Archive for 4月, 2014

努力の花を咲かせよう

日曜日, 4月 13th, 2014

脱原発を今年の目標にしたが、脱原発と知事を目指した細川氏が結果的に大差で破れたことで、自分の無力さを思い知らされた。そして、脱原発自体を目標にする自分が間違っていたのではないか?! 自分ができることから、あまりにも遠い政治的な内容だったのではないか!

自分が脱原発でできることは、唯一選挙で脱原発を目指す議員と、脱原発を実現できる一番強い政党に投票することであり、個人的には電気を節約し、自然エネルギーだけで電気をまかなえるように開発することであろう。

そして、自分しかできないことをここに当てはめると、投票と電気節約だけになる。しかも、投票は自分の主張、電気節約はダイエット生活にも発展してくる。それらは脱原発にははるかに遠い内容だが、縁でつながっている。

急がば回れ であり、目標が大きすぎた場合、自分ができることを選び、しかも自分しかできないことを発展させ、そこに全勢力を集中させることである。すると、努力すれば確実に成果が得られる。無力感などはどこふく風だろう。

今やっているリフォームや畑仕事にしても、ダイエットの運動としてやれば、その結果が自分の体に起こることである。しかも、リフォームも畑仕事も、本当に必要なことだけをするように絞れる。畑にビニールハウスは必要なかったように、リフォームだって最低限に必要な設備だけにすれば、よけいな手間も、問題も起こらない。

ダイエットとは質素な生活を心がけることで健康と長寿になることである。ダイエットはただ痩せればいいというのではなく、本当に必要な食事と運動だけに絞り込むことで、日々の快適さを実現することである。

今までため込んでいた余分な脂肪や余分なモノを処分し、今後持たないようにすること、そして、快適な運動や仕事を生活のリズムにいれこんでいくこと、それを実現するにはかなりの努力がいるが、それが実現できて、習慣化すれば 常に快適に生活できる状態になると思える。

質素な生活にあった畑と家造りがそれとともに形作られるようにも思える。それを今年の目標としてみよう。

理論的には矛盾するかもしれないが、自分しかできないことをしていくと、無私の精神になってくる。

もし、自分という意識 私という概念 を無くしてしまえば、そこに死はありえない。死が無かったら生もありえないというのが論理ではあるが、実際は個人の死はあっても、人類全体の死までは数万年あるだろうから、自分という意識を無くすと、人類の生存という意識だけになってくる。もっとも、人類という意識さえなくせば、生物全体また地球が消滅する数十億年の命だけの意識にもなるということだ。

自分しかできないことをみれば、人類全体にとっての自分の役割みたいなものであり、ほんの小さな一瞬の輝きみたいなものだろう。でも、それが人類の存続にはかかせないものであったことは、どんな人の一生でもいえることである。それが人類の記憶にも残らないにしても、必要あって生まれ、必要あって死んでいって、人類を支えていることは確かなのだ。

努力というのは運動のようなものだ。少々の運動は快適なように、少々の努力は快適なようなものであろう。名も知らない花が咲くように、個人の努力の花も咲くだろう。その花が散っても、咲いたという事実は消えることはない。

 

 

必要以上にやりすぎることが多い

金曜日, 4月 4th, 2014

どうも自分の行動を観察すると必要以上にやりすぎたり、必要以下だったりしている。

本当に必要なものだけをするのは結構努力がいる。ただ、それを習慣化させれば快適になるようだ。

今畑に陸稲を蒔いたが、2日水に浸け、土の下に蒔いたものだけが芽を出している。

雑草は何もしなくても毎年 芽を出すが、それと同じく稲も出来ないかと試している。それにはかなりの努力が必要だが、雑草と同じ環境になったら、きっと何もしなくても毎年実を結ぶと信じる。

桜だって、そうだし、稲だって 人間の力なくして生育できないというのは可笑しい。

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必要は自分の健康と社会の健全化の源

水曜日, 4月 2nd, 2014

大雪でビニールハウスが壊れて、元も畑にもどしてみると、その方が美しく、手間もかからず、作物も多く育つように思えた。

原発だってそうだろう。原発を作らなければ、事故は起こらず、放射性廃棄物の管理も捨て場所を探すことも、その危険性もなかった。福島の先祖代々の土地を捨てることもなかった。金も命も大地もみな捨てるような人類の自殺行為にすぎない。

煙草だって、もし最初から煙草を吸うことをしなければ、煙草をやめたくれもやめられない苦しみにあうこともない。金と心配と健康を捨てるようなわざわざ病気になるようなものだ。

金儲けだって、食べ物だって、自分が必要なだけ得て、それ以上は持たないようにすれば、無理して働くことも、それでよけいな心配も、苦しみも、病気にもならなかっただろう。

自分しかできないことをするのが、自分らしく過ごすことであり、一番気楽であり、人に役立つことであろう。他人にとって代わることができないのが、自分の命であり、健康である。ダイエットもまた、他人が代わってできるものではないので、自分しかできないことだ。

