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自他は常に一体なんだなあ

木曜日, 10月 23rd, 2014

戦場のピアニスト を録画でみた

ドイツ人によるユダヤ人の大量虐殺の中生き延びたピアニストの半生である

同じ時代 日本の戦時中に同じ虐殺がされていた

民族の争いにはこうした残虐な大量虐殺が多くみられる

戦国時代では同じ民族同士でも 家系の争いにも大量虐殺があったし

今の世界でも宗派の間でも イスラム国のように残虐殺人がみられる。

 

こうした歴史をながめると 殺した人は殺され 権力で虐げた者は権力で虐げられる 繰り返しである

一体なぜ こうした残虐な戦争を古今東西で繰り返し行われるのか?

 

それは単純に 「自他一体である」というのが真実なんだと思えるのである

そもそも命は自他の夫婦から産まれたモノであるから 自他が一体でなければ命は存在しない

つまり

他人を殺せば自分も死んでしまうという命の存在定義でもある

そこに善悪なんかは関係なく 他人を殺せば自分も殺されるという単純な命の原則つながりがあるだけである

個人同士であれ 民族や国・宗教間であれ 殺せば殺されるという命の原則があるだけだ。

 

そこに上下関係があったとしても 下の者が上の者に殺されていいわけななし 逆もない

上下関係は社会の意志決定や安定には必要だが 命のやりとりだけは上下関係は無関係であり 平等であるといえる。

どんなスポーツでも勝敗あり 上下関係があっても そこに命のやりとりはないし 命を奪うスポーツはスポーツではなく戦争である。

 

こうした命の存在原則には

死刑制度は悪法であり 命の尊厳と存在意義を無視している。

無実の罪で死刑になるえん罪も絶えないのもそれを証明している。

 

死刑は殺したから殺されるのは当然という命の歴史的原理からきているが

自他一体であるという命の存在意義からは逸脱している

死刑は犯罪を犯した者が再び同じ犯罪を犯さないようにするためのものである。

だが、 殺人者をどんなに死刑にしても 殺人者はけして減ることはないというのも歴史的事実である

殺人犯罪を減らすには死刑制度ではなく

殺人を犯した人が他の殺人を犯さないような力になるか 殺されそうな人を救うかどうかが大事になる

日本の将棋の駒のように 相手も駒をとったら それを味方の駒にできるようなゲームが命のゲームに適応している

つまり 死刑よりも

一人殺したら 一人救わねばならないという法律に替えた方がより自他一体の命の原則にあう

 

いろいろな宗教の最終目的には 神や仏と自分が一体になることであるが

神仏を命の源とすれば 自他が一体となって命が産まれるのだから それは自他一体のことである

神仏との一体や自他一体の姿は悟りのように求めてもけして今生では得られないものではない

すでに 命があるならば そに者はすでに神仏と一体であり、自他一体であり

それは最終目標ではなく 当初の真実なのであり 出発点である。

 

だから

何人も他人を殺せば殺されるか また他人を助けなければならない運命を持つのである。