自然はタイミングで決まる

6月に入った今、

麦の収穫と稲の苗植えの時期を待っている。

この麦と稲の交替のタイミングによって、麦も稲も生かすか、殺すかになる。

雑草は春夏秋冬と自然に交替して生育しているが、

麦と稲は人間の手を借りないと自然に交替できない。

麦が枯れて自然に稲が生えて育つことはないからだ。

麦と稲の交替を自然にさせるためには人間が麦の収穫と稲の苗植えのタイミングが重要になってくる。その時期は年に一度しかないが、麦の枯れ具合と稲の苗の育ち具合で決められる。交替時期に土の耕し肥料あげ雑草除けのマルチシートの設置もしなければならない。そうした時間も考慮して6月中に一気にやってしまう必要がある。

この人間による自然交替のタイミングは年に一度であり、またその実施日も麦と稲と土天候の状況によって決断しなければならない。

人が生まれるのは奇跡であり、それは宇宙時間における一瞬の煌めきである。

人の自我もまた自然が交替する一瞬のタイミングのようだ。

自然はタイミングで決まる
自然は待ってくれないし、また待たねばならない
行うタイミングはその時しかない
それは自分の一生の輝きの瞬間のようでもある
自我が生まれ決めていく一生はまさに自然のチャンスであり、タイミングでもある

自己存在を自然の変化のタイミングとして捕らえると

自己を生かすも殺すも その行いのタイミングで決まってしまうといえよう。

 

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麦と稲がやっと作れた

この山梨に引っ越した畑で

福岡正信著「自然農法・・わら一本の革命」に感銘し、土団子を蒔いて、麦と稲を育てる方法から5年かかり、やっと直採取した麦と稲の種で収穫と苗床を成功させた。

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昨年採れた直採取した麦種で今年収穫の6月になった

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昨年収穫した陸稲の種をすべて今年の種籾として苗を育てている

わら一本の革命の帯封には

「耕さず、草もとらず、肥料もやらず、しかも多収穫!<現代の老子>が語る無の哲学を実践」

と書いてある。

この通りに土団子を作ってばらまき、いざ実践してみると、麦はいくらか育つが、稲はまったく育たない。

無の哲学は大嘘であり、ただの「こうあったらいいな」という、理想論にすぎない。それは科学でもなければ哲学でもない。

ただ、その大嘘の理想が 農薬漬けの現代農法に警笛を鳴らして、大きく変革への道を開いたことは確かだった。

「嘘も方便」としては、「わら一本の革命」は成功したことは間違いないだろう。

 

 

 

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人は神に成ることはできないが神になったと想像できる

学生時代に難解なカントの純粋理性批判を読破はできなかったが、カントが一番大事にしているのが想像力(構想力・・英仏:imagination、独:Einbildungskraft)であることを知った。

 

ジョンレノンの平和の歌の始まりが、「想像してごらん もし・・・・であったら」という想像力である。

10代の学生時代に、自分のこと家族のことそして受験社会の問題に悩み苦しみ、それを解決しようともがいた青春時代だった。一番の難問は「なぜ勉強するのか(なぜ生きるのか)」であり、それを悟ろうと必死になった結果、一年余りも精神病院に入院せざるをえなくなった。

病気になった理由は修行(呼吸法による瞑想)によって本気に神になり、仏のように悟ろうとした為である。もし私がイエスキリストの生まれ変わりのような者になったり、釈迦のように悟ったと信じ込んで行動したら、貴方はきっと私が狂人になったとして精神病院に連れて行くでしょう。

人は神仏に成ることはできない!

