自然さとは自分が死んでも動くシステム―無我自然

自然さとは人間がいなくてもそのまま動くシステムである。

その自然さとは組織においてはリーダーがいなくても そのまま動くシステムであり、

個人のレベルでは自分がいなくてもそのまま動くシステムだといえよう。

 

雑草農法とは人間が何もしなくても毎年その作物が雑草のように実を結ぶ自然農法のことである。

健康と自然の会においても、リーダーが何もしなくてもそのイベントが稼働することである。

個人の店でも主人が急死してもそのまま持続営業できる無理のない経営である

総じれば

我の無い経営システムである。

また、

個人団体組織においてはその意志(リーダー)を引き継ぐ者がいない場合は自然崩壊であり、

引き継ぐものがいる場合は自然な創造である。

・・・・・

逆に個人の健康を考えてみると

他人に依存しなくても自分ひとりで自立して生きていける状態である。

組織の健全さは他の組織に依存しなくても自立経営できる状態であり

地球の自然環境とは人間に依存しなくても、その生態が維持できる環境である。

・・・・

この自然と健康の視点から余生の整理をすることにした。

また、

新たに自分で何かしようとした場合、

個人でもでき、団体でもできるもので、自分が死んでもその活動が続くような内容に限定する。

これを無我自然と名付けよう!

 

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最少の食べ物で

一か月の海外の旅は最少のリュックで十分足りた。

人生の旅も、最少の食料で乗り切った方が何かと健康的に楽に生けそうだ。

あれも欲しい、これも美味そうと つい増やしてしまう。

でも、ほとんど脂肪が10キロ以上ついて重く、軽快な歩きができない。

毎日の飲食を最低限にして、残された人生の重荷を減らすかがポイントになる。

要はダイエットなのだが・・・

ダイエットのリバウンドは・・

ダイエットを苦しんでやるか、楽しくやるか? にかかわってくる。

どう最小限の飲食で毎日の運動を楽しむかである。

脂肪は糖分の採り過ぎは間違いないだろう。

キーポイントはベースの炭水化物の最少摂取量で体調をコントロールしていく。

増えすぎた炭水化物はオカズも飲み物も増えるからだ。

糖分はお菓子や飲み物に多く、基本糖分のないお菓子として生野菜にし、飲み物は水に絞ったらどうか?合わせてヨーグルトでもいい。

特に

ダイエットへの切り替えし意識は必要で

禁煙を成功させた

1本の喫煙も、一生の何億本の喫煙も同じ

この意識でいくと

最小限の飲食で健康人生か?

それ以上で病気人生か?

一時の忍耐で一生の楽か?

一時の快楽で一生の苦か?

この迷いの決断を何度もしてみよう!

禁煙も、ダイエットも、意識の切り替えで成就す!

 

 

 

 

 

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自然の美しさに埋没

健康 平和 を考えながら

自然を意識すると

出逢う人の心の壁が消え去り

オープンな関係になるようだ.

ウユニ塩湖の6人のペルー スペイン ドイツ メキシコ インド 日本

での楽しさはいったいどこからやってくるのか?

二度目のウユニツアーと比較してみると、どうやら、6人は一人旅の人たちであり、二度は家族 友人 そしてオーストラリアの一人旅だった。

僕は一人旅の人との心の交流が特に生まれた。

その比較から、同じ目的と心を共有したときに、楽しい気分が生まれたのでないか?

旅の前に作成したプレゼンは

余りにも抽象的すぎて 旅の現実からすると空しいつぶやきとしか感じない。

もっと

現実的な経験を分析した方がより強いメッセージが得られる。

そして

健康平和自然にどうつなげていくか?

それをプレゼンした方がよさそうだ。

特に

マチュピチュでは写真ビデオをとることに意識が集中していて

瞑想して そこから何かを得られるようにはなかなかできない。

それで7度マチュピチュにいって 写真ビデオをしないで、

一人瞑想するように残り6度をとトライしたいものである。

ここマチュピチュの自然環境は日本の山ではありふれたものであり、

特別、違うというものはない。

ウユニ塩湖にしても、日本の雪原風景とそう変わりがない。

鉄道にしても、観光にしても、安価で、観光客への接待は群をぬいている。

マチュピチュの遺跡にしても、日本の古城あとのような石垣と大して違いはない。

インドの仏跡のおいても、その石組の家の跡とも変わりがない。

だが、

何故、マチュピチュに世界各国から高いお金を払い、

なおかつ、入場制限するほどの人気があるのか?

失われた文明という意味での物語に酔いしれているのではないか?

サイババに群がる世界中の人が集まったような群集心理とにている。

山岳に村を作り、暮らしたのは、敵から身を守るように、隠れるように、

高地に平地から見えないようにしたようにも思える。

だが、そんな生活が持続させるには、平地における衣食を高地にもっていかなければなるまい。

それは、どんな村社会でも、国際化していかないと生き残れないことを示しているのでないか?

