禁煙とダイエットの違い

20歳の時に喫煙をしてから

健康や経済的や清潔的被害そして何よりニコチン中毒による依存症に苦しみ

なんども禁煙に挑戦しては失敗して喫煙量は増え続け、一日に60本吸うヘビースモーカーになってしまった。

だが、45歳の時の何十回目の挑戦で禁煙が成功できた。

 

60歳になった時から自分の体重が増え始め 90キロくらいになり、体が重くなって何かと息切れするようになった。

それで本格的にダイエットに挑戦しだした。

ご飯を御代わりしないで一杯だけにするだけで 数か月で 82キロまですんなりと痩せたがそれ以上痩せることはなかった。

その後気にせずに食べていると82キロと86キロの間を行き来していた。

62歳の時 人間ドッグにいったら メタボだけの診断結果が出た。それで再びダイエットに挑戦した。

禁煙と同じようにやれば ダイエットだって楽にできるだろうとたかをくくっていた。

 

禁煙を成功させるコツは

「一本煙草を吸ってしまったら 一生涯煙草を吸い続けてしまう」

ということを体験的に信じることである。

禁煙は節煙が難しいというより できないのだ。

一生涯 喫煙するか 禁煙するか どちらかの二者択一しか道がない。

煙草一本吸うのも 煙草100万本吸うのも 同じであり、吸う数の問題ではない。

ハムレットのように

「生きるべきか 死ぬべきか それが問題」であるように

命の選択として 煙草は吸うか 吸わないか どちらかが問題なのである。

私は生きる道として吸わない禁煙を選択して、克己して勝ち抜いた。

 

その経験による自信は大きく 禁煙に比べてダイエットは楽勝だと思っていたが

挑戦してやってみると 禁煙よりダイエットの方が数段難しいことを知った。

理由は簡単だった。

禁煙は吸うか吸わないかの二者択一がコツなので

ダイエットを食べるか食べないかでやれば楽勝だろうとして

絶食ダイエットを10日間実行して ダイエットは成功したかのように見えたが

その後小食に切り替えたが 腹いっぱいに食べられないストレスでジンマシンを発症してしまい

ダイエットを断念してしまった。するとすぐにリバウンドして元の木阿弥の82キロ以上に太ってしまった。

ダイエットは禁煙のように食べるか食べないかの二者択一ではない

節煙のように 量の問題であり、小食で我慢する習慣を身につけることである。

つまり 節煙は禁煙よりはるかに難しく不可能とさえ信じてしまうほどであるように

ダイエットは絶食して生きてはいけない 節食でないと健康で長生きはできないのであり、

禁煙よりはるかに難しいものである。

だが、節煙は不可能でも、節食は可能である。

それは禁煙やダイエットに成功した人もけっこういるからだ。

 

ダイエットは一年くらいの挑戦で20キロ減量までもってきたが、

まだ4キロのリバウンドとリダイエットを繰り返して 安定化を目指して努力している最中ではあるが、

そこで把握したコツは

一日の栄養の必要量より多く食べれば太り 必要量より少なく食べれば痩せる

ということである。

実際的にいえば

栄養バランスのいい食事を三食すれば太り、一食にすれば痩せ、二食にすれば安定する。

もちろん、何食でも 一日でトータルした必要栄養量が安定体重となるというのが基本であるが目安としてのコツである。

 

煙草は生きるに必要がない。煙草を吸わなくても生きられるし、吸わない方がむしろ健康的に長生きできる。

食事は生きるために必要であり、食べ過ぎても、食べなさ過ぎても病気して 早死にする。必要量食べるのが一番健康な生き方である。

禁煙はニコチン中毒の依存症からの脱却だが、ダイエットは過度の食事習慣から 必要なだけの食事の習慣への改革である。

 

禁煙と同時に 禁パチンコで大きく悩んだ時期がある。パチンコで月に20万円も使ってしまい、生活費だけでなく貯金も減らしてしまった。負ければ悔しくてまたやり、勝てば嬉しくなってまたやり、その繰り返しは時間とカネを浪費し、またパチンコする間煙草をたくさん吸うので健康も害していった。まさに復讐するような負の連鎖であった。それは喫煙するときのようなギャンブル依存症になり、その泥沼から抜け出せないであがいていたのである。

ギャンブルもまた喫煙と同じく その依存症から脱却するには二社択一の道しかない。

ギャンブルは生きるのに必要ではない。ギャンブルしなくても人は十分生きていける。実際私はギャンブルをやめてから数十年たっているが生きる不自由をしたことがなく、ギャンブルしていたころの方がむしろ生きることに不自由を感じていたからだ。

 

禁煙とダイエットそして禁ギャンブルと振り返ってみると、こう問い直してみるとはっきりした方向性と決断ができるだろう。

「それは生きるために必要なのか?」

と。

 

金銭システムにしても、同じように「その金銭システムは人々が生きていくために必要なのか?」と、問い直してみれば

新しい健全な金銭システムに改革できることができるだろう。

 

