命に勝る善悪はなし

映画でも 現実でも

何事も 最終的解決方法が命を奪うことになっていることは愚かで空しい。

宗教や法律の解釈により、残酷な殺戮行為がおきている。

十代の頃 宗教的生き方に憧れていたときに

「戦わずして生きるよりも 戦って死ね」という言葉を信念にしていた。

老年になった今 それが間違った信念であり、その信念は解釈によっては残虐な危険行為を起こさせると思える。

アメリカ映画は勧善懲悪が多く、悪人はバンバン殺してこそ世の中の平和と幸福が保たれるという信念が底辺にあり、

善人は悪人と戦かわずして生きるよりは 戦って死ねという宗教的な信念と共通している。

こうした善悪が命よりも重要視されることは根本的な間違った思想であり信念である。

なぜなら

命あっての善悪だからである。命がなければ善悪なんか空しい限りである。

命は善悪を超えた最も大切な宝であるからだ。

宗教における神仏は善であり、悪魔や修羅は悪であり、

神が人の命を創造したり破壊したりすることを受け入れていること自体馬鹿げた信仰である。

この神が天地創造したという信仰は善が命よりも大事にしなさいという洗脳教育であり、この世の現実とは合わない空虚な論理である。

人の命なくして神仏はない! 命なくして善悪など空しきこと!

神仏や善悪よりも 人の命を大切にする思想や信念がこれからの時代を平和へと導くことができるだろう。

 

 

 

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紙幣を燃やす儀式があった

土曜のBSテレ朝の新番組「奇跡の地球紀行」ブータンを観たが・・

小麦粉とバターで練った人形に悪霊を閉じこめ、それを燃やして仏様に捧げる儀式があった。

その際、神様に祈りを捧げる賽銭のような意味で 紙幣も一緒に燃やして仏に浄化してもらうことを知った。

ブータン悪霊燃やし1

 

オカネを燃やして神仏に捧げるなんてことは世界でも珍しく

それはまさに腐るオカネ・減価する貨幣を象徴するようなものである。

イエスは

「皇帝に税金を納めるのは正しいことですか?」という問いに

(銀貨に刻まれた皇帝の肖像を指して)

「これは誰の肖像と銘か?」

「皇帝のものです」

皇帝のものは皇帝へ 神のものは神に返しなさい」と答えた。

貨幣は血液のように身体全体を循環して命を保つようなものであり、

もしオカネが循環しないで 滞ってしまうと 不景気になり 経済は病的に悪化する。

今の貨幣は貸し借りを基本とする信用貨幣(債権)となっており、返済されない債権は紙屑となり、燃やされたり捨てられたりする。

イエスが言うように

オカネはその発行者に最終的に返還することで 循環し 価値を維持することができる。

腐るまた減価する貨幣はいわば燃やせる貨幣であり、燃やした貨幣分の額を発行者はまた印刷製造することができるということで循環するシステムである。

現貨幣システムは貸し借りで増価する貨幣であり、返済されないリスク分を上乗せした利息分で増加するが、

元金も返済されないと不良債権となって紙屑になるか、発行者の日銀が新たに紙幣印刷製造して不良債権を買い取り

信用を回復させて循環させていくものである。

つまり

どんなオカネも発行者と使用者全体で循環しなければ意味がなくなるものだ。

ブータンにおける賽銭を燃やす儀式は悪霊が好きなバターケーキやオカネに取りつかせて それを燃やし 仏様や貨幣発行者に返還し 循環浄化する行いといえよう。

仏教における悪霊とはものの執着心である。悪霊に取りつかれた人とは 甘くて美味しいケーキばかり食べて肥満になったり、金儲けにこだわり、ギャンブルばかりした浪費生活になってしまうような人のことである。

カネは天下の回りものと言われるが

カネは天下の回りものでなければ何の価値もなし

であろう。

ブータンは日本と同じ火葬であるが 生まれ変わりを信じるが故に先祖の墓はない。

火葬された遺灰は聖地に持っていき播かれ、仏の元に返して清めてもらう。

命もオカネのごとく、また神のものは神へ 仏のものは仏へ 返して また新たに生まれ出る循環によって その価値を持つのだろう。

先祖の名も生まれ変われば新しい名が付くので 名前や家にこだわるのは執着心であり、悪霊に執りつかれ 不幸になるようなものだ。

日本も先祖の墓を作らず 自然葬として 海に播いたり、桜の木の下に播いて自然に戻す埋葬方法が流行ってきている。それが余計な世俗的なこだわりや執着の問題に巻き込まれて不幸になるよりは 流れる水のごとく幸せな気持ちにいられるコツであろう。

 

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ベイシックインカムとその税とその電子マネーが景気持続させる

