生死は紙一重

 生まれるということが奇跡なら、生きているということもまた奇跡である。

 まったく予想もつかないで死が突然やってくることがあるのは、まさに天国と地獄は紙一重でつながっているようなものだ。

 人の体も、捨て去る糞尿の出口と命が生まれる出口とは隣り合わせである。

  どうやったら、食べ物を循環させるかを考えていた。

 生ゴミの中にはたくさんの種が混じっている。種と生ゴミを分けるべきである。死の堆肥と、生の種とをはっきりと区別して扱うことが、食べ物を循環させるためには重要なことになる。

 どうして、いままでリサイクルをしながら、肝心の生ゴミそのものを堆肥と種と分けて扱わなかったのだろう? それは「味噌糞一緒」にすることほど馬鹿げたことなのだ。

 善人も悪人も一緒の扱いをすることをそもそも自然だと勘違いしているが、そうではない、善人も悪人も一緒にしないで紙一重で区別しているのも自然であるからだ。自然は矛盾することを明確に行っているのである。

 そもそも知識とか知恵というものは、物事に名前を付けて、それを分別することから生まれる。それに対して、愛や欲望は物事を一緒にする心から生まれる。

 いわば、生死を一緒にするのは愛だが、生死を分別するのが知である。愛と知によって、人は常に学習して人類の種を永続させているのである。

 いわば、生ゴミの種とその他を分別して、種と堆肥にするのは知である。種もその他も腐敗させて堆肥にするのは愛である。

最近、キッチン畑がはやりだした。水と光と養分だけで野菜をつくって、それをそのまま食べるというものだ。

そういうレストランも増えてきた。

 この流れは、まさに種を苗木まで育てるキッチンの役割があるかのように思えるのである。そうなれば、家に中で苗木を育て、外で堆肥を作る知恵が求められてきたのではないだろうか。

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幸せには失敗という文字がない

 最近、幸運が続いている。

 というのは、やっと新車が来たのだが、業者の方から納車が遅れたので、7万も高い車のランクにあげてもらい、さらに、遅れたので、マットやipotの接続コードの両方で35000円も無料で付けてくれた。

 納車は2ヶ月くらい遅れたが、その間代車が提供されていたのだが、その代車を娘が運転中、ぶつけられて車がへこんでしまった。もし、それが新車だったら、かなりがっくりしたことは確かだ。古い販売店の代車であったため、販売店の方に迷惑をかけないですんだ。

 こうした幸運はよい業者に巡り会ったためだ。バイクを買うときもそうだが、最初は変な業者で高くて質も悪い車をかうはずだったのに、何かのハプニングで、その業者をやめ、今のよい業者に巡り会った。

 よい業者はそのときは儲からないけれど、「損して得をとれ」というような性格が自然ににじみ出ている。というのは、なにがあっても、今後その業者で車を買い、修理したくなるからだ。一生の関係になるので、長い年月からいえば、その時損をしても、あとで大きな得がまいこんでくるはずである。

 自分が家の購入や店の経営で大きな失敗を何度もしてきたが、その失敗なくして、今の幸運な家と店にはならなかっただろう。そう思うと、失敗は失敗ではなく、あとになって成功への道筋をつけてくれたものだということがよくわかる。

 失敗は成功の元

 とは確かなことだ。でも、これは逆も真なりで、

 成功は失敗の元

 にもなる。ナウル国が国民1人当たりの生産高が世界一になったが、それが数十年後の今では糖尿と貧困の国になってしまった。

 成功と失敗は常にあとで判断されるもので、それをそのとき成功か失敗かを決めつけることはできないということだろう。

 しかし、より正しく失敗か成功かを判断するには数十年先の出来事を予測したり、数十年前の出来事を反省してみるから可能であろう。

 物事の判断は時間的にも空間的にも広い視野に立ったものがより正当であるということは確かである。判断する内容によって、それをどのくらいの期間とどこまでの地域において、失敗から成功かを決めることが可能になる。

 そのため、狭い視野のとのときの失敗か成功かはわからないことになる。

 それにしても、今幸せだと、過去の失敗はみな幸運な出来事に思えてくる。

 幸せには失敗という文字はないのかもしれない!

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種の永存欲求の方が自己の生存欲求よりも強い事実

 一体、植物は人間に食べられたいと望んでいるだろうか?

