テレビが数十チャンネル映った

地デジのテレビを買ったら、BSやCSのたくさんのチャンネルが観られることがわかった。

前の住人のBSパラボナアンテナは、よく映ったり、映らなかったり、天候や時間帯で、変わっていた。CSにいたってはほとんど見えるチャンネルはない。

テレビを買うと1週間は無料でスカパーがみることができ、無料体験の申込をすると、16日間観ることができる。

ケーブルテレビではBSはアナログに変換して放送しているが、それも来年の7月に地デジ放送が切り替わるとそれができなくなる。それで、やはりパラボナアンテナが必要になる。でも、月500円払うとそのチューナーとリモコンがレンタルになって観られるという。

BSもCSも画像がデジタルと同じくらいきれいに映る。でも、前の住人のBSアンテナに疑問が残ったため、ホームセンターで丁度7800円を4800円でBS、110°CSを特売していたので買って2階のベランダに取り付けて設置した。

すると、BSもCSも見事にすべてのチャンネルが数十もみることができた。

どうやら、アナログ用のBSアンテナとデジタル用のBS・CSテレビアンテナはピンポイントで受信するように違っていたのだ。

テレビ屋さんが言うには、ビデオデッキで録画できるのは、来年の7月までと。テレビだけでなく、ビデオデッキまでもそうだとすると、これはお金がかかるなあと思った。(でも、ネットではできるようなことが書いてあったが・・実際はどうなんだろうか?)

それにしても、時代はどんどん進んでいる。

地デキ放送をすべてBS・CS放送と同じく衛星を使って放送すれば、ケーブルテレビもUHSアンテナもいらなくなる。さらにいえば、すべてのテレビ放送を光ファイバー回線で流せれば、ネットと同じくなるので家庭用のパラボナアンテナもいらなくなるだろう。

CSのスカパーをいろいろ観られるけれど、映画や音楽番組はつたやのようにみたい番組を選んでいつでもネットで選べるようなものが主流になるような気がする。唯一、スカパーがi生き残るにはスポーツ中継のような生放送のような気がする。

ネットも、IPADをもっと進めた無線ランで、携帯回線を使って高速でアップダウンできる方向になっていくような気がする。

そうなると、携帯電話もネットも一般電話もテレビもみな一つになってしまい、低料金ですべてが一定料金で可能になるのではないだろうか。

1週間前ではテレビは山梨放送とNHKとBSの合計5チャンネルしかみられなかったのに、今では100に近いチャンネルをみることができ、その画質も何十倍もきれいに映るようになった。まさに文化的ショックを感じている。

知る世界と知らない世界では圧倒的に情報量に違いが出てくる驚き体験をしたようだ。

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川を作った

 川といっても溝であるが、段々畑の家だと、段々になっている石垣から湧き水が出る。それをそのままにしていると、大雨が降ると家は水浸しになって、家はすぐに傷んでしまう。

 テントを設置するときに、まわりに溝を掘って雨水の浸入を防ぐことと同じである。先人はU字溝でその湧き水を集め、家の玄関横に流すようにしていた。でも、それでも大雨だとそのU字溝があふれてしまうので、さらに小さな溝を作って水を流していた。

 そんなことは知らずに私はその溝を壊し、果樹を植えようとした。先人にいわれて、それもそうだと、もっと本格的に溝を作って家に水が進入しないようにした。

 ここの土地は粘土質なので硬くでしようがない。つるはしがないので、大きな釘抜きでそれを代用して溝を掘った。すると、最終的に水を流す場所は先人の先人が作ったと思えるような大きな溝につながった。

 何か、川を作っているようで楽しくなる作業である。たぶん、鉄道模型の線路を造るようなものと同じ気分なのだろう。

夕方になって一段落したので、畑から見渡せる夜景を見入ってしまった。

 写真も久しぶりにとった。心の余裕ができたのかもしれない。

植えたさくらんぼから見える夜景

それにしても

 畑に何を作るか、どう作るのかが、さっぱりうかばない。

 失敗を恐れずにどんどん思いつくことをやってみたい。

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自然循環を目的にすると善悪・美醜の境が消えてくる

 昨日、前の住人から、ビニールハウスの中のブロッコリーにアブラムシがたくさんいるとあわてたかのように告げられた。

なんでそんなに大変なことなのか?

