これが自然の本道からはずれている原因かもしれない。

体で食べるのがあたりまえだろう。

どんな金持ちも、どんな貧乏人も、最終的に体で食べる方向に向かっている感じだ。

欲望をとことん追い求めるのが人間的に思われているが、ひょっとしたら、それは人類エゴかもしれない。

「知りたい」というのも「知欲」だ。「もっと金持ちに」というにも「所有欲」だ。すべてを知りたい、すべてを得たいというのは欲望の究極の目的だ。しかし、欲望を充足するとさらに欲望が生まれるから、「切りがない!」、つまり、「欲望の最終目的は達成不可能」である。

すべての生物は自己があり、自己はすべて「生欲」があり、最終目標「すべてを得る」ことに向かうが、それは不可能である。

自己と自己が「自他の間」でも、「生物の間」でもぶつかりあっている。そのぶつかりあう境界線が自然の姿ということになる。

自分らしさとは「自他のぶつかりあいが五分五分」であり、人間らしさとは「人類と他の生物のぶつかりあいが五分五分」であるということではないのか!?

孔子の言葉に

「われ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたが)い、七十にして心欲するところに従いて、矩(のり)を超えず

心欲するところとは「欲望」であり、矩(のりは「曲尺・矩尺(かねじゃく)で、大工さんが使う鋼の直角定規であり、その意味は規矩(きく)・模範となるもの・のり(法・則・典・範・程・度)である。それを現代訳にするなら「心欲するところに従って、人の道を超えず」ということだろう。

昨夜の私のシュークリームの食べ過ぎは「食欲に負けて、健康を外してしまった!」ということだろう。

これは、金欲にもいえるかもしれない。

「金欲に従いて、身体に従わず」になってしまい、働き過ぎ、怠けすぎになり、人間らしさを失ってしまう。

物事の解決も金で頼ってしまい、労働を忘れてしまう!

 これを防止するために、

金で食べるな! 体で食べろ!

 と自戒することにした。

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税金の使い道は国民が決められる

 ニュー・ベーシックインカム3として、このタイトルにした。

 パート2では税金を社会事業費に回すアイデアとして、ベーシックインカム貨幣を福祉券として発行するアイデアであった、

パート3では税金を国家事業費に回すアイデアである。これもベーシックインカム貨幣を国家事業券として発行するアイデアである。

 国家事業はいわば日本株式会社が事業することである。その資金は会社と同じで、株券を発行して前もって資金を調達する必要がある。日銀券ではそれが国債になるのだが、ベーシックインカム貨幣では「前払いの税金」になる。しかも、その「前払いの税金」の使い道が特定されるのである。

 大がかりの国家事業には国民の反対も多く、また無駄遣いも多くなる。例えば、八ッ場ダムの建設を続行するか中止するかで国民の意見が割れる。この是非を決めるのは議員である。政府の無駄な国家事業をなくすために、事業仕分けをするのも議員である。

 しかし、これが国民が直接その是非を問うことが可能ならば、大いなる無駄は省けるし、多額の国債に依存しなくてもよくなる。

例えば、 

 八ッ場ダムのような国家事業をするとき、財務省は必要な金額分のその八ッ場ダム事業券を発行する。

1,ダム事業券を役所やネットで、一口1万円で販売する。

2,Aさんはそのダム建設に賛成のため、10口のダム券を10万円で購入する。

3,Aさんにかかるどんな税金にも、そのダム券で支払うことができる。

4,国民から徴収された税金のダム券で、政府は建築会社に前金で支払うことができる。

5,建築会社はそのダム券で、必要な資材などをすべて買うことができる。

6.例えばその10万円のダム券は20%の法人税がかかって、8万円の日銀券に交換できる。

 こうすることで、国民はそのダム事業に賛否ができ、税金の使い道も限定でき、それにかかる諸費用も捻出できる。

先日のパート2の福祉券では国民がわざわざ20%の消費税を払ってまで買いにくいならば、それは同額にして、福祉関連事業の法人税として、福祉券を日銀券にする交換する比率を80%から60%にするなどして、国民の税金に対する意識の変化に合わせて調整すればいいと思える。

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