 どんな生物も生きたいと望むはずである。食べられたい、殺されたいとは生物である限りありえないことであろう。

 生存の欲求が一番強いのが生物の基本だからだ。

  しかし、エデンの園のりんごの木のように、人は食べたくなるように、おいしそうにリンゴの実が実るのはどういうわけだろうか?

 それは自分の実(身)を食べて欲しいと望んでいるかのようにさえ見える。

 これは学校の授業で習ったように、人がりんごの実を食べると、その種を他の遠くに運んでくれ、新しくその種からりんごの木が生まれるという、「種の保存」というより「種の継続」のためだと思える。

 つまり、人が永遠の命を願ったり、生まれ変わりを信じたり、また愛する人のために命を捧げようとすることと同じ命の永続の願いではないだろうか?

 どんな生物も自己の命よりも、もっと大きな種の命を望んでいる。人でいえば、自分の命よりも人類という種の命の継続を望んでいるといえる。

 昔、海でクラゲがたくさん浮いていたので、それをとって海辺に捨てていたら、一匹のクラゲが怒って私に向かって襲ってきた。どうみても勝ち目がないのに、そのクラゲは自分の身を捨てても、クラゲの種の命を守りたかったのだと思い知らされた。

 「一寸の虫にも五分の魂」とは、まさに「種の永存」の力であろう。

この種の永存欲求は自己の生存欲求よりも強いというのが自然の摂理である。そのため、世界各国がどんなにもめようと、最後にまとめる力は人類という種を守ろうとする環境問題であることがわかる。

 もし、宇宙戦争が起きたら、地球人類は一致結束して人類という種が永続するよう戦うだろう。人類同士が今までどんな敵同士であっても、そうなるはずだ。

 畑をどのように作るか、まだ考え中だが、今、「種の保存・永続」という視点で、循環させてみたくなった。

 つまり、今まで生ゴミから堆肥をつくって野菜を育てようと思ったが、それだけではまだ循環できない。野菜を育てるには種がいる。苗木もいる。

 そこで、野菜や果物の種から育て、実がなったら、次の野菜果物の種と、食べて生ゴミにする堆肥とに分けて循環生育させていくシステムをつくりたくなった。

 こうした小さな自給自足の食べ物の永続的な循環がうまくできるか試したくなったのである。

 そこで、野菜や果物を買ったら、そこから種や一部から、新しい野菜や果物を作り出すようにしたくなった。

 つまり、全部食べないで一部を再生し元の野菜や果物に再生するマナーを育てたいのである。

 アイヌ民族が狩猟するさいに、必要な食べ物だけ食べて、それ以上はけして狩猟しないで、その食べ物環境を守るという伝統とおきてと同じである。

 種の永続をどんな生き物も、自己の生存欲求よりも望んでいるという事実から、それは自然のおきてであり、自然の心理学という科学でもあるだろう。

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水回りは金回り、金回りはエネ回り

 道路工事をしていると、排水路にビニールシートなどのゴミが埋められている。そのため、そうしたゴミを掘り出して、排水をよくする工事が中心になった。

 ここの中古住宅で一番困難なリフォームだったのが水回りであった。それが家の外の畑でも、その水回りに問題があって、排水がうまくいっていなかった。

 ここは段々畑なので、粘土層が多く、水がたまって歩きにくくなるし、湧き水も多く出てくる。大雨が降ったあとに、その水の流れを見ながら工事をしていった。

 排水路に水がたくさん流れるところは、ビニールハウスの中の畑全体に水がいくようにし、全体の排水をよくするために、斜面にそって地下の水が通れるように、それを遮断していたゴミをとりのぞき、中くらいの石を敷き詰めた。そうすることで、石が粗い網の目のようになって、水が流れる。

 そこで気が付いたのだが、

 ゴミがたまったり、ゴミ問題が生じるときは、人の血管がつまってしまうような経済や環境問題が起きてくる。

もし、ゴミがゼロになって、生活の水回りがしっかりするなら、実に過ごしやすい感じになれる。

お金もまた人の血液や生活の水と同じく、しっかりと循環しているかどうかが、暮らしやすさである。

お金があるところに異常にたまったり、枯渇したりしたら、それはお金の循環がつまった状態である。そのときはゴミとおもえる無駄遣いや金儲け競争がされているように思える。