当方はさっぱりわからない。アブラムシということは小学生のときに習ったことはあるが、実際どの虫がアブラムシなのかも知らなかった。そこで、教えてくれたNさんに、どれがアブラムシなのかを教えてもらった。2種類あって、羽がはえているのとないのとがあるという。

アブラムシ

 羽のあるアブラムシについては

「・アブラムシの数が増えすぎ、吸収する養分が不足すると、ホルモンの分泌により羽を持つアブラムシが生まれる。
・羽を持つアブラムシは飛び立ち、別の場所で、またメスになる子虫を産み始める」

 とある。

羽がはえているアブラムシが飛んで他の作物に害を与えるため、まるで感染症のような怖さなのかもしれないと、その驚きの意味がようやくわかってきた。

 ちなみに、丹波山でよくみた雪と間違えた雪虫はアブラムシの一種で「トドノネオオワタムシ」というらしい。なぜか、羽のはえたアブラムシと雪虫が同じ種類の虫とは感慨深いものがある。

 そのため、1畝(セ)・・1アール・・30坪・・全体に小さな黄色い花を咲いていた背丈1m以上もあるブロッコリーを抜き取って、果樹を植えようとする場所にまき堆肥にすることにした。

 私が果樹を植えようとするところは土が硬く、スコップが入っていかない。そこで、振動ドリルで石を砕くようにして、穴をあけ、そこをスコップで削り落とすことにした。すると、どうも粘土質の土でそれが乾燥して固まっている感じが全体になっている。

 そこにはほとんど雑草が生えていない。そして、あさく10センチくらいの下にビニールが敷かれていた。

 そこで前の住人のNさんに、

どうしてビニールシートを敷いて、その上に土を築いたのか、聴いてみた。

 すると、土を殺菌消毒して、雑菌や雑草の種を取り除くため、猛毒な農薬をまき、それが水で流れ落ちないようにしたという。

 そして、その殺菌消毒した土と堆肥をまぜて、花の鉢植えの土を作っていた。その土や堆肥は4トンあたり、1万から2万円で大量に買って、作っていた。

 私たちが花の鉢植えは、「土と堆肥と農薬と1つの種」を買っていることになる。

同じ場所で、そのビニールシートを敷いたところの土は焼いた粘土のように固くなっているが、敷いていないところはスコップが入るくらい柔らかかった。

私の推意では、ビニールシートと農薬でその土地は空気と栄養と水を奪われ、死滅し、石になった。それは植木鉢のような乾燥したブロック岩石になったと思える。

ここに果樹を植えようとしたら、ビニールシートを取り除き、水分と空気と堆肥で生きかえさせるしかないだろう。そのため、つるはしを買って、固い石のような土を砕いていく必要がありそうだ。

