親の一番の宝は子どもたちの夢

 昨日、オーム真理教に殺された被害者の視点からのドラマがあった。

 そこから、人は何を引き継ぐかということである。無惨に殺されても、その死をけして容認しないで、あたかもその被害者が生きているかのようにして、次の時代を築いていくのである。人はけして犬死にを認めないのである。人の心は神のように気高いものだからだ。

 東京生まれの私は両親が亡くなってから、その墓や故郷づくりを求めてきた。そして、その最終地は自然にあった、しかも、それが特定の土地にすることは一時的にはできたにしても、長くそれが引き継がれないことが明確になってきた。

 あえて、自分の家族の墓や故郷を指定するならば、この一つの地球であるということだ。

 というのは、人の死とは自己の死であり、あの「千の風になって」の歌のように、人は最終的に千の風や大空になって、自己と他の境がなくなるということである。家族の境はおよそ三代が平均で、それ以上になると、家族の境は消えて、社会的つながりになってしまい、血縁よりも、友人のつながりの方が大きな存在になるだろう。

 つまり、どんなに自己を主張しても、三代で終わりを告げるということだ。その先は社会や自然や大空であるということになる。こうなると、自己という存在を自己の肉体や家族に限定することは百数十年も続けばいいだけであろう。

 そこで、命の遺伝子が引き継がれることが目には見えないが大事になる。しかも、肉体の遺伝子は血のつながりで、その血はどんどん薄められ、その永続性には限りがある。永続性に価値をもたせるならば、「心の遺伝子」がもっとも大事になるのである。

 心の遺伝子は血の遺伝子ではなく、友愛の遺伝子である。友愛でもっとも自然や社会や命の世界で気高いのは「無償の愛」であろう。自分の命を捨てても愛する人の命を救う愛が最も優れた心の遺伝子になる。

 そして、その無償の愛は未来への遺伝子・バトンでもある。そのバトンこそ、生きる欲求つまり愛する人の夢や希望である。

 夫婦や親子や組織が一体感を持つことができるためには、共通の夢や希望を持つ必要がある。それがないと、その間はバラバラになってしまう。そのため、この共通の夢が心の遺伝子を具現化したものだといえよう。

 そこで、自己の三代の限りと、永続性のある心の遺伝子をまとめてみると、親が子の夢を応援することが、もっとも大事な墓や故郷づくりになりえるということだ。

 それは、人の心の遺伝子は愛する人の夢や希望の中に引き継がれ、大きく育っていくというなのだ

 それにしても、うちの子どもたちの夢がまだ大きく育たないのが一番気になるところだ。

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ドミンゴよ、さようなら

 今日、16年間走り続け、187300キロ走った平成6年のスバルのドミンゴを廃車する。ユーザー車検を4ヶ月前にとったばかりだが、政府の補助金の12万5000円につられて、娘が欲しがるダイハツのタントの新車に入れ替えるためだ。

 このドミンゴは友人から、4年前に25万キロ走ったスバルの軽トラ(やはり同じ友人から20数年前に購入した)と交換したのだが、エンジンや電気系統やオイル漏れがあったが、なんとか4年間余り乗っていた。でも、次の車検までで廃車せざるをえなくなると判断した。

 もちろん、娘が欲しがった中古のホンダのザッツを神奈川の足柄山まで娘の運転で見に行ったが、車検が1年半ついて35万円だとネットと書かれてあったが、総価格は50万円だと現地で知ってびっくりした。見かけは7万キロ走行して、外装もきれいだったが、修理歴があったので、そこがどこかと聴いたら、後ろのドアを全部交換したとのことだった。従業員は誇らしげに後ろのドアを開け、しかも、座席のシートをはずして、補助タイヤをも見せた瞬間、私も従業員も唖然としてしまった。

 なんと、たくさんの水がそこにたまっていたからだ。このままで乗れるはずはないことがあきらかだった。その原因を予想することは簡単だった。従業員はドアのパッキンを交換すれば治るというが、そのパッキンは新品だった。これは明らかに後ろから追突された車両で、その車体本体がゆがんでしまい、その車体のゆがみから雨水が浸入してきている。そのゆがみはそう簡単には治らないことは確かだろう。