喧嘩神輿というのがある

二台の神輿がぶつかり 押し合いして競り合うのだが

どちらの神輿が勝った負けたというのがなく

競り合う元気な姿を神様に奉納するというものである。

それは神事に勝敗なしということでもある。

 

金銭システムにおいては自由市場が原則であり、

人々が互いに競い合ってモノやサービスを生産し合う活気溢れる姿が健全であり、それが生きている楽しみでもある。

それはマネーゲームのようなギャンブルにも発展しており、それはちょうど麻雀のような数人で運と技能を競って 金銭を取り合う姿でもある。

麻雀は競技者にとっては勝敗があるが、麻雀の場を提供する店にとっては喧嘩神輿の神様のように勝敗はなく、競技者が楽しく活気溢れる参加者も増えることを望んでいる。

 

麻雀を始めるためには競技者四人平等に15000点ずつ分配しなくてはならない。半チャンが終わって誰かがハコテンになって破産しても、競技続行するにはやはり四人平等に分配しなくてはならない。

この麻雀における点数棒の総金額60000点が国においては貨幣発行総額であり、半チャンが終わってハコテンがいた場合 勝った者が負けた者に金銭を貸すことで協議再開され、点棒としての貨幣はまた全員平等に15000点ずつ分配され、金銭の貸し借りした数字の記録紙の総額も点棒貨幣の本質もまったく違うものでああ。

それは現金と債権や株とは違うようなものであり、麻雀の貸し借りは返済できて始めて成立するので信用貨幣といわれ、現金とは別なものである。

 

マネーゲームが麻雀のように持続可能な正常で楽しめるものであるためには

国は全国民に平等に貨幣を分配と回収をゲーム再開できるように定期的にする必要がある。

それがベイシックインカムとBI税の実施必要である。

BI税で、麻雀のように半チャンを毎月末として、分配した貨幣をすべて回収することは難しい。

しかし、現金を紙幣ではなく 電子マネーにして、貸し借り信用電子マネーとは区別して

例えば 銀行預金通帳に 15000BI と記載し、15000YEN とはハッキリ区別すれば 毎月末にすべての銀行預金通帳から全国民のベイシックインカム分配金を回収し、平等に分配することは可能で容易いことである。

つまり、

ベイシックインカムとベイシックインカム税とベイシックインカム電子マネーは三位一体で自由市場の景気を持続させるには必要な貨幣システムである。

どんな戦いにも最低限のルールがある。

ルールがないのが戦争である。だから楽しめないで悲惨だ。

スポーツが楽しいのはけして敵を殺さないことだ。戦争は敵を殺すことが目的にもなっているので醜く苦しみでしかない。

平和における戦いであっても

けして敵を殺してはならないことを最低限のルールにすることが

闘いを楽しくすることができる。それはまた正義でもある。

ベイシックインカムは自由市場の平和社会における闘いにおいて

敵をけして殺さないこと

それは敵を生かす活かすこと

それを最低限の自由市場のルールとなる。

ベイシックインカムなしに自由市場は正しく機能しないのだ。

そのルールを支えるベイシックインカムマネーは貸し借りして返済なければ通用しない信用貨幣や売買できる債権通貨とも違う。

貸し借りなどしなくてもいいし、ましてそれを売買する必要もない

ルールが試合中にコロコロ変わったり、貸し借りできたり、売買できたら マトモな試合なんかできないし、楽しめるものではないではないか!

 

 

 

 

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死の世界などない

今生きていることを楽しむと この世は天国だと思う

今生きていることに苦しむと この世は地獄だと思う

天国も地獄も この世の生活に在るのだ!

善人が死ぬと あの世の天国に逝き

悪人が死ぬと あの世の地獄に逝くというが

人が死んだら その姿は善人も悪人も 焼かれたり腐ったりして 誰が誰だかさえも解らなくなる

死の世界に善悪も 名前も 意識もない 何もない世界だ

つまり 死の世界など無く 死もない!

死が無いから生だけが有るというのは間違いである

死がなかったら 生もない 逆も真であり

生もなかったら 死もない!

この世は生きている世界と言われるがそうではない

この世に天国と地獄があるように この世には生と死の世界の両方があるということだ

生も死も生きている人しか認識できない 死んだ人は生死など認識できない

つまり 死の世界 あの世など存在しないのだ !

魂だってあの世に存在しない 魂があるのは生の世界 この世だけである

 

死の世界がないならば・・

では・・

人は死んだら みなどうなるのだろうか?

何億何兆もの身体の細胞の一つ一つは毎日のように新陳代謝して生死を繰り返す

その細胞一つ一つが一人一人のように名前が付けられたとしたら・・・

細胞も人も死んだら 名前が変わるだけにすぎない!

