’今を生きる’とは’錯覚せず真実に生きる’ということ

脳が錯覚することを

何万回も隔週させることができるICで証明された。

不思議な図形で脳の謎に迫る

それは

ICに、人間のように先を予測(予知)させるように学習させると

ICも人間のように錯覚して認識することがわかる。

また、

哲学者のダン・デネットの意識論でも

 

人は意識しているものしか知覚できず、意識外のものは認知できない。

両者をまとめてみれば、

人は自分が意識した過去の経験によって未来を予測することで錯覚また誤解する。

いわば

人は自分の思い込みによって、ついつい物事を誤解して意見してしまう。

 

錯覚・誤解しない方法は

過去の思い込み(執着・信念・学識)を捨て、

未来をけして予測(意見・断定・推理)せず、

今の自分を自然に(全体的・世界的・宇宙的)観じることだろう。

いわば

心を空にして、

過去・未来の自分を観じず

今の自分だけを観ることが真実を知る生き方だろう。

 

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千手観音の脇侍は若女と老人

三十三間堂の仏像を本来の位置にもどす試みが行われた。

仏像の中に隠された版仏図に、中尊像の脇侍として、

豊穣の大弁功徳天と仙人の婆藪仙が描かれ、

それが敦煌の千手千眼観音変の絵と同じ配置であった。

 

千手観音は人々を救う千の手であり、

その最も重要な役割として

若い乙女と、老いさばらえた老人であることに驚いた。

これは

最近、ヤングフレンドに大きな老後の生きる力を与えられた証のような気がした。

それは48歳も年下の乙女に恋する感情なのだが・・

それがどうして沸き起こるのか?

自分だけなのか?

どうやら違っていたようで

再放送される早朝の連続ドラマ「やすらぎの郷」でも

老人が若い女に恋する姿が描かれている。

私もそのドラマも、昔若い時の強烈な恋愛象に恋している自分を発見している。

つまり、

老人が二十歳の青年に帰って、もう一度恋をし、そこから

新しい余生への生きる力をもらっている。

それはいわば

死が再生でもあるかのように

再生は病気から健康へ 戦争から平和へ

 人的破壊から自然へと切り替えるスイッチでもある。

千手観音の手(救い)は

この苦悩から脱却し歓喜へと切り替えるスイッチ(意識の転換)でもある。

老人の乙女への恋は第二の青春、若返り、再生への意識転換スイッチ、

それは千手観音の慈愛と慈悲の救いにあったと気づかされた。

 

それにしても

求めれば与えられん!

解らない答えも

諦めずに探し求めていくと

ヒョイなところからヒントとして与えられるようだ!

 

命短し 恋せよ老爺(ロウヤ)

身体が 動ける間に

燃ゆる心の炎 消えぬ間に

今日は再び来ぬものを

(^^♪

 

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欲望と自然

欲望には因果応報があるが

自然には相対するものは無い

時間と空間という概念さえも無い

欲望は

命あるものしか存在しない

人は言葉を持って

宇宙の始まり終わりを想像し

生きんとする欲望により

相対的な 神と悪魔 仏と阿呆らの幻を創り出す

また自他という意識より夢を描く

命や社会を守ろうとする欲望によって

自らの理性と感情 知と愛 が自律神経のように

抑制と弛緩 ブレーキとアクセル でコントロールする

このコントロールが出来なくなった状態を

病気 戦争 自爆テロ と表現する

これらのコントロール機能が

習慣 慣習 常識 法律らであるが

その時代と地域によって 逆にそれらが命と社会を破壊する場合も 病気 戦争 自爆テロが起きる

 

欲望をリセットするのは多様な死である

日々の眠り 無私 空意識 静観 無関心 意識移動など

自然に即した状態に

意識を向けるか

無意識 また広大意識にするかである

 

相対的欲望である

健康(病気) 平和(戦争)の意識をリセットして

新たな健康と平和への生き方をするには

習慣と慣習の日常生活からたまに脱して

旅するのも一つの自然に即した意識転換である。

 

 

 

 

 

 

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夢は天に描くもの

幻は地に根付かせるもの

夢 幻は

君に付いて離れず

付き添う

その夢と幻を共有したい人

現れたれば、

その人は君の真の子なり

夢 幻は心に属し

身体の子とは全く掛け離れたる存在であり

心の子というべきものなり。

それは

植物の子はその種から育つだけでなく

挿し木のように枝からも育つ姿に似たり

人の身体は一つだが

人の心は常に他とつながる

心は愛のように相手が無ければ産まれない故。

夢・幻はその人の真の財産なり

金銀財宝は奪われると悲しむが

夢・幻は奪われても失うものでなし、

共有せられる故 喜ばれる。

 

 

 

 

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自然であれ!自分らしく!真の自由であれ!

