トイレのないマンションには住まない

 NHKスペシャルの「除染 そして、イグネは切り倒された」を観た。そこではっきりとしたことは、

 1,放射性廃棄物の仮置き場が決まらなければ除洗できない
 2.中間貯蔵施設が決まらなければ仮置き場は決められない
 3,最終処理施設が決まらなければ中間貯蔵施設は決められない

 よって、

 放射性廃棄物の最終処理場が決まらない限り、除洗はできないし、汚染地域には住むことはできない。

 また、生活環境を守るために3つのRである、リデュース(発生抑制)・リユース(繰り返し使う)・リサイクル(資源として再利用)があるが、放射性ゴミは再処理しても、高濃度の放射能ゴミになるため、リデュース(発生抑制)しか道がない。

 つまり、放射性廃棄物の最終処理場が決まらない限り、原発は稼働できないし、安全ではない。

 次期首相になると思われる安倍自民党総裁が原発ゼロにしない理由として、「原発廃棄にしても、原発技術者が必要であり、もし原発ゼロにしたら、その技術者がいなくなる」という理由である。

 しかし、その技術は放射性廃棄物をより危険にする技術であり、放射性廃棄物をより安全に、また無害にする技術ではない。今求められているのは放射能を無害にする技術である。それは放射能除洗技術であるから、すぐに原発をゼロにして、今ある放射性廃棄物をどうするかから始めることなのである。

 除洗は水の浄化技術である逆浸透膜をつかえば、海水を真水に変えられるように、放射性物質を除去できるようになっている。しかし、放射性物質が付着した逆浸透膜を廃棄する最終処分場がないため、その技術は無効になっている。

 放射性廃棄物が付いたイグネ(防風林)を切り倒した方がこう言っていた。

「除洗できない限り、ここには住めない。だったら、他に住めばいいといってしまえばそれまでなのですが・・・・それができない家庭事情がいろいろありまして・・」

 もし、私だったら、子ども達を連れてすぐに、原発から一番遠い安全地域に引越をするだろう。 そして、残った人たちに、「除洗されて安全になったら戻ってきます」と告げるだろう。  除洗されない限り、そこに住まないという意志もまた、即脱原発運動であり、その脱原発運動の第一歩は放射性汚染ゴミの最終処分場を決めることであろう。

 それを決めない限り、福島だけでなく、日本のどこにも住めなくなるからだ。

 

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「1 for all.All for 1 」という二種のお金

 お金の仕組みを考えると、今のお金がどうして何千年も続けられたのかが不思議でならない。というのは、このお金はより多く持った人が天下を支配できるという構造だからである。

 ラグビーの試合で、そのチーム力を発揮する時に、「 1 for all.All for 1 (一人はみんなのために、みんなは一人のために」という一つの心が団結力を産み出し、奇跡的な力を発揮できることが知られている。

 お金の仕組みもまた同じで、現在のお金は「 All for 1 みんなは一人のために」活動している。そして、税付き電子マネーは「 1 for all. 一人はみんなのために」という構造である。

 この   「All for 1 」 と「 1 for all」の活動は矛盾するために、常にどちらかを選択した結果になる。これは個人を優先するか、社会全体を優先するかというものである。

 個人と社会はうまく調和するときもあるし、調和しないときもある。ラグビーのチーム力を人の生理的現象とすれば、心臓の鼓動を早める神経と緩める神経でほどよい調整ができ、健康を保てるようにすることができる。

 現在のお金は経済をどんどん発展させる力を持つ。税付き電子マネーは逆に福祉的であり、経済力を落とす働きがある。

 車を運転する時に欠かせないのはアクセルとブレーキであるように、お金もアクセルとブレーキの二種を造ることで、経済をコントロールできるようになると思われる。

 世界がアダムとイブだったら、今のお金をアクセルとして使うと、こうなる。

 アダムとイブは共同で家を建てようとした。そこで、お互いに持っているモノと特性を生かした力を出し合うことにした。

 アダムとイブが互いに持っている品と力の価値を数字で表し、それをお金にした。

 アダムは200円 イブは100円の値が付いた。この合計300円がお金の発行高である。

 そして、家の使用権は出資高に応じて使えるようにした。これは株式会社組織であるのでいうまでもない。

 つまり、協力してモノを作り上げるお金と、モノを分け合って協力しあうお金の両方を造ることで、経済の健康度を調整できるようになるのではないだろうか。

  増える今のお金と減る福祉のお金とは矛盾するので、直接には両替はできないが、どちらもどんなモノも買えるようにする。そうすると、モノを売る人間、モノを買う人間がどちらかのお金を使うかを選択するようになる。