なぜなら 神は宇宙創造と破壊をする自然を人間化した想像力の産物であり

仏は全知全能の力を持つ自然を人間化した想像力の産物であるからだ。

人は地球の生命を司る自然から生まれた者であり、世界の創造破壊まして自他の命の生死なんかを決めることはできない。

人ができるのは

自分が神仏自然になったと想像することだけである

この自分がもし神仏自然になったと想像した時、目前にある自分・家族・社会問題の多くを解決する道の第一歩が開かれる。

例えば 国境を奪い合って戦争するイスラム国の現実の姿を神仏自然になったと貴方が想像したとしたら、きっと仏のような慈悲の眼で笑みを浮かべてこう言うかもしれない

「地球に国境なんかありません。アラーの神もキリストも仏もその他いろいろな神仏自然もみな同じ者で 宗教の違いなんかもありません。まして、同じ人間同士を殺し合いさせることもありません。

人類は何も無いモノを有ると思いこんで 争ったり殺し合っています。それは何もない空中に毒グモが落ちてくると妄想して 狂ったように手足をばたつかせるような姿に映ることができるでしょう」

人は神仏自然になったと想像することもできるし、無いものを有ると想像したり、在るものを無いと想像することもできることで、自分や世の中のあらゆる問題を自分たち自身で創り出すことも、解決解消破壊することもできる。

昨日、床のフローリングをしていて、一部下の柱が張り出していて 水平にできないで困ったが、こう自分に言い聞かせた

「お前はプロではなく、素人なのだから、少々床が凸凹になったっていいではないか。どうせ自分のアパートなのだし、自然の地面が凸凹しているのは当たり前だし、むしろ、床が凸凹している方が面白いし、飽きも来ないで暮らしやすいではないか。下手な子どもの絵の方が幾何学模様よりも温もりを感じることができるだろう?!」

 

 

 

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BIコインの店

フリマ笹塚の顧客が戻ってきたり、増えてきた。それはそれで嬉しいことだが、また顧客が激減することもあるかもしれない。その対策と同時に 次ぎの一手を講じてみたい。

板橋のアパートのリフォームが今年いっぱいで完成の見込みができた。一方、倉庫付き駐車場の二件が4ヶ月たっても借り手がつかない。常に今のピンチは明日のチャンスになるのは自然の進歩でもある。

顧客が少ない先月は店終いと倉庫付き駐車場の土地を売る決断に迫られた。金銭の損得を勘定するビジネスではこうした決断は早めにする方が傷が少ない。

しかし私の人生最後の大仕事は『BIコイン』の啓蒙である。『BIコイン』の実現とは言いたいが 実現できるのは「国の法律」であり、私自身ができるのはダイエットと同じで、自分の行為そのものを変革することだけである。BIコインが実現できようとできまいと そんなことは自分にとってどうでもいいことだ。決めるのは多くの他人であり、年金がもらえる65歳老人の残された時間をどう燃やし尽くすかであるから、『BIコインの啓蒙』を充分楽しみながら やるだけである。

『お金ってなんだ?』を5年余りも研究してきて、現在主流の金銭システムがサッカーのようなボール(金銭)を奪い合い、ゴール(投資)を決めて 点数(金儲け)を増やすマネーゲームになっていることに気が付かされた。

貨幣はもともと物々交換をより簡単にできる便利なコイン(道具)から発展してきた。そのコインが金銀銅アルミから手軽に印刷できる紙幣になっている。

そうした紙幣を利息をつけて貸し借りできる法律ができ、借用書(債券)が貨幣の代用品になり、株式と発展している。

貿易で外国通貨との交換ができるようになると、金交換から、世界で一番流通していたアメリカドルが基軸通貨となって 固定相場で交換された。

さらに貿易通貨として その交換量や貸し借りが増えてくると、円やユーロのような通貨はその時の売買相場で交換する変動相場制になり、外国為替もまた貨幣の代わりにもなっている。

人々は株式や外国為替(FX)をサッカーのようなマネーゲームをして、点数(金銭)を稼ぐことに夢中になって 参加また観戦し楽しんでいる。毎日のニュースが為替と株価の相場がサッカーの試合の勝敗の点数と同じく報じられている。

だが、株も外国通貨も持っていない国民の方が持っている人よりも 私と同じように はるかに多いのではないだろうか?

株やFXの相場に無関係で、毎日の生活費として金銭をどう得るかが最も大きな関心事になっている庶民が多いのではないだろうか?