二度のウユニ塩湖のツアーメンバーによる楽しさに必要だったのは、

全体意識である。全体が楽しめ、心を共有するような写真撮影などをして、そこからコミュニケーションをしていかないと、楽しさは実現できない。

自分がしたいことと他人がしたいこととは合った時に喜びが生まれる気がする。

自分の健康な体と平和な心と自然と共に生きる生き方を示すことが最も効果的な全体社会へのメッセージであると思われる。

 

インカがスペインに対して排他的ではなく

友好的に受け入れたら  滅亡しなかったのではないか

日本がアメリカとの交易に承諾したから 明治維新に発展できた

初めての出逢いでは 最初に友好的かどうかで

その後の平和か戦争かが決まってしまう

人間関係において

固定観念をとって相手と接するかどうかで

心を平和なオープンの関係になるか決まってしまう

 

アメリカ映画は金とセックスと正義が強く求められる

だが

この金 セックス 正義はどんな時も求めない方が

人間関係を平和でオープンにする

それは営業で売り込もうとするとガードが固くなってしまうのと同じである

欲望には謙虚さがあってこそ

健康と平和と自然さが保てる

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マチュピチュに14日滞在し、7回トライして感じたことは

日本の山と古城後とそう変わりがない、

同室だったスエーデンのアンナが私の家の写真をみて、

マチュピチュみたいと言った。

そこでハットしたのだが、

確かに、だんだん畑に家があるし、山の中である。

いかにいつも過ごしている家が世界中の人が望むような生活をしていると

気付かされた。

それに

娘たちの存在がいかに自分の幸福に大切であるかも知らされた。

それはほとんどが、カップルか家族でマチュピチュに訪れるからであり、

独りでくる人は僅かである。

今回の新しいプレゼンで気づいたことが

そのまま実感できた。

若いカップルと親しくなることが多く、

しかも、何かと行動をともにすると

家族のような安心感が芽生えてくる。

それは娘たちのカップルとの付き合いを予想しているような感じさえする。

 

 

 

 

 

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今出来ることをやる

2ヶ月前 

健康と自然の会が終わったので

僕一人だけでもこの会を続けようとした。

どこかに行きたいところがないので

とりあえず地球一周の安チケットを買った。

準備が最終に近づき、

観光旅行のような調査に なり、気分が重くなって来た。

観光な んか若い時に散々やったのでほとんど興味がない。

蕁麻疹になったのはそのストレスではないか?

迷った時は元の道に戻れ!

初心に帰って 

「なぜ健康と自然の会に入ったか?」

余生の仕事は「健康であること」それに気付いたからだ!

病気や怪我で他の者に迷惑かけずに

寿命を全うできるように 自然に死んでいきたいと望んだからだ。

海外の旅など全く予定にも目的にもなかったが…^_^…^_^…

健康と自然の会ではなぜかそれがメインになって、そしてそれで終わった。

最後のインドの仏跡を巡る旅は参加者の目的がバラバラで苦痛でしかなかった。

その反動でこの一人地球一周を思い立ったのかもしれない。

健康と自然の会の面白さは

事前の勉強と事後の復習をして、新しい知恵を得ることだ。

そういう楽しみ方は僕しかいなかったせいか? 僕には

大学の授業やスタディーツアーでの研究発表がメインになっていった。

それが消えた今 それらの穴を埋める旅をしようとしていて、

いつの間にか

目的の「健康・平和・自然」を離れて

在り来たりの老人の一人観光旅のような雰囲気になり、

旅など行きたくないように滅入ってしまった。

そこの私らしさはない!

初心に帰れば

健康で 平和な気持ちで 自然を楽しむだけでいい。

世界遺産や自然遺産を求めて旅するのが目的ではない

人々が健康と平和と自然を楽しんでいるのを観て

ともに喜び合いたい。

お金に翻弄される旅 生き方などしたくはないし、翻弄される姿も見たくも無い。

ただ、ノンビリと飛行機で地球一周してみた。

それだけで充分満足して 

健康と平和と自然を満喫しよう!

 

自分のしたいことを

自分ができることを

毎日死ぬまでやり続けること

そこから

健康と平和と自然を湧き起こしていこう!

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フィクションを信じる幸不幸

イスラエルの若き歴史学者が

二万年のホモサピエンスの歴史を紐解き、さらにその視点から未来を見る。

 

 

フィクションとは実際には存在しない

神、国家、会社、お金であり、

そのフィクションを信じることで他のホモ属よりも優位生き残った。

それが認知革命である。

次が、農業革命

農民からすればそれは詐欺であり、

作物からすれば、人類の家畜化である。

そして今、世界統一が

宗教(一神教)・帝国・貨幣により成り立っている。

そして、

バイオテクノロジー・AIを駆使して

人類は天地創造し生死を支配する神に進化しようとしている。

ホモサピエンスからホモデウスへの進化である。

しかしながら、

二万年前の石器時代と未来の技術時代と比べて、

人類は幸福をより得ていくのだろうか?

人類の幸福としての、心の自由と平和と喜びは 過去現在未来

そんな数万年の進化とは無関係なのである。

それは

「自分とは何か?」

その問いから始まり、終わりのない探求の旅から見出されるものである。

 

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