そもそも自分というのは肉体とその肉体を元にした心のことである。だから、自分しかできないことというのは肉体的なことであり、社会や人類のためというようなものではない。脱原発は日本や世界のためで、自分しかできないことではない。今の自分が脱原発でできるとしたら、投票以外に ダイエットではないだろうか。必要以上の食事や運動はしないことが自分の健康を保てるように、社会も、必要以上の電気も作ることもしなくなるだろう。

今までずいぶん宗教的なことを信じてきて、それに悩まされ続けた。もし、そんな宗教を信じなければ、そんな苦しみに遭うこともなかった。宗教は麻薬といわれるように、神仏という精神的存在への依存症になる。神仏なくして暮らせない生活になってしまう。

必要以上は何もしないことが、一番自然な行為であり、健全で安全な暮らしができそうである。

今の田舎に引っ越してきて、近所の8人の隣人組に入って3年たち、何かと河川清掃とか呼ばれ、私は東京に仕事が多く、また、子供の世話でなかなか行けないし、朝が早いので寝坊してしまったり、その期日をすぐに忘れてしまうことで、参加ができず、迷惑をかけてしまうことで悩みが多くなっていた。もっとも困ることは組長順番性で強制的にされるので、参加もできない自分にとっては悩みの種だった。

そもそも、河川清掃する河川は私の家のそばにはないし、葬式の手伝いといっても、知らない老人のためにする。自分には全く無縁なことである。唯一毎月に組長から配られる市の広報誌や回覧板はなにも組長がしなくても、市が郵送すればすむことだし、それに、ネットでいつでもその内容は知ることはできる。必要のない瓦版や広報誌の配布は組長の手間を増やすだけのことである。

年に一回新年会があるが、それが唯一近所のつきあいの楽しみではあるが、それだって、なにも組に入らなくても、個人的に好きな隣人とつきあえばもっと楽しいし、儀礼的なつきないでなく、友好的なつきあいができる。結局、その新年会でつまらぬけんかになり、私は退会できるようになった。

必要以上のつきあいをしないことも、悩まされることもない自分で、社会の健全化であろう。

必要は発明の母というが、必要は自分の健康と社会の健全化の源ともいえるだろう。

 

 

 

ちょっと我慢するのが丁度いい

火曜日, 4月 1st, 2014

今年の願いが脱原発だったが、即脱原発の細川都知事選を自分なりに最大限応援したが破れたことの無力感は大きい。また、脱原発運動を妨げる要因が同じ脱原発運動家にもあったことで、それが二分された後遺症も大きい。

脱原発は自分がどう頑張っても実現できるものではないことを痛感し、今年の目標を変更し、「自分しかできないこと」の中から選ぶことにした。しかも、それが努力すれば可能である内容に絞ることにした。

それが何度も失敗したダイエットを成功させることが、今までやってきたこと、今やっていることの延長上には具体的にピッタリと符合する。

自然循環を目指してきて、自然に食べ物が毎年できるようにする挑戦に、食べ物を必要以上に食べないことで健康を保つことも同時に必要であるからだ。

人間はより多くの豊かさを求めて、例えば魚を捕れるだけ取って、お金を得ようとすることは魚を全滅させ、そして自分たち人間の食料も枯渇してしまうことがある。それは魚の再生を妨げることがないように、常に人類が必要な魚の一定量を確保するには、収穫量を制限しなくてはならない。

原発のウランも再生はできないし、核ゴミも安全化もできないので、それは人類の全滅させるのは明らかだ。ダイエットもまた、食べ過ぎで病気になるし、必要だけの食べ物で満足することが、健康でもあり、社会的にも、個々人の食べ物の豊かさよりも、全体に食べ物を分け与えていく楽しさの方がより平和的である。

飢餓撲滅はとてもできないが、ダイエットならば自分でもできるし、自分しかできないことでもある。それは自分の健康にとっても、社会の平和と健全化や楽しさにとっても、有効な力になれる。

経済企画庁前で、脱原発ハンガーストライキがあり、それを真似て私も10日ばかりハンストをしたが、リバウンドして、元の黙阿弥になり、脱原発も後退し、推進に政府は動き出した。

小食よりも断食の方が実は簡単で楽である。それは禁煙でもそうだ。断食で問題なのは断食後の小食をキープすることが難しいことである。それは楽な断食よりも、最初から難しい小食に挑戦した方がリバウンドしない小食を快感にする習慣ができることを意味している。

断食は運動しないことが多く、筋肉までも減らしてしまうため、断食後筋肉を使い出すとさらに食欲が強くなるので、小食よりももっと辛いストレスがたまることになり、実際、私はジンマシンに苛まれ、それが治るまで一年近く必要だった。過度のストレスは食べ過ぎのように病気の主原因になる。

適度な運動が気持ちがいいように、適度なストレスは健康にはいいようだ。

ダイエットは自分への小さな親切運動ともいえるだろう。「ちょっとの我慢をして、自分にも、社会にも貢献しよう」というモットーが一番快適なダイエット方のように思える。

無理なダイエットというのは過度の努力であり、自然なダイエットとは適度な努力ということであり、それが持続可能な自分の健康と社会貢献であろう。

昔、丁度よいという法話に感銘を受けた。それをもっと実践しやすい言葉にするなら、「ちょっと我慢するのが丁度いい」であろう。