この人生をどう楽しむか?というより、どう生き抜くか!で精一杯である方がより現実的な問題であるように思える。

この地球上で人類が他の哺乳類よりも繁栄できたのは「分かち合い・分かり合える」という「知恵」がより進化できたためであろう。

貨幣金銭も「奪い競い合うボール」として楽しむ道具だけでなく、一部(瓦理論では2割)を、「分かち合う・分かり合えるコイン」として 共に生き抜く力に進化することで、金融恐慌や経済破綻にも耐え得る国造りできるのではなかろうか。他国と無益な戦争をしたり、味方の国の防衛戦争に巻き込まれたりしないですむし、経済格差がどんなに大きくなろうとも国民は笑って過ごせる平和な国になることができるだろう。

その「分かち合う・分かり合える貨幣」こそ、『BIコイン』(ベイシックインカムコイン・・基礎所得貨幣)である。麻雀ゲームでいえば、そこで使われる増減しない点棒であり、サッカーでいえば試合に使うボール(空気が抜けたりしたら交換できる)であり、それらの勝ち負け点数である損得・貸し借りをできる金銭を根本的に支える最も重要な貨幣である。

『BIコイン』は小学生が保護者を招いて行うお店ごっこである。自分たちが作った商品に値札を付け、売買する貨幣を保護者全員平等に配って売買する。

お店の商品が全部買える総額の貨幣が発行され、それが保護者も店主小学生も合わせた総人数で平等に配られれば、自分たちが好きな商品を選び、かつ参加者全員で平等に生産した商品を分かち合えることができる。

但し、作られた商品がすべて嗜好品でななく、生活必需品のように小学生が作った商品として差別なく受け入れられる商品であれば、好き嫌いで商品を奪い合い売れ残りが出たり、足りなくなることは少なく、平等に分かち合いできることになる。

つまり、BIコインが国民すべてに平等に配給されるためには、その時の国民の生活必需品の総額だけ毎月発行され、翌月には使用期限切れになって、税金(BIコイン発行回収者)100%が科せられる必要がある。

天災や戦争時における食物配給券のように、貸し借りや金銭との交換もできない、できても無意味のような貨幣が『BIコイン』である。

この『BIコイン』の啓蒙をフリマ笹塚店の空いた日にポスターを貼ったり、チラシを配ってみようと思うのだが、ただ宣伝しただけでは ほとんど誰も興味を引かないと思われるので、山梨の畑で収穫した麦米大豆小豆を原料にして、加工したアンパンや饅頭のような加工して販売し、そのアンパンをBIアンパン、饅頭をBI饅頭として焼き印して販売したら、借り店賃代も稼げるので 一石二鳥の効果をあげることができるのではないかと空想している。

 

 

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運命が人生ではなく開運が人生だ

造った風呂にガス管が結ばれ、点火された

3年に及ぶリフォームの劇的な瞬間であった。

無事 湯が一階二階の湯船とキッチンに流れ、追い炊きも自動湯沸しできた。

仕事を終えて 真新しい湯船に浸かって 3年間の試行錯誤で造りあげた道を回想し、今の天国のような気分にしたった。

屋根以外ほとんど改装したので 気分は新築に近い。

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一体 自分は何のために生まれてきたのか?

ボロボロになって 今にも地震でつぶれそうな9坪の二階建てのアパートを遺産相続し、

その住人もいなくなって、そのままでは貸せない状態になっていた。

売りたいが売れない特別な事情があり、新築は法的無理があり、道はリフォームしかなかったが、業者に頼んだら新築と同じ値段になってしまう。そんな予算もないので、山梨から東京の板橋に時間ができると、通い詰めて3年やっと貸せる状態に9割なってきた。

この親から受け継いだボロ屋を自分でリフォームして 再び貸せるようにした、それが自分の人生だった気がした。

この世に生れ出ることは親の遺産を引き継ぐようなものだ。それがどんな環境事情であれ、その人の運命である。

そして、命という遺産を親から引き継いだ運命的な自分を 自分の意志でどう変えていくか、それはいわば開運ということであり、それが人生そのものではないだろうか!

 

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