自分とも友だち会話が丁度いい

親子も友だち関係が丁度いいように

自分との関係も友だち関係が丁度いい。

自分の身体は自分の思い通りには動かないで苦労するし

自分の心や欲望だって 自分が本当に望む通りには動かないこともたびたびだ。

そこで

自分との葛藤といいうか 自分との会話というものが必要になってくる。

こうしてブログを書くことだって 自分との会話である。

多くの人が利用するツイッターだって それは自分のつぶやきであって 他人のコメントを期待するものではない

家族もそうだが 人と話をしていると

特に自分に攻撃的に話しかける人をよく観察していると

彼らは私に語りかけているのではなく 彼ら自身に話しかけていることに気が付くことがある

娘が親の私にうるさくダイエットするように話しかけることがあったが

それが親の私に対してではなく 娘本人がダイエットに苦労していて自分自身に語っていた。

それは日頃のうっぷんを特に親しい人にうさばらしするようなものである。

それが気が付く時はその内容がかなりずれている時である。

それはうっぷんばらしだけでなく 通常の会話でも起こりえることだ。

つまり 人と話している時でも 自分自身に話すときでも 友だちとして話せば丁度いいってことになる。

 

神さま 自然から見ても 自他は一体である。

それはまた自分自身もまた自他二人に常に分かれているようなものでもある。

自他 そして自分自身の会話そのものが 自他一体の姿を映し出しているのだろう。

 

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ダイエットも仕事のうち

ここ2日で3キロもリバウンドした。

バイク修理が4日もかかったが治らず、修理不能で買い換えるしかないと判断した。

そのストレスのせいか 腹一杯食べて癒したために肥ってしまった。

ダイエットも一年も挑戦していると

貯まった脂肪を洗い落とす作業つまり清掃のような仕事に思えてくる。

ダイエットは食べたい欲求を抑える忍耐なので それはつまり努力をともなう労力であるからだ。

一方何か甘い物や美味しいモノを食べたいときは疲れを癒すようなもので休み時間のようである。

健康は過ごしやすいように毎日部屋を掃除するようなものである。

メタボになると それは家の修理作業になる。

食べれば何かと汚れるので かたづけ掃除をするように

食べれば食べ過ぎないように 自分の身体をきれいにする身だしなみみたいなものだ。

老境になると仕事はマイペースでないと続かないので

ダイエットも できるだけ我慢して 我慢できなければ食べればいいくらいな気楽にやることにした。

孔子がいうように 「70にして 心の欲するところに従って法を越えず」が丁度いい。

我慢もしたい時にすればいいし、やせ我慢なんかしないで 気楽に腹が減るのを楽しむのがいいだろう。

 

 

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自由は適度な協力で勝ち取るものだ

今年に入って 次から次へと新問題が発生しては追われている

ゴミ処理が一段落して 板橋にリフォーム再開と思いきや バイク故障

ガソリン漏れから始まりキックスタートできずと・・・癌の転移みたく広がり

それを直そうとすると 壊れてないものまで壊してしまったり、

故障原因を間違えて 無関係の部品やオイルまで買い込み交換する悪循環をして

結局 新しくバイクに買い換える決断をするが

壊れたバイクがそのままでは気になり 修理することが納得いくまでやめられなくなっている。

 

こうした雑務に追いかけられながら

一体自分の本当の目的は何なのか? それを問い直してみる!

それは今年もダイエット! ではあるが

ダイエットとバイクの修理とどう関係あるのか?

まったく関係ないようで 実は大ありなのだ!

老朽化して壊れたバイクとメタボ老人とはリンクするからだ。

さらに そのリンクを通じてダイエットの健康のさらに上の目的まで深めることになってきた!

 

先日は「意志の問題が最も重要」が さらに「自由な意志」の考察まで進み出した

「自由は丁度いい協力で保持また広げることができる」

バイクを修理するのも自由だし、新しいバイクを買うのも自由だ

だが両方の自由を選択するより、どちらか一方の自由を選択する方がより自由になれる!

老人となった私にとって 最も大きな目的は残された人生をどう生きるか?である!

それはまた子ども達に何を残すか?という問題でもある。

 

人生64年も生きていると

自由に生きられることが最も大事で最も幸福になれることだと信じられてくる。

そうした自由という幸福を子ども達にも与えたいと望むのだが!

単なる財産を残すことがそれにつながるかは疑問であり

それは銭をたくさん持っていれば たくさんの自由を得られるかが疑問であるようなものだ。

次から次へと起きた問題だって

私が親からの遺産としてもらった土地や不動産や店や銭から起きてきたものであり

もし遺産を放棄すればそんな問題は起きなかっただろう!

しかし遺産放棄して 別な大きな問題が生じて追われただろうことも大いに想像できることだ!