 

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終わりなければ始まりもない

始まりがあれば終わりもある

終わりがあれば始まりもある

故に

終わりなければ始まりもない

 

原発は半世紀前「トイレのないマンション」のような建設で始まり

その放射性ゴミのトリチウム(三重水素)は毎日海に流され、

それ以外の放射性ゴミは世界中どこにも捨てられない物質として 安全になる10万年~100万年どこかに保管しなければならなくなっている。

途中 日本は原発事故で数百万人の被害者を出しながら 故郷から追い出されたが帰るあてもない。

日本与党はそうした現実を無視して再稼働し輸出までしようとしている。

トイレのないマンションに便を垂れ流しながら 次々とトイレのないマンションを建設し また便を垂れ流し、

事故で便が溢れてしまうと 海外にトイレのないマンションを輸出している。

それは危険な生物兵器を開発するが その生物を無害化する技術もなく 使用してしまい その事故にあって自国もその危険細菌に犯されにっちもさっちもいかなくなっているようなものだ。

どんな生物兵器もそれが無害化できる薬も同時に開発されなければ使用もできないので開発されたとはいえないように

原発ゴミを安全に無害にする技術なしに原発を開発し建造したことにはならないし、まして稼働させたら 人類に電力の恩恵を与えるどころか、人類末代まで遺伝子レベルで自滅させてしまうことになる。

もう二度と原発事故による被害を出さない最良の安全策はもう二度と再稼働することも輸出することはしないことである。

原発事故の終わりは原発再稼働の終わりでもある。

もし原発再稼働すれば原発事故もまた始まり 被害はさらに広がることになる。

原発はいわばトイレのないマンションという欠陥住宅であり、そこに住むこともできなければ 取り壊して廃炉にするしか道はない。

終わりがなければ始まりもない

終わりが見えなければ始めてはならない。

 

そして すでに作ってしまった放射性ゴミと原発そして拡散された放射性物質を

人類が100万年の存続をかけて 

海底地下数百メートルに保管管理することから始めなければなるまい。

その間人類は放射性ゴミを安全に無害化技術を発見できるかもしれないし、その無害化技術を研究する努力はけして終わりにしてはいけない。

物事には始まりがあれば終わりがある

事に当たって

終わりなきものは始めてはならない!

 

 

 

 

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自分しかできないことをやるのが一番いい

脱原発を最後の仕事に 大江健三郎さん会見

東日本大震災による東京電力福島第1原発事故について、ノーベル賞作家の大江健三郎さんが10日、日本外国特派員協会(東京都千代田区)で記者会見し「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」と語った。

都知事選の時に二人の元首相 細川&小泉さんも街頭演説していたが
「(老齢にして)残された人生すべてを脱原発にかける」と。
その応援をする老齢な著名人もまた同じ気持ちである。

無名人の老人になった私も昨年同じ「残された最後の人生を脱原発にかける」意気込みで都知事選の細川氏を応援した。

だが、トップ投票の自民党候補に半分にも満たず しかも同じ脱原発派と票の取り合いして負けて3位になった。

京大助教の小出さんと同じように つくづく政治の世界が嫌になり、もう二度と政治家の応援はしないことにしただけでない。

多くの著名人や元首相連合でさえ 脱原発一歩へ進める力にはなりえなかった。

まして無名な一老人の自分にとっては「空しい限りの情熱と労力」でしかなかった。

そして脱原発への直接的な運動や応援は一切やめて

「自分が努力すればいくらかでも叶えられる事」だけに 「残された最後の人生をかける」ことに大きく方向転換した。

それがダイエットだった。

一年近く努力した結果 メタボ克服して健康体重近くにすることができた。

自分が努力して報われやすいのは自分の身体だからであろう。

実際に努力する相手は自分の身体というより自分の心であり、その中の主に食欲であり、

目標結果がでたとしても その努力は終わりではなく 一生涯続けなければリバウンドして 元の木阿弥である。

結果に終わりがあっても その努力に終わりはけしてない!

 

この脱原発への挫折とダイエットの成功経験から、大きな人生教訓を得られた。

それは自分の子供たちへの応援や残す遺産にも大きな変化が見られた。

子供たちが本当に望むことを叶えることができるのは子供たち自身の力でしかない。

残す遺産にしても それが本当に子供たちに役立つとは限らない。自分が親から受けた遺産についても、それを自分に役立てるには自分の努力以外にはなかったからだ。

それは

努力すべきことは自分しかできないことに絞り込むことがよりよい結果に結びつく

発見をしたことである。

 

子供がダイエットを望むからといって 親が直接ダイエットを応援することはできない。都知事選応援のようにワイヤワイヤうるさく子供にダイエットをせかせても うざくてしつこいと反発され その結果マイナスになってしまうのが落ちである。