 また、必要あって、増える今のお金と減る福祉のお金はモノを交換することで、間接的に交換できるようになる。いわば、油と水は混ざらないが、乳化剤という触媒を使えば混じることができるようなものである。

 

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なぜ現在のお金が不正なのか

 ベーシックインカムがなかなか実現しないのは、その思想がまだ不十分であり、その根幹に「なんでもお金で解決できる」という誤解があるように思える。

 もし、それが実現できたら、すべての国民が今の生活保護者になるということになる。時々テレビ放送される生活保護者に支給されるお金をすぐに取り立てる業者がいるが、それが合法的であり、なんの取り締まりをうけないことに疑問がわく。

 その姿は生活保護者や年金の金をねらった悪徳業者を野放しにしているかのように思える。

 どうして、それが許される社会なのだろうか?

 それは現在のお金が金儲けギャンブルのためのコインであるからだ。食べるためのお金ではなく、ゲームを楽しむお金であるからだ。

 それはご飯一杯をサイコロで取り合うようなものであり、勝負に負けたら、ご飯は食べられず、勝ったら、ご飯を2杯食べられるというギャンブルをするようなものだからである。

 ではなぜお金がギャンブルになったのだろうか?

 これはお金の貸し借りができ、しかも利子を付けることが許されたからである。

  世界はアダムとイブの二人の社会であると譬えてみれば、二人が必要なご飯は2杯だけであり、協力しあうためのお金はご飯1杯を100円とすれば、2杯分の200円分の発行し、アダムとイブに等分の100円ずつ配布(ベーシックインカム)すればOKである。

 もしアダムが2杯分のご飯を生産できたが、イブは病気でまったくご飯を生産できなかった。その場合の協力しあう道具として持っているお金100円でイブはアダムのご飯を買える。逆にアダムが病気で生産できなかったら、イブから買えるという安心が生まれる。

 しかし、もし、この200円のお金の貸し借りができ、利息が付いたらどうなるだろうか?

 アダムは翌年も2杯のご飯を生産できたが、イブはまだ病気が回復せず、ご飯は生産できず、お金もまったく無くなったとする。

 イブはアダムからお金を100円借りて、その利息を年10%10円払うという約束をして、ご飯1杯を手にして生きられたとする。

 そして、また翌年もまたアダムがご飯2杯、イブはご飯なしの生産であったとしたら、イブはまたアダムに100円借りて、利息を10円払う約束をし、ご飯を買ったとする。

 ここで、お金の発行高を計算してみると、アダムのお金は200円になり、さらに、利息分の20円のお金は約束したお金の発行高であり、その約束マネーもアダムが持っているということになる。

 現在のお金は紙幣であるから、印刷しない限りお金は市場から増えることはない。そこで、約束マネーは発行が約束された紙幣であるということになり、お金の総流通額は220円になる。

 さらに翌年イブは病気が回復し、ご飯1杯生産でき、アダムは好調でご飯2杯生産できたとする。

 イブはアダムに220円の借金を返すには生産できたご飯1杯をアダムに売ってお金にするしかない。しかし、アダムはご飯が2杯できたので1杯余り、さらにイブのご飯1杯を買う必要がない。

 そこで二人はどうするだろうか?

 イブはアダムから借りた220円が返済できないので、翌年はその10%の利息分をさらに借りるしかなくなる。借金の合計は220円×1.1=242円になる。こうして世界のお金の流通額は増えるのに合わせ、除除に物価もあがることになる。ご飯1杯100円だった物価は、121円になって市場調整される。

 翌年もまたアダムはご飯2杯、イブはご飯1杯の生産をしたとすると、イブの借金はさらに増え、242円×1.1=266円になり、将来返済が無理だと判断される。その時、イブは借金すべてをチャラにする方法を思いつく。

