幸せの三条件/健康・平和・自然とは

幸せとは

自然の中で、健康な身体と平和な社会で暮らせること

自然とは人工的過ぎない、無理のない、無為自然

健康とは食べ過ぎず、働き過ぎず、欲張り過ぎずの足るを知る生活

平和とはけして他を殺傷せず、自を殺傷させずに暮らせる社会

健康と平和と自然・・小さな幸せを自分のできることで無理なく楽しく味わおう

自分ができる範囲内だけで、それらを最小限望んでも、それ以上はそれらを願わない。

健康な身体は、最小限のバランスのよい食事と適度な運動と清潔な環境からなるように、

平和の社会は、支配と隷従のない平等な人間関係と、争ってもけしてお互いを殺傷せず、それぞれ認め合う意識から生まれ、

自然はどんな災害が起ころうと、他の生物との共存関係をバランスよく、常に維持また創り出していく。

 

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平和運動13/何もしないということが最高の防衛力

雑草の如く生える小松菜と長ネギ

作物だって元雑草

 

雑草は四季折々で、毎年同じ種類の草が交代交代して何処でも生えている。

作物だって、元は雑草だったのだから、雑草のように四季折々、交代交代で生えてきても可笑しくない。

それができるように、石ころを積み上げ、どぶの土を盛った崖のところに、三年くらい前に、種を撒き、花が咲き、身を結ぶと、その種をばら撒くというのを、繰り返ししていた。

もちろん、以前からある雑草はどんどん成長してしまうが、それは身を結ぶ前に摘み取ってしまうことも繰り返しした。

小松菜と長ネギだけが、雑草のように今年は生え続けた。

私の理想は、何もしないでも、毎年作物が雑草の如く交代交代生え続けることである。

麦と稲をそうしたいが、麦は可能でも、稲は実に難しいが、稲だって元は雑草だから、やってやれないことはあるまい。

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何もしないということは無為自然

 

人が何もしないということはどういうことであろうか?

人の行為には究極的に生きるか?死ぬか?の二者択一しかない。

人が何もしないといいうことは、「ただ生きている」また「天命を待つ」状態であり、

人が何かするということは、良きも悪きも、「より生きる」また「自分から死ぬ」という決断と実行がされる時である。

さらに、生きることの強弱をとって煮詰めれば、

人が何もしないことは生きることであり、人が何かをするということは死ぬことである。

何もしないことを無為といい、何かをすることを有為また人為というので、

何もしないで自然にまかす生き方を無為自然といい、

何かを作るのなら、人工的であり、何かを起すなら人為的という活動行為という。

 

 

生死の二者択一の観点で、自分の観点ではなく、他人の殺人者の観点に立てば

殺人者の他人が何もしないことは自分を活かすことであり、

殺人者の他人が何かするということは自分を殺すということである。

殺人者の他人を殺人者の自分であっても、同じことがいえる。

死ぬという有為人為は自殺であり、他殺でもある。

その反対の生きるとは無為自然のことである。

 

戦争と平和

 

北朝鮮が敵の米国の核ミサイルに対抗して核ミサイルを持ち戦おうとする。

理想のイスラム教国を作ろうとして、自爆テロの聖戦をしかける。

戦争において、攻撃をしかけること、防衛することは、敵味方が死ぬという有為人為行為になる。

だが、

北朝鮮も米国も、お互いに攻撃も防衛も、何もしなければ、平和が保てると、即実現する。

イスラム聖戦士が、理想のイスラム教国を創ろうとも、自爆テロもしなければ、そのまま平和が維持でき、即実現する。

 

問題は、戦争をしかけられた場合どうするか?である。

 

