神を信じるは自分を信じること

やっと稲刈りが終わり、脱穀 風選別 耕うん 麦種播き 稲わら播きも終わった。

例年の一か月遅れである。

一か月前に最初に稲刈り麦種播きの畑から 麦の芽が出ている

2015.12.16

2015.12.16

こうした力仕事が終わると つい遅寝遅起きになってしまい、テレビ録画ばかりみては飲食してごろごろしてしまう。リバウンドもあっという間に3キロもしてしまった。

毎日 リダイエットには挑戦しているのだが、それが裏目に出てしまうせいか、負け続け そのストレスのためか さらに負けてしまう繰り返しで どんどんリバウンドしてしまう。

ここで 心機一転 自分に勝とうとする

最後の神頼みのように

「ああ 神様どうか私の切なるダイエットの願いを叶えてください!」

だが、すぐに こうつぶやく。

「神様 そんな神様 自分は一切否定したではないか !」

でも、神様でもすがらない限り、ダイエットへの馬力が出てこない。

そこで ダイエットの神が下りてくる 降りてくる! その直観が!

「神を信じるは自分を信じることなり

神とは自分であり、本当の自分自身のことである

神は自分の本当の意志として顕われ 奇跡の力を現す

ダイエットは必ず実現する

自信を持て 勇気を奮い起こし 本当の自分である神を信じよ

神への祈りは本当の自分の願いである

この世の奇跡として生まれた自分

そんな神様のような自分にできないことは少しもないではないか

奇跡を信じよ、それは奇跡的にこの世に生まれ出た自分の願いではないか」

 

今イスラム国のように、迷信のような神様に振り回され 戦争して 命を落としている時勢である

本当の神とは何か?

神とは本当の自分であるならば、神はこの世に生れ出たすべての人間の自我であり、本当の自分の姿であるといえる。

神を自分以外の他人や想像上の人物であるようにして、自分の命を犠牲にしてまで 他人や想像偶像に従うことは 真実から目を背けることであり、本当の自分の神に従わないで、神を殺すような大罪を犯すようなものである。

本当の自分を神として信じて行うことが 自由であり、それは今地球上に生きている70億人すべての一人一人に言えることであり、すべての人々は 神として 平等 であり、その命はこの世で最も貴重な存在であり、正義や法や神仏よりも勝る宝物である。

人に運不運があるとしたら、それは自分を信じるか信じないか、自信が持てるか持てないかの差だけであろう。

 

 

 

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 神を信じるは自分を信じること はコメントを受け付けていません

生かされているから再スタート

65歳になってから、どうにも自分の意志通りにならない自分に成っていることに気が付かされる。

ダイエットも 昨年のように 目標には少しも近づけないどころか、逆に遠のいてしまう結果が多くなる。

これはこう判断できるだろう!

「自分は生きている」「私は生きる」という意識が強がりとなって 空回りしている。

65歳までは充分生きてきた

これからは 生かされていくのだ

天の寿命を受け入れる年齢に入ったといえるだろう。

死を受け入れる年齢は 生をも受け入れる年齢でもある

それは 生かされている自分をありがたく受け入れることから再スタートすべきだろう

稲刈り2015.11

この稲は私が6年の歳月をかけて生かしてきた。

稲にとっては人に生かされたといえるだろう。

ここに稲はもともとなかったのだから。

この実った稲を食べて 私は生かされる立場、稲と同じ心境になれるというわけだ。

自分の体力が若いときのように動かないことに気が付かされる

老化した自分をそのまま認めて、簡単には動かない自分を素直に受け入れること

それが 生かされて生きる 65歳になったといえるだろう。

これから 生かされることに大いに感謝しながら 天の寿命を受け入れていこう。

自分の意志よりも、天の自然の意志を受け入れて 生かされる自分から再スタートしていこう。

 