 イブはアダムにジャンケンゲームを持ちかけ、もし勝ったら借金266円をチャラにし、負けたら、アダムの奴隷になると約束する。

 アダムにとって、返済が期待できないお金よりも、イブを奴隷にした方が得なので快く承諾する。

 つまり、お金の貸し借りと利息のつじつまを合わせるには、ギャンブルしか方法はなく、その結果、支配者とその奴隷社会が生まれてくるのである。

 そこで、お金が協力しあう道具として、正しく機能するには、ご飯とお金が常に連動されていなくてはならない。

 まず、ご飯は食べられなければ、腐って消えてしまうが、お金は余っても腐って消えることはない。1万円札はいつの時代であっても、1万円の価値であって、その価値は消えることはない。

 また、ご飯は譲り合いはできるが、貸し借りはできない。まして、もらったご飯は利息のように増えることはなく、食べなければ腐敗し消えるだけである。

 法に従えば正しく、従わなければ正しくないと言われるが、もし、その法が自然に則さない幻想である悪法であれば、悪法に従えば正しくなく、悪法に従わなければ正しいといえることになる。

 現在流通している紙幣は自然に即しない悪法であり、不正をうながす道具である。これからは自然に即したお金の仕組みを根本から作り直す必要があるだろう。そのためには、腐らない紙幣を廃棄して、自動的に減価できる電子マネーを発行することだろう。

 現在すでに紙幣時代ではなく、主流は電子マネーの時代になり、それが流通している。皮肉なことにお金の貸し借りと利息は約束マネー(信用貨幣)の発行と廃棄ができて、それを流通させるには電子マネーが最適である。
 
 その違いは、その信用電子マネーが自然に増えると不正になり、自然に減ると正しくなるというだけである。

  アダムとイブが発行した200円のお金が1年間の有効期間であれば、イブはアダムの奴隷にはならないであろう。

 アダムがご飯2杯でき、イブがまったくご飯生産できなかったとき、イブは持ち金100円でアダムのご飯1杯を買うことができたら、アダムの持ち金は200円になり、イブは0円になる。

 翌年にはアダムの200円は無効となる。そして、アダムがご飯2杯、イブが生産なしの場合、ご飯2杯分のお金200円を新発行し、アダムとイブに100円ずつベーシックインカムを行うとする。

 イブは持っているお金100円で余ったアダムのご飯1杯を買うことができる。もし、アダムとイブが逆の立場になってもそれが可能になる。

 この1年間の有効期間の紙幣は減価率年100%の電子マネーのことであり、発行できるベーシックインカム電子マネーはその減価した電子マネーの総額200円になる。その減価また発行できる200円は現在の貨幣制度でいえば、アダムとイブから徴集した税金総額であるともいえる。

 人間にとって自然環境が最も大事なように、お金もまた自然に即した発行から始めることが改革の第一歩であろう。

 

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どうして現実と希望の矛盾が起きるのか

 脱原発が国民の過半数であるのに、脱原発でない党が第一党になるのはどうしてか?昨年の市と県議員を選ぶとき、一人も脱原発の立候補者はいないので、他のTPP反対議員を選んだ。また、脱原発党として唯一言えるのは社民党であるが、社民党議員を選びたくても、その候補者がいないので、やむなく、野党第一党を選んだ。棄権という手もあるが、それでは現状維持の方向である与党を応援すると思われるからだ。

 今の選挙制度では自分の希望を反映できない現状があるから、希望とは違う議員や党を選ばざるをえなくなる。

 大事な法案を通す場合は、それを国民投票するような仕組みがあると、国民の希望と現実が近くなる。

 お金の仕組みが、どう考えても不正であるとしか思えないが、そうした現状を打破する新しいお金を希望しても、ただの独り言で終わってしまうような現状ができている。

 どうして、人は現状を維持しようとするのだろうか?

 それはどうも今の自分の現状が幸せであると感じられるならば、現状を維持するような決断をしていくのではないだろうか。

 それはどんな意見を持つかで、現状が生まれるのではなく、自分が今どのくらい幸せかで、現状が生まれるということではないだろうか?

 それは、もし自分が幸せならば与党を選び、不幸せならば野党を選ぶということではないだろうか?