これは人類の歴史において、みな苦悩してきて、その方法を編み出してきた。

もっとも有名なのがイエスの愛である、

「右の頬を打たれれば左の頬を向けよ」

であるが、もし人が自分を殺したら、また生き返って自分を殺させることはできない。

だから、このイエスの愛は必然的に、

「人が自分を殺そうとしたら、すすんで自分を殺させなさい」

となり、イエスは嘘をいって、逃げられても、十字架で死ぬ選択をしたのだろう。

それは生きるという無為自然な行為ではなく、キリスト教を広める有為人為行為であろう。

その自虐的自殺行為は、逆にもなり、十字軍のように他宗教の者を惨殺することに発展した。

だが、

日本の武道は殺人剣が活人剣になり、そればスポーツにも医術にも発展している。

「もし人が自分を殺そうとしたら・・?」

受け流し、

「相手が自ら殺意を失わせよ・・!」

柔よく剛を制する柔道は

相手が剛でもって殺そうとすれば、

自分も同じ剛、またより強い剛をもって対抗また防衛しようとはせず、

相手が自らの剛力によって、倒れるように、

柔をもって、受け流し、逃げ、相手の殺意を失わせよ。

合気道はさらに平和的で

自分から先制攻撃をしかけたり、相手をフェイントして、攻撃させ、その受け身で倒すこともなく

ただ、打ちかかる火の粉を払い落すか逃げるかである。

つまり、

目の前に、石が飛んで来たら、瞬間的に避ける行為と同じである。相手が殺そうとする行為に抵抗とはせず、逃げることで、けして相手も自分も殺傷せずに、活かす、生きられるようにする武道である。

これは

北朝鮮が核ミサイルで日本を攻撃しようとしても、同じ核ミサイルや武器で対抗とはせず、どうやって敵味方殺傷せずに、武器なしで、逃げられるか、殺意を失わせるかを、研究したり準備することが、平和術でもあり、自然災害にも対処できる方法でもあろう。

自他ともに、殺傷しない、共に生きられる術、

それは、何もしない無為自然な生き方が一番安全で平和であるという考えが、常識化すれば、自然と戦争は減ってきて、自然と平和になっていくだろう。

 

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平和運動12/討論の仕方を知る

NHKスペシャル 徹底討論 政治の行方は 日本の行方は

先日、モンゴルで若者による六か国会議の提案をしたが、

そこで、どのような会議即ち討論をすべきか、この各党を交え、司会者のNHKで、視聴者の意見を加えた議論になり、最終的に、多数決で決めるのではなく、その議論を深めることだけを狙いとするような討論を国会でやろうという内容になった。

途中、発言中に、反対ヤジがとんで、発言をとめさせる議員もいたが、そこはNHK司会者がうまくセーブして、きちんと発言できるようにして、おさまった。

こうした平和的な討論法がうまくいくには、司会者とそのサブアシスタントの前もっても、十分な知識と、視聴者を交えたなどの準備、そして、建設的な討論法をよく熟知していることが必要である。

特にその討論が、平和建設的になるか、戦争水掛け論的になるかは、司会者の腕とその場の設定次第である。

 

若者による六か国会議の場は、参加国以外の第三国の隣国のモンゴルであり、また会議討論の司会者が第三国のモンゴルであることも重要なことである。

 

そして、視聴者の意見を交えた討論法は、今ではどんな国際会議であっても、ネットを使ってできるので、そうした手法も取り入れた方が、より広い視野で議論を深めることができる。

また、参加者はその討論に夢中になるあまり、論点がどんどんずれてしまい、それを治め、論点をもどす役目も司会者の役割でもある。

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健康と自然の会では、残念ながら、「健康と自然」というテーマであっても、そのテーマについての、偏った論点、偏った見解、ずれた内容が、発表されただけで、その反論など、また視聴者の意見なども、言える場でもなかった。

まして、その時のテーマが何かどうかも、解らない。討論があるかどうかもわからない。大抵は自己紹介みたいで終わってしまっていた。

来年にあるモンゴルの集まりについても、何がテーマなのか? も知らされずに、参加だけを打診されているので、実にとまどっているのが現状である。

旅も、会議も、その準備でほとんどその内容の楽しさ、充実さが決まってしまう。

このNスペの討論が、国会であれ、国際会議であれ、若者の六か国会議でも、同じように準備、企画、進行させたら、多くの問題は平和的に解決されていくだろう。

 

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平和運動11/意見の違いは人生の違い

意見の違いから戦争と平和が生まれる

 

意見とはその意識の見解という意味である。

意識不明状態の時は命の危険があり、意識がハッキリと無い時は命が尽きる時でもある。

意識が在って初めて、意識の見解が生まれ、意見が言え表現できる。

よって

命と意識と意見は同じ位の尊さを持つ。

そのため、

意見の違いは命の違いと同じ性質をもち、

意見の押収は、命のやりとりにもなり、意見の戦いが実際の戦いにまで発展する。

逆に

意見の違いを楽しむと、命の交流にもなり、そこに愛と理解と平和が生まれる。

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意見・意識そして命

 