つまり

自由は環境によって その内容は異なってくるが 自由度の100%原因にはなりえないものである。

自由とは自由環境よりも自由意志の方がより重要度も大きく 自由度も幸福度も大きくなってくる。

自由環境を100%幸福度と勘違いして イスラム国の戦争や 他国への侵略挑発で 逆に不自由で不幸環境へと陥る国もある。

そうした国際環境や交流をどうするか考える材料となるのが自由意志と自由環境の問題である。

自由意志は親子であっても本人以外の力は本人の意志よりはるかに小さいものだ。

子どもの自由と幸福に対して親ができる自由環境は財産よりも親の生き様の方が大きいように思える。

教育は知識を与えるよりも 産婆さんのように本人が学ぶのを助ける(協力する)ことが重要であるように。

親がこうやってダイエットに成功したという生き様を子どもに残せば 財産を残すより

子どもはダイエットに成功して自由な幸福を得られる刺激と環境を手にすることができるだろう。

 

自由意志と自由環境の度合いは私の瓦理論の8:2で丁度いいバランスがとれると思える!

次から次へと起きる雑務問題も この瓦理論でハッピイへと変貌させることができる。

雑務問題はいわば自由環境が少なくなり隷属状態のように追われる感じになるが

それを自由意志80% 自由環境20%に改革し決断すると

雑務問題は私の趣味娯楽80%になり、その銭と手間20%になって丁度いいバランスを楽しむことができる。

バイクもほどほどの修理して 新しくして老後を楽しめるバイクに買い換えるのがいいし、

店も倉庫付き駐車場もアパート修理や賃貸問題も 80%私の道楽にして、

その総収益は20%で私が生きられる最低限の生活保障で充分満足すれば丁度いいバランスで幸福度が高くなる。

またそうした親の自由な生き様を子どもに残すことが一番子どもが自由な幸福が得られる20%の親が与えられる自由環境(刺激)であろう。

 

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意志の研究必要性

ダイエットを1年近く挑んでいると

いろいろな知識や技術が身についてきて

「やればできる」という理解と信念さえも持つことができる。

 

だが

「やればできる」とわかっちゃいるけど

「やめられない」「やれない」のがそもそも問題なのだ。

 

結局それは

意志の継続または強弱の問題なのである

私は長年新興宗教(思想)を信仰してしまい

それが教祖の洗脳みたいに 自分の意志が教祖の思い通りに働くことを経験している

もしもその新興宗教がオーム真理教のようなテロ宗教だったら集団殺人までも平気で行ってしまうだろうと思える。

今世界でテロヒンズー教を信仰した教徒によって自爆テロがあちらこちらで起こっているが

そうした妄想信徒に一度深く信仰を経験した者であるなら 自分もそうなってしまう可能性があると感じられるだろう。

洗脳状態における自分の意志は はたしてそれは教祖の意志なのか? 自分の本当の意志なのか?

はっきりと判断できるものではない

 

そもそも自分の意志の力はどれほどなのか?

その強弱は人によっても 時期によっても 環境によっても

大きく変化してしまうものである。

 

国民の意志だって 後で平和となった時代に戦争状態の時を思い出してみると

それは集団催眠(洗脳)されて 「お国(また天皇)のために 死ぬのは栄誉」であると信じて行動してしまった可笑しな時代に見えてくる。

原発が戦争原爆に代わる平和の電力技術と教育させられたのも それも間違った思想を教育することで 従順な子供を集団洗脳した国家教祖ともいえるものである。

 

そもそも憲法や法律はなぜ作られ 大きな力となりえるのだろうか?

国民の意志があちらこちら揺らぐことを抑え

一つにまとめ 大きな力として動くようにしたものであると思える。

それは国民の意志の継続をうながす力であろう。

宗教が力を持つのはその法律のような経典である。

教祖が力を持つのは教祖を信仰する信徒の数である。

民主主義もまた多数決で判断されるので 民主主義を信奉する信徒の数で力を持つといえる。

 

ダイエットを目指す自分自身にとっても

平和を目指す日本国民にとっても

自分の意志の研究をすることはもっとも大事な学問になりえるであろう。

 

 

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瓦理論がダイエットにも自然農法にも経済にも使える

瓦理論とは

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屋根瓦は2割を他の瓦との重ねに使うことで連結し

雨水が家に漏れないようにするものである

もし瓦が割れても 割れた部分の瓦だけ取り換えれば家全体を守ることができるものだ。

社会は公私事で結ばれている。その割合を私事8 公事2にしていけばバランスがいい。

 

この瓦理論はダイエットにも応用できることが解った。

食べ物は他の生物の命を奪って自分の命を支えるものであり、それは弱肉強食の動物界でもいえるものである。

そんな弱肉強食でも 漁業のように 全部食べつくしてしまえば食べ物は枯渇してしまい 自分も滅びてしまう。

それは腹一杯食べると肥満病になり早死にするが、腹八分で我慢すると健康で長生きすることができることにもつながる。

 

自然農法でも 野菜穀物を全部生産し食べるのではなく 二割を種にして同じ野菜と穀物を再生することで 命のバトンをしていくのである。また 食べたあとに生ごみや排せつ物はもとの野菜や穀物の肥料として その肥料を作る微生物の食糧としていくことが命の循環でもある。

 

この瓦理論は経済にも応用がきき、

100%稼ぐ必要はなく、8割稼ぎ 2割ボランティアが丁度いい社会平和になってくる。

銭システムにおいても

自然経済として2割減価税徴収分配することで 市場競争世界であっても 永続できる格差社会になることができる。

それは自分の総財産の二割は税で徴収され、それが公に分配されることで 社会は堅固で健全になってくるという瓦理論でもある。

 

 

 

 

 

 

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