金儲けから人助けに代わる時代の幕開け

数十年ぶりの友人がやってきた

一昨日、数十年ぶりに同年齢の今年68歳になる友人のIさんが山梨に車でやってきた。

ヤフーオークションのやり方を教えてほしいとの電話だったが、実際にきたのは別な理由であり、2時間くらい話し込んで帰っていった。

それはどうやら会った40年前と同じように、私への期待を猛烈に話し始めた。

先ずは

私がゴリラ便・・それは便利屋とゴリラの恰好をしてプレゼントを届ける会社・・を讃えることではなく、

ゴリラ便という誰でもが気軽に集まれ、泊まれ、時には徹夜で話し込んだり、一緒に飯を作り食べたりすることを無料でやってきて、そういうお寺がやるべきことを 私がずっとやってきたことを讃えることから始まった。

彼はそういう精神的な癒しの居場所を提供していたことのすばらしさを私自身は気付いていないが、そうした居場所は世界のどこにもなく、貴重な場だったということから始まった。

そして、

Iさんは 自身を IT難民と呼び、そういうIT難民は 団塊の世代から上の老人たちが多いと、彼の周りの具体的環境を説明した。

そして、私みたいに、IT( information technology・・インターネットなどの通信とコンピュータとを駆使する情報技術)が使いこなせば、老人はもっと楽になる。

それをSNSなどのネットで配信するのではなく、昔のような小冊子を配布することで、老人たちの生活を楽にしてほしいというのだ。

私はそれは難しいと答えた。

どんな役立つ情報も、聞く耳を持たなければ ゴミになってしまう。

馬の耳に念仏である。たとえ、役立つ小冊子があったとしても、読むだけの好奇心がなければそのまま山積みされ、いつしかゴミとなって消えてしまうだろう。

それはSNSであっても、マスコミであっても、知人の話であっても、

老人に限らず、若者であっても、その本人にとって興味がわかないものはその存在の意味すらもない。

さらに、

ベイシックインカムの重要性を延々と述べるので、それは十分承知していることで話を止めた。

彼が帰ってから考えた。

自分と彼の視点が明らかに違っていたのは 彼は老人に対してのボランティアであるが、私は若者への命のバトンとしての活動である。

どうしてか?

はたと、彼には子供がいないことが若者への視点がなく、同じ老人への視点になった気がした。

だが、彼の私へのメッセージはもっと別なもっと大きな視点を持つことを教えてくれた。

キーワードは

1.ベイシックインカム

2.ボランティア

3.ゴリラ便のような居場所

の3つである。

 