細胞も人も その一つ一つの差異などわずかであり みな似たり寄ったりである

現実に死ぬ人もいれば 生まれる人もいる

古今東西 死んだ人も生まれた人も そう大差などない みな似たり寄ったりで

名前は違えども みな同じように感じ 同じように思い 同じような生活をする

他の生物からすれば 人類など一つの生物のように認識するだろうし

人の生死や差異など気にせず 人類ということだけが気になるだけであろう。

つまり

人が死んだら生まれ変わるといってもいいが

死の世界などないから 誰でもすぐに生まれ変わるというのが正解である!

よく死んだら何もなくなるというが そういう意識は間違いだ

死んだら 本当に何もない 無いも無い 存在しないのだから無も認識できないのである

むしろ人はけして死なないといっていい!

人はこの世で名前を変えながら生き続けているというのが実態である!

 

 

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フリマ笹塚笑点でもやりますか?!

もう36年も一緒に仕事している相棒がいて

その相棒が もう新定年65歳になった昨年

突然 映画やテレビの脚本の学校へ行って脚本家になった。

今では毎週水曜に新人の脚本を批評している。

 

一方の私も今年65歳の国民年金受給者になって

この日貸し店舗 フリマ笹塚商店は 空きが増え

その赤字を年金で埋めても なお赤字で ボランティア営業中だ。

 

この老人コンビ二人でなんとか 残りの余生をかけて

この落ち行くフリマ笹塚商店を盛り立てて生きていけないだろうか?!

相棒はフリマ笹塚商店の予約受付や顧客世話などの実際面をやり

私は企画経営面を裏でやっているのが現状だ。

 

相棒は脚本家という技術を身につけているが

「何を書いていいのか?」とんと頭に浮かばないらしい

一方の私にはそんな技術はないが

とにかく いろいろなアイデアがポンポン出てくるが

みな絵空事で いわば空中分解してしまうアイデアばかり。

 

その絵空事が今夜また飛び出した!

ピンチはチャンス!ではないか?

フリマ笹塚商店の空き日にフリマ笹塚笑点を開いたらどうだ?

商店を笑いの笑点とかけて

年金コンビで 漫才やコントを このフリマ笹塚で開店したら

どうだろうか?!

笑点のお題やアイデアは私が出し

その漫才コントの脚本は相棒が書く。

 

例えば こんな漫才で 自己紹介を始める

H「は~い こんにちは フ~マ でーす」(東京五輪を決める安倍首相のように)

K「は~い こんにちは リ ・ サ で~す」(指でおもてなしと決定づけた滝川クリステルのように)

H「ところで なんで名前が呆け老人のような貴方が可愛い名のリサなんですか?」(変だろうという突っ込み)

K「フッ!」(女笑い)で間をとり 一人芝居

「リ! 理由なんかないわ」

「マッ! その返答に驚き

「ここはフリマ笹塚笑点でしょう! だから」

「フ~マさん 貴方がフ!

N 「フ!」

K 「リ!」

N 「マ!」

K 「サ! ササヅカよ!」

 

フリマ笹塚笑点は一般劇場ではない

いわば商店街の露店笑人である

舞台も控えもない

練習も創作も その場でやり、その場で演じる

一般商店でないからお金はとらないが

お金の代わりに 笑いをとる。

 

NHKで 法律相談のコントがあり その答えは弁護士がするが

民放にように その答えは弁護士の投票率で正解率何パーセントがいい

漫才コントを観ていた顧客から 笑いの点数として座布団をいただく

お題は法律相談のような世評が正反にはっきり分かれるような

今話題のニュースを取り上げた漫才コントにする

お客さんにも その問題を考えさせ 笑いで回答させてもらう。

 

昔も今も 私は寅さんが好きで

特に チャラチャラ流れる御茶ノ水で始める露店口上が最高だ

最近 ゴミ処理でリサイクルしたい商品がたくさん出たので ただでも売りたい

そこで 寅さんのように リサイクル品を一つ一つ笑いで売るのが好きだ。

 

例えば 炊飯器がゴミで出たとすると その売り口上をバナナの叩きのようにするのだ

「チャラチャラ流れる御茶ノ水 ではないが ここはサッサ ツカツカと歩くガイ 笹塚の商店街・・

家路を急ぐガイ 人たち 家で誰かが温かいご飯を作って待っているのだろうか?

コンビニでご飯なんか 買うんじゃないよ 家で待っている人に作ってもらいなよ?

「何? 待っている人なんかいないって? 一人ものかあ!」

「何大丈夫! この炊飯器 自動でセットして 自分で炊き上げてくれる!

君は一人じゃあないよ! ご飯を毎日作って待ってくれるこんな炊飯器があるじゃあないか?」

「あなたを待つこと一万年 どうだ? この炊飯器一万円でどうだ?」

「何 中古だって? じゃあ その半分の 待つこと五千年 驚き 桃木 山椒の木 五千円でどうだ?」

ってな具合で どうでっしゃろか?

 

 

 

 

 

 

 

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