健康であること

平和であること

この二つはピタリとはまるが

自然であること

この意味が抽象的で、どうもしっくりこない。

 

具体的に整理してみよう・・

無理をしない!

自然に対峙するのは人間である。

人間は自然の一部であり、その力に逆らうことはできないのに

その自然に逆らおうとする行為のとき、自然と人間は対峙する。

では、

人間が空を飛んだり、原発を作ったりする科学的行為は自然に逆らった行為であろうか?

科学は自然の力を確認し、生活に応用する技術(方法)である。

科学は自然に対峙した行為ではなく、自然に即し、応用する技術(方法)である。

だが、科学力を用いて、結果的に核戦争をしたり、自然破壊する行為は不自然極まりない行為に感じる。

それは

人間は自然に逆らったためでなく、自然に即し、その自然力で 自分の欲望を満たそうとした結果である。

人間は自然の産物であり、けしてその自然に逆らうことも、不自然に動き回ることもできない。まして、自然を征服したり、自然そのものを破壊することもできないという結論を導き出すことができる。

だが、どうして 科学がまるで暴走し、自然破壊する行為に映ってしまうのだろうか?

それらは自然と対峙するかのような幻覚的欲望に起因した病的症状である。

健康と対峙する病気も、平和と対峙する戦争も、みな自然力による営みの一部にすぎない。

自然においては、健康と病気、平和と戦争 という対立構造は存在しない。それらは命の生死の繰り返しのような症状にすぎない。自然でないものはこの世には存在していないともいえる。

 

では一体なぜ

自然であるということ

を追究しようとするのか?

 

それは

自分の欲望を抑えて、その先の行為の結果を自然予想するためである。

例えば

食べ過ぎれば苦しくなって胃酸過多になるのを注意せよ。

と、自分に言い聞かせるようなものである。

 

自然に即した科学は

原因を探る解析、先を予想する演繹的理論と実験から成り立っている。

だが、

理論も実験も、人間的欲望で データー量の少なさ、改ざんで自然の姿を映さない間違った知識を導き出すことがけっこうある。

その間違いが起こる原因はそれを行う人の野心(欲望の一部)が多い。

 

つまり

野心のような他人よりも秀でようとする欲望(エゴ)が不自然な行為といえる。

別角度でいうなら、

天からみれば、人はみなどんぐりの背比べ、才能の差などほとんどない。

天の上に人を作らず、人の下に人を作らず。

 

自然であることは・・

他人と比べて秀でようとしたり、卑下しようとしたりするような無理をせず、

今の自分らしく 今の自分ができることを無理なくやることである。

それが

自由である。

他人より上にいく幻的自由でも、下にいく幻的自由でもなく、

他人の優劣を比較しない自分らしさの実現が真の自由である。

この自分らしさの真の自由に生きる道が自分の無理のない自然な生き方である。

Natureの語源

ラテン語L.nascor 「生まれる」

ラテン語の形容詞は L.naturalis 「天然の、生まれつき」

Natureは「生まれる」ことで天然に持っている「自然な気質」から、

「自然」、「気質、本質」などの意味がある。

自然であるという意味は英語でも日本語でも・・

生まれつきの自分らしさ(才能)、それが病気や障害があろうとも、他人と比較せず、天然な気質本質をそのまま受け入れていく生き方である。

自然な生き方とは自分らしく生きることである。

自分らしく生きることは

他人と比較して優劣つけず、

他人を無理に押さえつけたり、

無暗に受け入れたりしないで、

自分ができる範囲内で精いっぱい生きる生き方である。

 

他人に強制したり、隷従することなく

自分のできることを自分らしくしていく

それが真の自由な生き方であろう。

 

自然であれ、自分らしくあれ、真の自由であれ!

 

 

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