一方、まわりではブドウの木に大量の農薬をまいていた。

ふと思うのだが、こんなに農薬を使わなくてはいけない農業は何かを犠牲にしている。とくに、日本人の死亡率がもっとも高いガン発生と深い関係があるような気がする。

もちろん、そんな因果関係は証明されていないが、何か自然からの逆襲を受けそうな気がするのである。

悪菌と善菌の境、美しい花と醜い花の境がどうも見えない。人が目の前の欲望がその境を作っているような気がする。

1畝の休耕畑には一面に紫の雑草が生えている。それをネットで調べたら、ホトケノザという名の雑草のようだ。

「ホトケノザですね、一面だと綺麗でしょうね^^ 綺麗ですし、残肥の分解にもなりますし、今は置いておいてもいいと思います*

でも畑の準備のときには抜きますよね、普通・・。根の深さが競合しない野菜だったらコンパニオンプランツになることもあるようです」

 それにしても、「ホトケノザ」とはとてもすばらしいネーミングだ。

ホトケノザ(仏の座)  シソ科 
別名:サンガイグサ(三階草)
花期:春

 花の下にある葉は茎を包み込むようになっている。これを仏の蓮華座に見立てた名前。別名のサンガイグサ(三階草)も,花が数段につくことによる。春の七草のホトケノザはタビラコのこと。 

 この雑草は花屋でもちろん売っていない。でもきれいな小花だ。花屋で売っている鉢植えの花とそう変わりがないようにさえみえる。

 どうやら、人間の目の前の欲望の視点から世界をみるか、地球の視点からみるかで、善悪・美醜・損得が大きく違ってくるようだ。

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果樹を植えることにした

 引っ越しとリフォームの日々で、河川敷の畑がおろそかになっていたので、どうなっているか見に行った。

 なんと、雑草に覆われて、野菜は花を咲かせてはいるが、圧倒的に数が少なく、収穫できるものではなくなっていた。

 雑草に負けないような強さの野菜を作ればいいのではないかと思い、その野菜やハープを探すことにした。

 収穫といえば、昨日、以前の住民の畑のビニールハウスにあったえんどう豆を収穫して食べた。ビニールハウスのほとんどはブロッコリーで、花がたくさん咲いていたが、食べられるところはほとんどなかったが、ほんの半坪のところに植わっていたエンドウ豆だけが食べられただけである。

 私はサヤ付きで食べられるキヌサヤは少なかったが、家族の夕飯のおかずで、肉と一緒に油でいためて、卵をかけておいしくいただいた。やはり、収穫したては歯ごたえと新鮮さがあってひと味もふた味も違うようだった。

 河川敷の自分が作ったエンドウ豆は雑草にまけて実がなっていなかったので残念だ。エンドウ豆はやはり支柱を立てないと、地中をはう感じで実がなるようだが、それだと実のできがばらけて、調理がしにくくなるように思える。

  畑には雑草対策が一番必要のように思える。

 昨日、サクランボの苗木を1本植えたが、何か寂しそうである。父母の記念樹ではあるが、何も樹木葬とするから寂しくなるのだと思えた。人は樹木になるよりも、人は神仏のように未来の子ども達を守り育てる存在になった方がより役に立つような気がしてきた。

 つまり、樹木葬をやめて、山葬に変更した。御山自体を先祖の山のように扱えばいいのである。樹木だと人のようだが、山だと神仏のようになれるではないか。

 母が生前言っていたことがある。

「もう人は嫌だ。神様になりたい」

 そのときはその意味がわからなかったが、いわば自然回帰への心だったのだろう。

 雑草に負けないように成長するには、その背丈が高い果樹の方が栽培しやすいように思える。偶然にもここ山梨はフルーツ栽培の盛んなところである。まわりはブドウとモモ園ばかりである。

 そこで、家の周りのすべていろいろな果樹を植えてみたくなった。先祖はこの大地そのものになってもらうことにして、果樹園そのものを先祖の記念山にし、その山の中で生活する子どもや孫が今の自分の家族になるようにしたくなった。そうなれば、先祖の大地に守られて健やかに育つことができるようになるではないか。

 考えてみれば、我々の先祖は地球そのものとした方がより効果的な自然循環になれ、人々の和も広がってくるような感じがする。

 先祖とか、死後の世界をもっと別な角度から観られるようにしたい。

 つまり、

 人は死ぬと自我が無くなって、公の我・・たくさんの我・・・になるといえるのではなかろうか?

