自然はゴミゼロ、人はゴミ資源化

 中古住宅の改装はまるで家を新たに手作りするようなものだ。

改装の手順は

1,かたづけ

2.清掃

3,破壊または廃棄

4.新しく購入または創作

 である。そこで、この土地と家でやりたいことは、すべてのゴミを資源化する実験である。それは長年生ゴミを堆肥にして畑づくりをしようとしたことの延長である。

 清掃・改装するときにでるゴミや汚泥をできるかぎり資源化できないかを模索している。

 家の前の剪定した植木はそのまま土の上にまとめておけば時間がかかるが堆肥になる。燃やせば、その灰は土壌改良材と石灰の役割をする。石焼き芋や正月のどんど焼きにも利用できる。

 壁紙を張り替えようとしたが、その壁紙は紙とのりと塗料だから、土にまぜこんで、ときたまかきませればやはり堆肥になるような気がする。でも、壁紙はたんに汚れただけが多いので、それを清掃して、その上にさらに新しい壁紙を貼り付けるか、塗装すれば、壁紙の強度が増す。

 よごれた絨毯を取り替えるときに、粗大ゴミになるが、それも資源化すると、まず絨毯を洗い、そして、衣類用の染料で色づけすれば、また使える。でも、汚れがひどいものは、染色したものをいろいろな形に切って補修材やマットにすることができる。

 その最終地はやはり土と石であろう。土とは石が砕かれて、砂となり、さらに細かい粒子になった石である。そこの細かい石に動植物の養分が付着したものが堆肥である。

 絨毯は石油からうまれた繊維と部材と植物繊維とでできている。石油製品はその名のごとく、石として考え、それが油のように液体にも固体にもなって変形しやすい石として扱えばいいのではないだろうか。

 道路に使われるアサファルトも石油から作られる。大量を使われるアサファルトのように、石油製品の最終資源化をもっていけばいいのではなかろうか。絨毯もアサファルトと同じような庭の通路に使えないかと考えている。家は雨が降ると土がはねて滑りやすくなるので、コンクリートにすることが多いが、それを最終処分の絨毯でやれば、芝生のような感触になるのではなかろうか。人工芝もやはり石油製品ではないか。

換気扇もガスレンジも壊れていたので交換したが、その際、業者に必ず廃棄する換気扇とガスレンジも持っていってもらうようにした。そうしない業者はつきあわないようにする。

でも、やはり自分で処分する場合は、これを細かく破砕して、鉄とガラスとプラスチックやビニール類分ける。鉄は土に埋めれば錆びて赤さびとなり、砂になる。でも、セメントと混ぜて固めればレンガや敷石として利用できるように思える。

絨毯は強い布だとすれば、排水を濾過するものとして利用できるのではないだろうか。ここの浄化槽は古いタイプなので、トイレの汚水だけである。生活排水はそのまま川に流れるので、その浄化するのに絨毯が使えそうな気がする。ここは段々畑なので、わき水が多く、そのわき水を集める材料にもできそうだ。

 これからは、自分が出すものはすべてゴミとは思わず、新しき資源として考え創作していくことが、これからの自然社会との調和ができるのではないだろうか。

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ただいま改装中

 8年間山村留学した丹波山を3月末で転出した。「立つ鳥後を濁さず」とはいうが、私はもっと前向きにしたかったので、

飛ぶ鳥後をさらにきれいにす

 という気持ちで、引っ越し前よりも引っ越し後の方がさらにきれいになった状態で丹波山村に返却した。かなり、改装したので住みやすくなっていたはずだ。

 家というのは、住めば住むほどきれいになるが、誰も住まないとその家は埃がたまり、廃墟になる。

 そして、近所に余ったものをお礼に配って、お別れの挨拶まわりをした。そのときに、驚いたのは、私が大量に捨てた一部のゴミを拾って、使ってくれてくれた人がいたことだ。特に嬉しかったのは「あなたの思い出にとっておいた。もし帰ってきたら、返してあげるから」

 この言葉には涙が出てきた。私は今回の引っ越しの際、全部で4トン車くらいの家財やゴミを捨てた。その多くは便利屋時代に集まったリサイクル品であり、ヤフーオークションで売れ残った商品だった。その他はお店の新事業をする際に、失敗してたくさんの金を使い込んだものである。その一部は引っ越しする際にくばった100円の額縁もそうである。

 それから、丹波山名物であるのめいこい湯に入り、挨拶、そして、丹波山そばを食べ、丹波山コーヒーを飲んで、最後の挨拶をした。一生涯住むつもりだったが、8年で引っ越しするとは予想もしなかった。

 午後の夕方には、新居の近所の家の挨拶まわりをした。私の組は私を入れて9人おり、手ぬぐいが売り場でなかったので、センスのいいゴムつき軍手をその8世帯に配った。組長が私を紹介してくれて、本格的に住むのは、4月28日だというと、近所の祭りが4月29日にあるといい、そこではお神楽も舞うというのでかなりのものだ。