 U字溝をしきつめて、湧き水を集め、下水に流している一方、水道を電気ポンプでくみ上げ、その水でビニールハウスの野菜に水をあげている。そうした前住人の水回りには大きな矛盾を感じていた。

 水回りは金回りである。

 水回りに無駄があると、金回りにも無駄ができる。

話が変わるが、これから地球は氷河期になっていくので気温が下がってくる。それは太陽の黒点の多さで観察されるようだ。

テレビタレントがそれを話した先生に、

それなら、CO2が多くなって温暖化するなら、氷河期の寒冷化と合わせてちょうどよくなるではないか

と質問した。誰でもそう納得すると思うが、その先生はエコについてこう答えた。

温度が上がることが問題ではなく、有限な化石燃料を使って枯渇すること問題なのです

つまり、

 温暖化が問題ではなく、資源特にエネルギーの循環がされるかどうかが問題なのである。また、酸素とCO2の循環も問題になるだろう。

 化石燃料は燃やすから循環しないのである。化石燃料を燃やさないで、金銀銅鉄のような金属として、リサイクル循環をしていくようにすれば枯渇しないし、CO2もほとんど削減されるだろう。

 燃やしていいものは、草木などのような資源が枯渇しないものに限ればいいのではなかろうか。

 金回りはエネ回りである。

 ともいえそうだ。

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お金が信用からなっているならそれは宗教である

 昨日から5日間全ブース借りていたお客さんが当日の午後1時になってキャンセルした。

予約金も約束の日付をのばされて当日になってしまった。そのため、キャンセル料がかかることをつげたが、99%支払うことはないだろう。そうした失敗経験は何度も受けているが、ちょっと注意散漫だと、だまされてしまう。

 そして思ったものだ。

 お金の実態は信用創造による信用貨幣(借金システム)が90%である。今回の子ども手当にしても国債という借金をして支払うのである。

 会社の倒産も、借金が返せなくてそうなる。銀行だって、自分にお金がなくても、日本銀行から借金して、その金で国民に貸している。

 借金は必ず利息を付けて返金しますという約束からなっている。金儲けがたくさんできる株式だって、借金の変形である。金融商品のすべてが、信用度のランクでその利息が違ってくる。

 お金が信用から成り立っているということは、経済生活もまた信用から成り立っているということである。

 信用と信仰とは本質的には同じものである。

キリスト教は、イエスを 「信じれば救われん」というのが基本である。

 マルコによる福音書 / 16章 16節

信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。

 パブテスマというのはイエスが復活したことを信じるというものである。歌のゴスペルという意味Gospel”とは英語でGod Spell(神の言葉)=Good Spell(良い知らせ)が変化した言葉であり、「イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪の身代りに死んでくれて、そしてよみがえられた。この方を信じれば救われ、天国に行けるということが良い知らせ=ゴスペルである。

 人間が生まれ変わること、人間が神様になれること、またその神人がキリストであることを信じてはじめて通用する信用社会である。これは仏教でも同じで、釈迦が仏陀であり、すべてを悟った人であると信じることを基本にした社会である。

 こうした宗教と同じで、借金システムにより信用貨幣は「お金を貸したら必ず利息を付けて返す」という約束を信じることを基本にしたものだ。

 もし、キリストを信じなくなれば、キリスト教社会を離脱することになり、釈迦が悟った人でないと信じなければ仏教は通用しない。

 借金を利息をきちんと返す人は信用され、救われ天国に入るが、そうしないと罪人になり、地獄におちる。

 科学は事実から基づいたものなので、計算を間違わなければ月に人を運ぶことができる。しかし、借金を利息付きで返金できるかどうかは、その人の意志に依存するだけで、確実なものではない。そのため、宗教社会のように、借金を返すことが道義であり、法律であるというのが政治経済社会である。

 つまり、今のお金のシステムは宗教の信仰システムとなんら変わりがない、不安定な「信用」から成り立っている。それは砂の上に家を建てるようなもので、ちょっとした災害にあればすぐに崩れ去ってしまう運命である。

 そのため、借金システムをしないように、店の経営を前払い制の予約にしていたが、それでもつい相手の言葉を信用してしまう経営をすると痛い目にあってしまう。

 宗教から科学に向かった世界歴史のように、言葉の信用とう不安定なものから事実という確実性が高いものを基本にした貨幣システムを築かないと、経済は安定しないだろうと、人間関係も不穏になってしまうだろうと思うのである。

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