意見も、意識も、命も、人の数だけあり、それは色々多様にあり、

そして、

意見の素には意識あり、意識の元には命が在る。

いわば、

命が身体とすれば、意識は脳、意見は顔である。

 

意見が在るか無いかは

意識が在るか無いかであり、

命が在るか無いかでもある。

 

意見が正反二つに分かれて戦うことになるのは

命が生死両面でできていることから来る。

「その意見を活かす」「その意見を殺す」とも言え、

その意見を活かすのは平和的であり、その意見を殺すのは戦争的であるとも言える。

裁判で、有罪か無罪か、検察と弁護人で議論しあう形式も、

この命の生死の二面性からくる意見の正反の二面性である。

その裁判結果に、死刑があるのは戦争的であり、死刑がなく、無期懲役で活かすのが平和的である。

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意見の違いは人生の違いであり、

意見の違いの多様性を認めることは、人それぞれの人生を認めることである。

命に貴賤も、人種も、国・宗教もないように、

意見に、貴賤も、人種も、国・宗教もなく、

どんな意見でも、その人の命として尊び、活かし合うことで、

正反合にも、会議も、話し合いも、理解も、楽しみも生まれてくる。

 

宇宙から見た バングラデシュ ガンジス川デルタ

 

命は根であり、意識は幹であり、意見は枝葉のようでもある。

命の樹木は大河が海にそそぐデルタ地帯のようであり、身体の毛細血管のようでもある。

 

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その意志のYESとNOで大きく世界は変わる

脳死における臓器移植をYES? NO? かという聞き方一つで

大きく臓器移植率は変わってくる。

 

世界の臓器移植率の比較

スペインとフランスとオーストリアでは脳死において、

「臓器移植の意志はない・・NO!」と示していない場合は必然的に、「臓器移植の意志ありYES!」と見なされる。

だが、日本やアメリカの場合

「臓器移植の意志がある・・YES!」と示した場合は、家族の意志のYES!も、必要になる。

スペインでは人口100万人に対し34.8人、日本では0.9人の臓器提供者という差が生まれる。

また、

身体はだれからの贈り物であるか?という宗教・思想観でも変わる。

キリスト教国のような、欧米では

「身体は神様からのプレゼント」と考えると、臓器移植率は高まり、

「身体は親からのプレゼント」と考えると、臓器移植率は下がる。

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選挙の投票に行くYESか?、行かないNOか? で大きく政治が変わる

 

投票に行かないNOという意志は棄権であるが、それは必然的に現状の政権に対してYESであるとみなされる。

これは、暗黙の了解また必然的な結果というもので、

臓器移植の意志はない選択は現状の身体のままであり、

投票の意志はない棄権の選択は現政権の与党に投票をすると必然的了解になるというものである。

 

投票に行くといった場合、立候補者を選ぶ場合、政策で選ぶか、人物で選ぶかで大きく政治が変わってくる。

人物で選ぶ場合、政権が安定し、投票率が低ければ与党が優勢になり、

政策で選ぶ場合、政権が不安定で、投票率が高ければ野党が優勢になる。

これは、

数学における対偶証明

 

生きるか、死ぬかの、二者択一であって、その中間は存在しない場合の選択として捉えるかの問題である。

また、

脳死を既死と認めるか、まだ生と認めるかの二者択一でもあり、そのYESとNOでも、大きく世界は変わってくる。

投票を国民の権利として自由とするか、国民の義務として投票に行かない場合は罰則にして抑制するかでも、大きく、投票率も、政治も大きく変ってくる。

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私たちの生き方も前向きか、後ろ向きかで、大きく人生が変わってくるように

 

また、その意志がYESか? NO?か、

他人にも自分に対しても、どちらかの質問の仕方でも、大きく人生は変わってくる。

ともあれ、

一人の意志がどれほど人を社会を世界を変える力があるということだけは確かである。

もし、自分の意志が不明であったならば、自分への問いかけを逆にしてみたら、

案外すんなりと明確化できるだろうことも事実である。

 

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