 そこで、修理は無理として、値引きを交渉したら、5万円まけてもらい、45万円にしてくれた。でも、それでも高すぎるので、その購入をあきらめた。それから他の中古販売会社を見に行ったが、やはり、軽自動車は高く、新車のエコ減税と補助金で新車の方が長い意味で、得だと判断した。

 ドミンゴを廃車すれば3万円ほどかかるのに、新車を買えば、その補助金12万5000円もらえる政策に乗ってしまった。新車でも、一番低いグレードだと加速をつけるCVCがつかないので、減税(車両税)21000円対象にならないが、CVCがついている車が10数万円高いので、割安感がない。

 政府のエコ政策は少しのCO2排出を減らすため、金持ちが金を使うほど減税率も高くなるように思えてくる。何か大きな矛盾があるようで変だ。

 つい1週間前に廃車が決まったドミンゴの運転したら、左右の方向指示器が点滅しないのであせってしまった。これでは危険きわまりないので、すぐに車を止めて、エンジンをきり、またつけて、方向指示器を検査し、数回試すと回復した。

 私には、車がダダをこねているようで、自分の死を予感し、悲しみを表現するような生き物にさえ見えてきた。機械に感情がないとはいうが、どうも、それはちがっているかもしれない、機械にも感情があるのかもしれない。

 ドラマで、人間の命をバッテリーとしてとらえたものがあった。人は機械になれるように、機械も人のようになれるかもしれない。

 このテーマは、昔からある。

 神は自分の姿に似せて人を創ったが、神は創造物を完全に支配することはできなかった。むしろ、人がその神を支配するようになったという歴史を感じる。

 こうした創造者が創造物を絶対優位に立つことはないということではないだろうか。

毎週土曜の夜中にターミネーターが放送されるが、創造物であるコンピュータに創造者である人の生死が管理されてしまう社会の怖さを表現しているが、それはまさに創造者が自分の創造物に支配されるいるという現実を表している姿なのかもしれない。

つまり、

ひょっとしたら、次の原則が真実かもしれないということだ。

「創造されたものは、それを創造したものを駆逐する」

親は子を産むが、子はいずれ親を支配するともいえるからだ。

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畑に家を造る

 引っ越し先の相手が引っ越し、いよいようちの引っ越しも近づいた。どこまで片づいたのか見に行ったが、最終契約までにはとても住めるようにはならないことが判明した。

 かなりのリフォームと清掃が必要だった。しかし、3月末までに丹波山の家を引き払うようにしていたため、その荷物をどうしても新居に運び入れなくてはならない。

 これを予想して、塩山のアパートの方で4月末までの引っ越しにしたので、生活に支障はなかったが、予想外は、丹波山のたくさんの荷物を新居に置いたら、リフォームや清掃がしにくくなる。

 そこで、ビニールハウスを一つ残してもらったので、そこに1ヶ月間そこを物置にしようと計画した。

 そのとき、「畑に家を造る」という発想が生まれた。

 最近都会ではマンションの中で、小さな植木鉢でいろいろな野菜を栽培して楽しんでいる。家の中に畑があるようで実に楽しい気分になれる。また、銀座のど真ん中で、まったく土を使わないで、電気と水と肥料だけで、野菜ビルが作られている時代でもある。これらはみな家に中に畑を作る発想だが、私はその逆の発想をした。

 畑の中に家を造ったらどうだろうか?

お金の問題解決も、生産とお金の大事さを逆転させることで、新しい経済の道が見えてくることと同じである。

人間が主か、自然が主かという根本的な生き方がここに問われるのである。

動物園は人間社会の中で、動物が檻の中で暮らすが、新しい自然動物園は動物社会の中で人間が車の檻の中で行動することで、迫力のある楽しさが生まれる。

そこで、サファリパークのような発想で、畑の中に家を造れないかという試みをしたくなった。家の中で住むのが大事ではなく、畑で野菜を育てることが中心になれるような家の設計をしたらどうだろうか?

ビニールハウスの中心に畑を残し、そのまわりに家具や生活道具を配置して生活できる空間をつくれるようにする。それにあった家の設計を組み立ててみる。簡単にいえば、中庭が畑になるように家を造るということだ。囲炉裏のある家はとてもくつろげる家のように思えるように、キッチンも、畑の中でバーベキューをするようにしたら、何かとても豊かな生活ができそうな気がしてきた。

 畑は植物を、家は人を育てる

 その根本は自然が人間を育てるということではないだろうか!