カテゴリー: 徒然草, 自然に生きる | 生かされているから再スタート はコメントを受け付けていません

一日一生 身体国家 習慣法律

ここ二か月で4キロもリバウンドした

仕事も子育ても ほぼ終わり、ゆったりとしたためだろう

初心に帰って リダイエットを始めた

朝の祈り

「必要最小限の食事と仕事をして健康な一日を過ごせまように!」

一日一生

朝 起きて生まれ 夜 寝て死ぬ

時間と空間は対照的である

身体国家

身体は何億もの細胞 国民からなっている

人がやることも 自然と 対照的である

習慣法律

身体は一時の欲望で動くと歯止めがかからなくなり 病気や怪我になりやすい

国に法律がなかったら 無法地帯となり 戦争ばかりして荒廃する

身体の一時の迷える欲望を本当の一生の欲望へと導くのは 習慣である

個人の習慣は社会の慣習であり、慣習は知性で法律になる

うつ病の克服に効果的な方法は

朝6時に起き 夜10時に寝る

その昼の間 けして横たわらないことである(昼寝するときは背筋をまっすぐにしてねる・・瞑想する)

精神的な病も身体的な病も 対照的である

肥満克服とうつ克服も 対照的であるので

ダイエットの習慣法 1

朝6時に起き 夜10時に寝るべし

その間けして体を横たえることなく、休みたいときは瞑想すべし

このダイエット法 1条 を一か月施行して習慣化すべし

これが習慣化できてから、その他のダイエット習慣法を制定することにする

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 一日一生 身体国家 習慣法律 はコメントを受け付けていません

今の仕事とは未来への準備である

teinengo01

山梨市に引っ越してから 5年半の課題がやっとやりとげた。

もう金銭収入による生活のための仕事に患わされることはなくなった。

65歳の国民年金とその基金が月7万ばかり入り、下の子供もやっと就職の内定が決まり、子育ても終わりを迎えた。

残りの人生をどう過ごすか?それを模索し、

往生するまで元気でいることが私の仕事であり生活の目的になったが、

実際それを日々の設計をしていっても なかなか実践できずに、どうにも流される生活になってしまう。

もっと実践しやすい一日の実行計画をたてたいと思うのだが、

それがなかなか進まない。

なぜか? と考えると

暮らしが安定してしまうと、「ナニクソ!」という馬力が出てこない。

人は土壇場になってしまわないと、腰が動かないのかもしれない。

それがいかに危険なことであり、失敗しやすい癖になってしまうことは十分経験済みである

これから起こるであろうすべてに対しての予防策が未来の安心と今のやる気を起させることである。

今とは未来への準備ってことだろう

 

カテゴリー: 徒然草 | 今の仕事とは未来への準備である はコメントを受け付けていません

銭より食の子どもたち

癌で自分の死をあと何日と判ると

その日まで何をするか整理するだろう。

たとえ健康であっても 死は確実に来るわけで

いわば

生きるということは 死ぬまでにやること

ではないだろうか。

現役の仕事が終わった今

残された命の時間をどう過ごすか?

と、考えるにあたって散歩に出かけた。

家から歩いて30分ほぼ真っ直ぐ突き当たり

茂呂山公園にきた。


image

保育園児30人くらい並んでやってきて、保育士が

「どんぐりを沢山拾って お芋会のお金にしましょうね〜」

とは びっくりポン❗️

なんで ドングリ食べずに芋食べるお金にするのだろう?

話の中に 松ぼっくりやはお金になるというから

きっと工作する材料になるのだろう!

園児たちのもっぱらの関心は

「あ 栗 栗だあ!!」

つまり 金より食だ!!

シイノキのドングリは乾煎りしてすぐに食べられて美味しいが、

ほとんどのナラの木などのドングリを、水につけ、何度も湯こぼししても、灰汁がなかなかとれずに、食べられたものではなかった。

この野呂山公園にはスダジイのどんぐりは見当たらない、むしろ栗が多いので、栗拾いして それを食べた方が「生きて良かった」となるのになあ^_^

金より食

銭より命

仕事より命

そういう気持ちになり、

残された命をどう使うか?

少し見えてきた感じがする。

 

 

カテゴリー: 徒然草 | 銭より食の子どもたち はコメントを受け付けていません