 そこで、、挨拶はジョークを入れて、「私たちの歓迎会を盛大に催していただきありがとうございます」と言ったが、すぐに理解されずに、すべってしまったが、組長がジョークの説明してくれて、笑みがもどったので助かった。

 翌日から、改装を開始したが、一番の問題は和室の壁が砂壁になっており、暗いイメージだったことだ。しかし、それが本当に砂壁かどうかを疑った。ひょっとしたら壁紙ではないのか? 破れたとtころがないので、やむなく、壁込みの電気のスイッチをはずして、壁の材質を調べたら、石膏ボードに砂を塗料でまぶした壁紙を貼ってあった。

 さっそく、その砂の壁紙を剥がそうとしたら、その紙がうすく、のりも強いので、ヘラでこすったら、石膏ボードまで削ってしまった。いじらない方がきれいだったが、もうとりかえしがきかない。そこで、蒸気で清掃できるリサイクル器具があったので、それで壁紙を湿らせて、剥がすことに成功したが、いっきに剥がせるわけではなく、6畳間を全部剥がすには、数日かかるように思えた。もし、通常の壁紙だったら、その上にさらに壁紙を貼ることができるが、砂の入った壁紙ではうまくくっつかないので、剥がすしかない。

 それにしても、こんな剥がしにくい砂壁紙を昔はよく作ったものだ、今ではそんな壁紙を売っているのをみたことがない。古民家改装ではないが、それと似たような中古住宅改装になるようだ。 

 ポストも自分で作ることにした。買ったら安いが、ポストは家を収縮した象徴のような気がしたので、縁を大事にする意味で、手作りすることにした。娘の案をとりいれ、赤い屋根に白い壁にすることにした。

 

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ただいま引っ越し中

 家の売買は結婚式と同じような一大行事に思えたので、その関係者の記念写真をとった。

 左から、銀行員(抵当権の持ち主)、不動産屋1 不動産屋2 売り主 買い主(私) 司法書士

 なお、写し手は不動産屋1の若手の社員であり、場所は現行のロビーの衝立をしただけの一室というよりはコーナーであった。

そして、今は引っ越し真っ最中である。

 引っ越しや家を造るのは業者まかせにしたくなかった。家族でコツコツを築き上げていくようにしたかった。それは畑は野菜を作るように、家は人を創ると思えたからだ。

 引っ越しは転出届けをして転入届けをする。その逆はできない。転出届けがないと転入届けが受け付けられない。これは、何か物事をするうえで、「古いものを捨てなければ新しいものは手に入らない」ということでもある。

 今回、生活の基本となるのが、住所であることが嫌というほど思い知らされた。それは人が自分が中心になるようなものである。人はほ乳類という動物であり、あらゆるところを移動できるのが特徴だが、人が社会的動物になるためには、植物的要素が必要になり、大地に根付くことが必須になる。それが住所を定めることになるからだ。

 家を借りることと、買うことはその家を使う権限が大きく違ってくる。家に対する自由度がまったく違ってくるからだ。家を借りていたら、それを壊して新しく改装することはできないが、買えばそれができる。

 今回、10年家賃を払って家を借りる値段と同じ値段で家を買った。同じ1000万円のお金でその結果はまったく違ってくる。貸借は自分のものにならず、売買は自分のものになる。自由度は天と地の差があるのだ。

 お金のシステムは中央銀行からの貸借から生まれている。所有権の移転ではないのに、事実上はお金を一番持っているものがその所有権を持てることになるという矛盾したシステムになっている。

  お金の権限を与えた国も、発行する中央銀行も、お金の所有権はなく、お金を持ったものに所有権があるというシステムはすべての経済生活はお金持ちに支配されるということである。人は生まれながらにして平等であると国が保証するならば、今のお金のシステムは根本から改める必要があろう。

 ビニールハウスの中に家財をつめこもうとしたが、その中は湿気が多く、家具がすぐにだけになることが判明したので、リビングに全部つめこんで、移動しながら、家を改装することにした。

 家を自由に壊すことができるので、改装が思う存分できるのがたのしくなる。それにしても、改装しがいのある家を買ったものだ。かなりのお金を覚悟する必要がありそうだ。

 

 

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直葬が流行

 今朝、テレ朝で「葬式は要らない」という本が数十万部売れており、「直葬」(ちょくそう)という聞き慣れない葬儀を紹介していた。この直葬という言葉はどうやら碑文谷創さんの造語で、それが社会現象化したようだ。

 彼が直葬を次のように解説している。

「葬式をしない葬儀の形態を言う。死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらうことはある。2000年以降に都市部で急激に増加した形態で、東京では15~20%、全国平均でも5%程度あると推定される」

 この根拠になったのが、

「日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国といえば巨大な祭壇、生花そして高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。どんな意味があるのか。」

 と、「葬式は要らない」という本に書かれているようだ。私の親の経験では費用は葬儀屋さんに、300万円は使った。結婚式とは違って、香典の合計費用はほとんどそのお返しと飲食代で消えてしまうからだ。戒名代は別に僧侶に対するお布施に入っており、30万円~60万円かかった。

 葬儀屋さんは祖父の代からの互助会という会員制で、20万円くらいの積立をしており、そこに電話するように指示されていたので、業者を選ぶ手間は省けた。その互助会というのがあったのは葬式に多額の費用が急に必要になるためだったのだろうと思える。

 それにしても、直葬が流行になったのは不景気のせいなのだろうか?