もしベイシックインカムが実現したら、

人は生きるためにガツガツ働くこともなく、金儲けやギャンブルや犯罪にのめり込む危険性が減り、

人はお金を得るためでなく、人に役立つことをお金を出してまでボランティアでやることを望む社会がくる。

すると、

周りの困った人のために、海外の困った人のために

ボランティアで働きたい人が増えてくるだろう。

そのボランティアを具体的にどうしたらいいか

語り合い、イベントしたり、組織化していくだろう。

そうしたボランティア組織はNPOまたNGO団体として、個々のベイシックインカムとは別に

国などの公共団体からの公共ベイシックインカムとしての最小限の活動費が入ってくるようになるだろう。

そういう

NPOまたNGO団体が

古民家で無料で憩い、ともに語り合い、ともに食べ ともに寝れる ゴリラ便のような誰でもが気楽に止まることができる居場所になってくるだろう。

すると、

今活動に参加している 「健康と自然の会」の知足庵は

まさにそうした将来NGO団体になるだろう活動の拠点になっていく気がする。

そうした

NPO・NGO ボランティアの会がそれぞれの個性ある活動を通じて行うような会社が

今の株式会社(株式という資本金で集まる組織)に代わって主流になる時代への転換期に来たともいえる。

中央銀行紙幣で動く中央集権世界から

電子マネーとブロックチェーンで動く民主自遊世界へと転換期もまた

連動して革新的に起きてきている。

ひょっとすると

「健康と自然の会」の知足庵は

「ボランティア」と「ベイシックインカム」と「楽しく語ることができる居場所」

それが実現する新しい時代への最初の着火剤になるかもしれない。

電子マネーの今の仮想通貨の弱点は巨額な金が簡単に盗難されやすいことだ。

ブロックチェーンは誰でもがそのお金の流れを知ることができることが特徴で、

いわばガラス張りの会計帳簿みたいなものである。

上記の仮想通貨ウオーズで指摘するように、

「盗まれた仮想通貨の流れは把握できるが、盗んだ犯人を捜すことができない」

というのが問題である。

だが、

この仮想通貨とベイシックインカムと合わせることで、

その売買・交換はみな日本ではマイナンバー、アメリカでは社会保障ナンバーで、

その本人と確認されなければ、売買もベイシックインカムもできないとすれば、

盗んだ犯人はすぐにわかることになる。

いわば、今の仮想通貨は中途半端な公開性と民主主義なのだ。

本音で語りあうように、お金も、実名と本心で、分かちあうことで、

盗み気力さえもなくなってしまい、意識はお金を儲けることではなく、

いかに困っている人を助けるか? そういう意識へと代わってくるだろう。

仮想通貨の投資は金儲けではなく、人助けになってくるだろう。

 

人の意識が

金儲けから 人助けに代わる時代が

今始まろうとしている!

 

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逆転の着想で乗り切れ

物事の流れが滞っていた場合とか、

新しい革新的なやり方に変えたい場合、

逆転の着想で、その物事を逆にして発想し、試行してみる。

例えば

6月21日の授業をヤングフレンド相手に行うと想定した場合、同格になり、

どちらが生徒で、どちらが教師かわからなくなり、

同じ学ぶ者同士になる。

 

そこで、逆転の着想をしてみると・・・・

その授業は逆に私が生徒で、相手が教師になる。

年齢差は18歳と68歳で、50歳も違う。

ボケた老人が青年にいろいろと教えてもらうようなものである。

だが、

私はまだボケていない。

では

どのような逆転の着想をしたらいいのか?

信長協奏曲というドラマがあった。

現代の青年が過去の信長になり替わるというものだが・・

それは 時空を超えて

現在の青年が過去の信長に運命と生き方を教えるという設定でもある。

この信長協奏曲の現在と過去の差を50年としよう。

それは

未来の青年が50年前の現代の老人に

その運命と生き方を教えるという着想ができる。

つまり

68歳の老人の私が未来の18歳の青年に、その運命と生き方を学ぶという着想ができる。

現代18歳の学生の姿は

いわば

現在68歳の老人の生まれ変わった未来の姿だともいえる。

では

この50年の時空を超えての逆転の着想を試行するには・・

私は授業の予習で、50年前の自分に振り返っている。

すると、50年前の過去の自分と現在の自分に同じ事実をみても、かなり違った認識を持つことが解る。

それは

現在の認識で、自分の過去の姿が変わってくるということでもある。

同じ物事をみても、そのとらえ方(認識)で、違った物事に見える。

それは鏡をみるように、左右逆に見えるようなものである。

では・・逆転の着想で・・

現実の授業をどう展開するか?

私が50年前の18歳だった時の姿を現在18歳の青年に語って、

それがどう見えるか問えばいい!

 

50年前の青年が現在の青年に、その運命と生き方を学ぶという姿になるだろう。

それはまた、

現在の青年が50年後の未来の青年(現在の老人)に、その運命と生き方を教わるという姿にもなる。

それは

老人が昔の体験を話して、

当時はそう思っていたが、今はこう思っている

という感想を述べることで、

現在の青年の生き方の参考となればいい。

 

いわば、

考古学が人類の未来の生き方を教えるようなものだ。

過去の反省をどう未来の生き方に反映させていくか?

というものでもある。

 

過去の反省で未来も変わるし

その過去さえも、観方が変わる

 

逆転の着想は

正反 正反 正反 正反・・・・の団子虫のように

個人組織 個人社会 個人国 個人国際 個人地球 個人自然・・・メダカのように

 

その道でダメだったら・・

反対の道を歩いてみよう・・

それでもダメだったら・・

元の道を歩いてみよう・・

それでも・・・・

人生は迷って迷って、いつしか

その迷路は抜け出せる・・

どんな生き物でも・・

まして人類だけができないなんてことは・・

ありえないでしょう

生きるってことはそういうことではないですか?

 

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染井吉野にサクランボが?!