 お金のシステムを自然のシステムに適応させるには、こうした実験がかかせないように思える。

 

 

 

 

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理解が心を創る

▼ 知と愛

 学生のころ、ヘルマンヘッセの「知と愛」の小説を読んだことがある。知的な人間と愛情豊かな人間の生き方とその友情を表現したものだったが、たまにこの対照的な二人を思い出し、知と愛の関係について、考え直すことがある。

 当時から、知と愛は双頭の鷲のような平等の関係にあると思っていたが、最近、そうではなく知の方が愛より上に立っているように思えた。

 戦争を知らない子どもたちの世代である私は世界の価値観がもっとも高いのが「愛」であるように教育されてきたように思う。そのため、すべてに愛を優先して考えてきたが、ときどき、その矛盾に悩まされることがあった。

 とくに、サイババの「世界の宗教は一つ、それは愛の宗教」という言葉にいちころだった。でも、それが不可能であり、インチキ宗教を創り出す言葉の誘惑だった。

 キリストの「右の頬を打たれば左の頬を向けよ」という愛だって、キリスト教国と思われる国の歴史はまさに十字軍や米国のやり方は正義をふりまわし、「弱肉強食」の軍隊で制圧してきたのはどうにも解せない。

 第一、科学的ものの見方や教育をうけた人間が、オーム真理教のようなテロ集団の幹部で毒ガスをつかって無差別殺人をしたのも解せない。彼らはポア(殺す)ことで、相手を救うと本当に思いこんでしまったのはどういうわけだ!

 お金のシステムにしても、国民の生活を守るべく生まれたお金の発行をどうして国が行わず、一部の銀行に独占的権限を与えるのか、しかも、国が金持ちに借金して、その利息を払うことに対して、どうして疑問を持たないのか?

 どうあがいても、同じような人間なのに、片方は1時間で数億の収入を得、片方は時給数百円しか得られないようなお金のシステムに、何の疑問ももたずに、それが正当であるかのように従ってしまうのか?

 宗教には洗脳とか、催眠術のような、自分の意志とは違う教祖や他人の意のままに動かされることがあるが、それがどうして可能になるのだろうか?

 キリストが生まれ変わるというように、亡くなった人間が生まれ変わると本当に信じることができるのはどうしてだろうか?

 ありえないこと、あったことが一度もなかったことを、人は信じることができるのはどうしてだろうか?

裁判において、冤罪があるが、誤解で相手を有罪に、ひどいときには死刑にしてしまうことがあるのはどうしてだろうか?

 この答えを今朝浮かんだ!

「理解が心を創っている」

 そう考えれば、これらの疑問が解けるのである。誤解にしろ、想像にしろ、真の理解にしろ、人は相手に対するどういう理解をするかで、その相手にたいする心が生まれるのだ。

 理解するとは知るということである。知るには正解も誤解もあるが、それによって、喜怒哀楽という心が生まれるのである。

つまり、知から愛が生まれる。愛から知も生まれるが、それは後からである。知から愛がまず生まれ、その愛がさらにその知を深めるのである。それは知が愛よりも上に在るということでもある。

 今までは世界の価値観がもっとも高かったのは愛だったが、これからの時代のもっとも高い価値観を「まず理解」にしていくことが必要になってくるように思う。

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お金はダイヤル

 丹波山村に来て8年たち山梨市に引っ越しすることになった。その最後の3月に私が過ごした8年間のうちで一番の大雪が降った。30センチくらいだが、近くの高圧線が雪で寸断されて、停電が18時間続いた。それまで、暖房設備が電気しかなかったので寒くてたまらない。そこで、厚着をし、さらに、せめてコタツを暖かくしたかったので、2つの方法を試してみた。