 ただ、直葬よりも、以前から家族・親戚だけの葬儀として密葬というのがあるが、その言葉がまた代わって家族葬という言葉になってきた。

 こうした家族葬や直葬が主流になってくる時代がやってきたのかもしれない。「葬式は要らない」という言葉が新しい価値観を指摘したので、その本が売れたのかもしれない。

 こうした時代の流れは、「お墓は要らない」ということで、散骨がまたこれから主流になりそうな気がする。それは、「千の風になって」という歌がはやったことも、人々が死後自然に帰りたいという気持ちに反映されているのではなかろうか。

 私が丹波山に住んでいたときにはとにかく年に数回の近所の葬式に出ざるをえない環境があり、しまいには、それが何か儀礼的に思え、出席をひかえるようになった。田舎では家族よりも近所の者を大事に扱われる葬儀になるので、それがまたえらい神経をつかうことになる。それが嫌で、近所ににらまれる方がその嫌さよりも楽なので、そうなってしまったようだ。

 もし、家族葬や直葬そして、散骨が時代の主流になったら、近所づきあいもかなり楽になりそうだ。近所つきあいは、死んでからでなく、生きている間にもっとしたいものである。

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評価が才能を育ても殺しもする

▼ほめるということ

 誰かをほめるということは、他の誰かを暗黙のうちにけなすことでもある。

 人はほめられて育つ場合、けなされて育つ場合とがある。

 逆にほめ殺しという言葉があるように、ほめてその才能が殺される場合と、けなされてその才能が殺される場合もある。

 そのように、人をほめたり、けなしたりすることは才能を育てるには欠かせないことであるが、常に逆に才能をつぶす危険性もあるということでもある。

▼ 評価するということ

 人をほめるということは、その人を評価するということである。評価するということは、いわばランク付けをするということでもある。ランク付けの基準は多数の才能の平均であり、その平均値よりもどのくらい高いか低いかで評価されることである。

 それは人の善悪や美醜や貧富にも適応される。

▼ 個性って何だ

  才能とは個性の極値をいうようなもので、他と自分がどのくらいの差があるかどうかを評価されるのが個性である。

 しかし、個性と才能とは違ったものとしてとらえられている。それは、個性はランクづけできなく、才能はランクづけできるという違いがあるからだ。このランク付けができるできないというのは、ランクづける基準(平均値)が同じか、違っているかというのであって、もし、同じランクの基準であれば、個性も才能も、同じランク付けすることになるということである。

▼ 自由競争って何だ

 評価なしには競争はできない。ランクづけなしには競争はできない。才能も個性も育てるには評価がかかせないように、競争も欠かせない。

 その場合、評価が多数の平均値が基準がなければできないように、基準がなければ正当な競争はできない。しかし、その平均値という基準は競争しあう者同士は同じ基準でなくてはならない。同じ基準でないと自由競争はできない。

 例えば、パラリンピック(半身不随paraplegiaと、オリンピックOlympicを組み合わせた造成語)選手とオリンピック選手が100m競争をするのは自由競争ではない。同じ条件で競いあうのが正当な自由競争になるということである。

 この同じ条件というのが、評価の基準になる。多数の平均値という基準よりももっと大事な基準である。

▼ 正しく自由な経済競争をするには

 同じ条件、多数の平均値という2つの基準が認められて始めて、評価や競争が正しく行われる。

 例えば、

 生まれたときの生活経済環境が同じでなければ、自由経済競争は正しくできないということである。親のいない子とリッチな家庭で生まれた子との間の自由な経済競争は成り立たないのである。

 そのため、今の社会における自由経済競争は不正なものである。

 これを正しい自由競争をして、人々の才能や個性を育てる評価と競争をさせるためには、同じ条件と、多数の平均値を定める必要がある。

 その条件と平均値を与えるのが、ベーシック・インカム(最低生存生活保証システム)である。

 その国民が最低な生活条件で生きていけるだけのお金の手当の保証である。ベーシック・インカムとは働かなくてもお金がもらえるというものではない。社会で正しく働くための条件である。ベーシック・インカムなしに、金持ちになったり、貧乏になったのはみな不正な自由競争をして成立したものであるということだ。

 国民の代表である国家が、数十兆円ものお金を金持ちに借り、利息を金持ちに払うことから、始まる政治は不正な経済自由競争をすることである。一部の金持ち国民と多数の貧乏国民という条件と、平均のない不正競争である。そこから、生まれた貧富の差は詐欺や略奪に近い犯罪から生まれたものと大差はないだろう。

 

 

  

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