いつもの散歩道のソメイヨシノの坂道

桜の染井吉野になんとサクランボが

十数本の桜のソメイヨシノに、なんと数個のサクランボが実っているのを発見した。

十数本の染井吉野の枝にサクランボが数個実っていた

その確率からすれば、万が一というよりも、もっと奇跡的な確率に近いものではないだろうか。

染井吉野はたった一本の実のならない桜の木の枝の挿し木から作られ、全国にその花の美しさから、挿し木によって広がっていった。

ところが、その染井吉野に身がなるという事実を発見した。

 

物事の多くはこうした「絶対に・・染井吉野にはサクランボがならない」というような考え方が多いのではないか。

この世界に絶対という現象はないことからも、どんな思想、どんな信条、どんな科学にも、絶対という知識はないということである

そもそも、この世を眺める自我を持つ人間が生まれる確率からにしても、奇跡の自己をもつ人間であり、

そうした人類を生み出す自然現象は、みな奇跡的なものであり、人類が想像するよりも、

もっともっと 奇跡的な現象であり、

そこに「絶対! 何々・・」という断定!など、できるはずもなく、

どんな考え方、どんな感情、どんな法則も、どんな知識も、絶対的な事実も真実も ありえないと言えるだろう。

まして、

我々の未来を占い断定するなど、馬鹿げたギャンブルにすぎない。

 

そもそも

希望はどうして生まれるのだろうか?

もし、絶対的な現象が真実だったら、

そこに希望など産まれやしない!

この世界はみな奇跡的な現象に満ちているからこそ、

希望が産まれるのではないだろうか?!

まして、

「あの人は 絶対こうだ!」

というレッテル貼りなど、典型的な妄想、迷信であると思った方が間違いが少ないだろう。

「あの人がこうだ!」と断定できる確率は奇跡的確立だからである。

それはまた

「自分はこうだ!」という断定もまたそうであろう。

 

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癌ウイルス療法も自然治癒を助けるのか

癌の最前線のウイルス療法は

免疫細胞を活性化させるために、がん細胞を病気にさせて弱くさせ、そこを攻撃できるようにする。

その癌細胞が消滅する映像は実にきれいに写されている。

 

癌細胞と免疫細胞のやりとりをみると

アリとアブラムシとそっくりだ。

アブラムシが甘い液を出すと、アリはアブラムシを食べないが、

甘い液を出さないと、アリはアブラムシを食べてしまう。

甘い液をアブラムシが出せない場合でも、アブラムシは

自分は甘い液を出すアブラムシというアリ騙しの液を出す。

そうしてアブラムシはアリに守られ、また、アブラムシを食べるテントウムシからもアリで守られる。

癌細胞はアブラムシ、免疫細胞はアリだとすれば、ポイントは

自分は敵か味方かというメッセージが基本になる。

要は、敵か味方かの信号をどうかえるかであるが・・

その方法はもっと安全な方法があるような感じがする。

例えば、敵と味方の信号の周波数を読み取って、癌が免疫細胞の敵であると判断させればいいことになる。

それがウイルスか その他かというものだろう。

ともあれ、

自然治癒をまねていることは確かだ。

自然治癒をいかに助けるかが病気を治すコツなような気がする。

 

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9秒台で走れるハイヒール

友人K医師の影響か、

足の健康にはつい注意がいく。

娘たちには外反母趾防止用ハイヒールをプレゼントしたくなった。

ハイヒールは足を美しく見せるが、実に歩きにくく、まして走りにくい。

最近、こんな記事をみた。

ShockStop Seatpost: Add Suspension to Your Bike

 

 

このスプリングをハイヒールに着けたら

動かなければ 足が綺麗に見えて、

歩いたり、走ったりしたときは

ひょっとして、そのスプリングの調整したいでは

100m 9秒台で走れるハイヒールになるかもしれない。

バネ式ハイヒール 電動バネにしたらもっと楽に年寄りでも楽に歩けそう

自転車は根本的にあまり進化しない

まして靴などほとんど進化しない

電話も携帯スマホになる時代、

靴だって オリンピック選手並みに走れるようになってもいいではないか。

昔 縮思考の日本人という本があった。

日本庭園、盆栽、俳句にいたっても、世界を縮ませて物事を表現するのに得意で、

それがモノづくりにも表れている。そうして縮み思考の日本のオカブは

すっかり米のアップルのアイフォンにとられてしまったが、

靴に自転車をとりこんだ縮み思考のアイデアがあってもいい。

 

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