 大きな鍋に水をいれ、ガスで湯を沸かし、それをコタツの中に入れた。もう一つは木炭があったので、それをガスで燃やし、陶器の皿において、コタツに入れた。

 鍋湯たんぽの方がすぐに暖かくなったが、1時間もすれば冷たくなった。木炭は最初一カケラをガスで火をつけただけだったので、やはり1時間もすれば、火は消えてしまった。

 そこで、木炭の量を増やし、ガスで念入りにつけたら、その暖かさは停電が終わるまで続いた。そこで気が付いたのは、木炭が燃え続けるためには、一カケラではダメで、2カケラ以上ないと燃え続けられないということだ。木炭が燃えているところを観ると、2つの木炭のカケラが適当に離れていて、その間が真っ赤に燃えており、その外側は未だに燃えていない黒い背中のようになっていることだった。

 また、木炭の陶器の受け皿はそのまま置いたら、その熱電動がマダラだったせいか、爆発し飛散してしまったので、鉄のボールに仏壇の灰を入れ、そこに木炭を入れ、その下に陶器、さらにその下に木の板を敷いて熱が均等に廻るようにして成功した。

 電気が使えないので、光電話もネットもできない。携帯電話だけが頼りの仕事をする。すると携帯の電池が2本になり、1本になり、外とも連絡も切れそうになってはらはらしたが、そこで停電が回復した。ヤレヤレの1日であった。それにしても今の生活は電気に頼りすぎているように思える。

1.自立って何だ?

 「天上天下唯我独尊」とはいうが、我(自分)は尊く立つことができるのは、天上天下のまわりの人や世界の助けがあってだ。それは他のすべてにもいえることなので、唯我独尊が成立するためには、自他の協力なしにはありえないことであり、また、こうした唯我独尊という自立心は自他の協力そのものだとも言えるのである。

 自分が尊いのではなく、自他の協力そのものが尊いのである。そもそも尊いというような心は自他の関係でしか生まれないからである。

 自立とは協力心である。

 と言い切ることができそうだ。

2,お金の暴走をくいとめるには

 今やアメリカドルが世界共通の貨幣であることが、昨年の世界恐慌ではっきりした。お金はドルが基軸通貨として、世界のお金は一つになっている。
 もし、基軸通貨以外の通貨が暴走しても、世界恐慌にはならない。昨年のジンバブエのお金のハイパーインフレがあったとしても、世界恐慌にはならなかったのである。

 世界の経済を調整安定化させるには、それはダイヤルのように強弱できるようなシステムがあって丁度いいダイヤルシステムができる。

 世界の基軸通貨はドルを強くするダイヤルとすれば、逆の弱くするダイヤルであるもう一つの基軸通貨が必要であろう。

商品をガソリンとして、お金を車とすれば、車を動かすアクセルとして貯蓄できる今のお金と、動きを止めるブレーキとして貯蓄できない減価する貨幣が両方あって始めて、お金という車を安定して走らせることができる。

 先の自立心でいえば、自他の協力があって始めてお互いに存続できる状態にするには、現在のドル基軸通貨と、それがたとえ機能しなくなっても、他の基軸通貨で代用できるようにすればいいのである。

 政府でいえば二院政である。不況となったときに、地域通貨がそれに代わって流通できれば、経済は安定することになる。

 つまり、お金の暴走をとめには、そのお金がなくても他のもの(商品券や地域通貨など)で常に代用がきくシステムが必要だということである。

 そこで、世界の経済を安定化させるには、2つの基軸通貨を建てることであり、1つは貯蓄やギャンブル性のあるドルの基軸通貨と、もう1つは貯蓄しない分配性のある減価する基軸通貨が必要であろう。

 そして、各国のまた二種の通貨を持つ必要があり、貯蓄する通貨と消費する通貨をもつことで、国民生活を安定化させることができる。

3.お金はダイヤル

 お金のいらない国はとてもあこがれである。しかし、この理想はお金を一つとしてみてるからである。今のお金(日銀券)がいらない国ということでもある。そのため、お金のいらない国とは、「ベーシック通貨だけでもやりくりできる国」であるともいえるのではないだろうか。

4.お金は個性の燃やしあい

 1つの木炭は1人の人間であろ。

 木炭が燃えるとは生きているということ。

 1つの木炭では燃えない、2つ以上のの木炭で燃え続けられるとは、人は社会生活でないと生きられないということ。

 お金のシステムも1つでは安定した生活はできない。2つ以上の基軸通貨がある事が安定した生活ができる条件であるということだ。

 

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