親がダイエットしたい子供に対してできることは親自身がダイエットすることで十分であろう。それが瓦理論の他人の2割の刺激力にはなれるかもしれない。

子供たちの生活力を応援したいとして、ただ遺産を残すことで本当に応援ができるだろうか? むしろ、原発再稼働を進める二代目政治家安倍首相のように 日本をマイナスに追いやる力になってしまうのではないだろうか。

板橋で崩壊しかかった木造アパートを今リフォームしているが それを放置して空き家にしても 業者にリフォームを頼んで貸せるようにしても 子供たちへの遺産になる。

空き家だと固定資産税もかかり、また周りに住民にも迷惑をかけるかもしれないし、借金してリフォームしたとしても借り手ができるとは限らないし、姉妹で相続争いをするかもしれない。そうなると 子供にとっては頭も痛いし カネもかかる負の遺産である。

子供たちの生活力を応援することで 親が間接的でも2割の可能性があるとしたら 借金したり業者まかせでリフォームするのでなく、自分でリフォームするという「生き様を残す」ことが一番いい遺産になれるのではないだろうか。

自分でリフォームすることは自分でしかできないことだし、その努力も報われやすく、老人の残された生きがい(生きる力)にもなってくる。

「親がやりたいことをやる」それが「子供たちがやりたいことができる力への2割の応援力」になっていくと思えるのである。

 

「自分しかできないこと」 さらに「自分が大いにやりたいこと」に絞って 残りの人生をコツコツの築き上げていけば 悔いのない充実した人生を全うでき、明日の子供たちにも役立てる可能性がきっと2割くらいはあるだろう!

 

 

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放射性ゴミは海底深く貯蔵するしかない

3.11震災鎮魂祭が昨日行われた。

テレビに映し出された「原子力明るい未来のエネルギー」の看板に身震いする

原子力明るい未来1

放射性ゴミはどこにも捨てられないので 原発再稼働はできないのは当然だが、

すでにばらまかれた大量の放射性ゴミを安全に保管する場所は海底深く保管するしかないだろう。

その放射性ゴミの島を建設するには

海底を深く掘り その土をゴミの島の周囲に配置し 水を堰き止める。

陸地と島を結ぶ海底トンネルを造り 放射性ゴミを搬入する。

その島の地上には自然エネルギー生産基地にしたらどうだろうか。

放射性ゴミの島1

陸地中深く放射性ゴミを保管しても地下水で漏れ出す危険がある

海底深くだったら拡散せずにずっと保管できる。

膨大な放射性ゴミを安全に輸送するには海底トンネルを造るしかない。

ピンチはチャンスのように

原発ゴミの地上には自然エネルギー生産として

風力太陽光潮力発電して陸地に送電また燃料電池工場を造ったらどうだろうか?

実際に建設するとしたら

海底を深く掘って その土で水を堰き止めるためには

海底トンネルよりも陸地より海底深く掘り進む道路建設がいいだろう

放射性ゴミの島2

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客観性が自然なんだ

今までず~と勘違いしていた。

自分とは自分の身体のことだと思っていたことだ。

それはまた自分の心と観察力を一緒くたにしてしまうことでもあった。

自分とは身体と心の両面をもち 性質も姿も違うが けして切り離せない関係である。

 

自分を観る眼は誰にでも在り それは客観ともいう。

主観で主観を語れないように 自分で自分を観ることはできない。

自分を観そして語ることができるのは客観しかない。

この客観こそ自然である。

 

人間と神仏を対比して対話するが

それはインド思想の信心である「神我一如」からくる想像であり、

自分の思いを世界に描くようなものである。

神が善悪の判断をしたり、人を選んで救ったり救わなかったりする愛のような姿をするのは

神が人の思いから創造されたものだからであろう。

人の思いとは人は我の集まりであるから、自分の思いでもある。

神仏の名前がいくつもあるように また同じ神仏を信じていても たくさんの宗派が在るように

神仏はいろいろな人の自分の思いから創造されたものだからである。

 

人の思いとは別に

宇宙にたくさんある星は爆発しては収縮を数百億年をかけて生死のように繰り返す

地球の姿 そこに住むたくさんの生物の姿も またまったく同じ姿にはならないが生死のように繰り返している。

それを自然という。その自然は事実ともいい ときに人の言葉に照らして真実ともいう。

その自然の姿は人の客観として共通認識できるものであり、また他の生物にとっても同じ認識ができるものである。

この自然の客観が在るからこそ 自分も他人も 神仏も 宇宙も地球も 共通認識また受容できる。

 

ダイエットも どんな戦いも 人の欲望との戦いであり、

そうした欲望との戦いとは無関係のような自然客観性ではあるが

長い時間をかけて 「なるようになっていく」ような欲望と身体を支えている。

星の爆発収縮を止めようがないように 命の生死のくりかえしも止めようがない。

それは時間がけして止まらないように 星も命も生死を繰り返す それが自然と客観である。

もし欲望との戦いに疲れたら 自然と客観で一休みすればまた回復して戦えるだろう。

欲望だって睡眠が必要だからだ。

 

 

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