 もし、自我が生前のように残しておくと、永遠の自我のような幻が生じ、霊とか、魂とかになって、人間関係をややこしくするように思える。

 人の心はほおっておくと、つくづく雑草のようなもので、食べられ人の役に立つような野菜の生長を妨げる。そんな悪さをする雑草も秋冬になれば枯れて、大地になるように、人も死んだら、大地になって自我が消える世界だと想定した方がいいだろう。

 先祖の名前は子孫や友人の心の中のメモされればいいだろう。

 自然に名前はない、地球には名前がない、不名草樹であり、あの世とはこの地球のことだったのだ。

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40インチのテレビを買った

 CATVがつながった記念に地デジのテレビを買うことにした。近くのケーズデンキに娘達をつれていって決めることにしたのだが、私は最初26インチのテレビが今までよりも一回り大きいので丁度いいかなと思って、そのコーナーばかりみていた。

 もっと大きい50インチのテレビがあるコーナーは娘が言われて気が付いた。娘達は40インチか42インチがいいという。というのは、部屋の広さにあった大きさのテレビがいいというのだ。リビングの広さは16畳もあるので、それくらいが丁度いいというのだ。

 値段をみたら、13万円から18万円くらいする。私はその中で最後の一点だというので、店に展示してある40インチの一番安い138000円を選んで子ども達を納得させた。ソニーのブラビアとかいうものだった。

 すぐ持って帰ろうとしたら、設定がとまどうので、お届けがいいという。昔の24インチのブラウン管(便利屋時代のお客のゴミだったものだ)の廃棄料が3000円くらいだが、今は廃棄する3000円のエコポイントが付いてきた。

 さらに、40インチのテレビには23000円のエコポイントがついて、結局26000円の値引きがされた計算になる。エコポイントは申請することによって、どこでも使えるギフト券がもらえるという。そのギフト券でスーパーの食料品も買えそうである。

 車で138000円、テレビで26000円のエコポイントである。これは結局税金から政府が援助金になるのだろう。景気対策と省エネ対策のお金だが、けっこう大きな金額である。

 こんな高いテレビを買えたのは、娘達が家の手伝いのアルバイト料を辞退して、このテレビ代金に充てたからである。

家に帰って、つくづく生活ランクがかなり上がったことを実感した。東京では家賃も高くて、こんな大きなテレビを置いたら邪魔でしようがないが、田舎では生活スペースになんでも余裕がある。

16畳のリビングにしても、キッチンは6畳くらいあるカウンター式だ。調味料をコンロのまわりに全部並べてもさらに余裕がある。

冷蔵庫だって、2台並べておいても余裕の広さだ。

  この家を買うにあたって、2件分を1つにするということにしたのだが、生活用具はすべて二倍あったが、その2倍収納してもまだ余裕がある家だった。

 昔、インドに始めて行ったとき、ちょっとしたお金を持っているだけで、王様のような金持ち気分を味わうことができたことを思い出した。日本では小市民でも、インドでは王様になれるのは経済格差があるからだった。

 それが都会と田舎の関係でもいえることで、東京で貧困でも、山梨では金持ちの生活ができる。例えば、東京の1dkで10万円の家賃だが、山梨では4LDKで10万円である。

 つまり、生活を豊かにするには、都会で仕事をし、田舎で生活するのが最も効果的である。それは海外でもいえて、経済格差が高い先進国で仕事をし、経済格差が低い途上国で生活するといいことになる。それは老人が安い年金でも、途上国や貧困国で老後をおくれば王様気分になれるということでもある。

 それにしても、私は偶然にも運がいいのかもしれない。つい3年前には東京の家を35年ローンで7000万円建てようとしたが、その契約の印鑑を押す直前で、キャンセルした。もし、それを実行していたら、今は小さな2DKの家族部屋で、24インチのブラウン管で我慢し、ローンに追われた生活をしていたかもしれないと思うとぞっとした。

 お金は貯めるよりも、どう使うかが、大きなポイントのようだ。

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