 それは不満のないところに改革は実現しないといえるだろう。

 では意見とは何だろうか? 原発やTPPなどの意見は、それをどう理解するかで、その意見が生まれる。そのため、理解によって、意見は反対にもなりえるということである。

 意見はその意志につながるが、それが決断と行動とはつながらないことも多い。それは決断と行動には意見とは別な要素が多分にあるからだろう。意見は一部であるが、決断と行動は自分の心の中にあるいろいろな部分の多数決であるといえるだろう。

 政治家が本音と建て前を分けて、うまくやりとりするのはそのためだろう。

「嘘も方便」という諺があるが、これは法華経の「三車火宅」が由来で、ある老人の家で火事があり、その中で何人かの子ども達が遊んでいたが、「火事だから危ないから逃げなさい」といっても、遊びに夢中になってだれも逃げないため、「外におまえたちが欲しい羊・鹿・牛の車があるぞ」という嘘をついて、子ども達を救い出した話である。

 正直が常に正しく、嘘が常に悪いとはいえないということだ。「正直が正しい」また、「嘘は悪い」というのは意見である。そして、老人の嘘は決断と行動である。

 今、韓国と中国から日本はその領土問題で攻められているが、その攻め合いは意見の違いである。意見が違いから、戦争に発展することもある。その逆に、意見の違いがあると、さらに理解が深まり、より平和に発展する場合もある。

 自分自身の中でも、「自分の意志と行動が一致できない」ことがよくある。特にダイエットなんかはそうだ。「わかっちゃいるけどやめられない」というのが現状である。

 ダイエットの成功はできる人とできない人がいて、できる人は何か運がよかったようなチャンスをものにしているように思えるが、不運であっても、ダイエットを成功させる方法があるとしたら、2つあるだろう。

 1つは何度でもチャレンジすること。
 2つは希望と現状を徹底的に理解すること。

 これは新しいお金の仕組みの改革運動だってそうだと思える。お金に対する不満は世界中で多くみられ、また、多くの問題がお金の問題から派生していると思われる。もし、お金の問題を解決すると、世界中の多くの問題が解決されていくだろう。

 その道は、改革へのチャレンジと、その理解であろう。

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信じるということ

 瞑想して、自分と世界だけになるときがある。その時、こう自問する。

 この現実が真実なのか?
 それとも、この幻想が真実なのか?

 これは、現実が真実だと信じ込んでいることへの疑問であり、むしろ、幻想の方が真実ではないのかという発見である。

 愛する人が亡くなったときに、残された人が語る言葉がある。

 人は死ねばなんにもなくなってしまうんだな!

 いやいや、 あの世で、楽しく暮らしているよ!

前者は現実であり、後者は幻想であるが、はたして、あなたはどちらを信じるだろうか?

 すべて消え去ることは信じたくないし、あの世で楽しく暮らしていることを信じたいと思うのではないだろうか?

 この迷いは、信じることが望みであることを示している。望みとは欲求であり、その元は生きたいという願望である。

 つまり、生きているということは何かを信じていることであり、現実をそのまま受け入れていることではないのだ。

 現実をそのまま受け入れることは自然にまかすことであり、生きても死んでも、そのまま受け入れる心のことである。その心は平和で安らかに導いてくれる。

 しかし、生きていくということは、幻想を持ち、それを信じて生きるということである。死んだら、幻想さえも観ることはできないだろう。幻想を持てば、現実と違うため、現実を幻想に合わせようと闘うことになる。

 そのため、生きるということは闘うことなのである。平和であるというのは、闘いの後の一時の休息にすぎない。

  信じるということは、人偏に言葉と書くので、人の言葉を信じるかどうかの意味である。人の言葉には嘘も本当もあるので、信じることが現実か幻想かがわからないから、そのどちらかを選ぶということになる。

 つまり、信じることが本当なら現実であり、また現実になるということであり、信じることが嘘であるなら、それは現実ではないが、それが現実になりえるということである。

 人がすべて自然にまかすならば、人は何もしないであろう。しかし、人は何もしないでは生きていけない。人は意志しようとしまいと、人は何かしら行ってこそ、生きているということなのである。

 人為的ということは、意志をもって人が行うことである。人の意志が生まれるときは、そこに目的があり、その結果もできるということである。この目的が今の現実にない幻想であるともいえる。というのは、目的は心の中の絵のようなもので、それが現実化するかはわからないからである。幻想である目的が現実化すれば、それは本当であり、現実化しなければ幻想のままであるということなのだ。

 実際に多くあることは、目的に向かって生きてきたが、まったく目的以外の予想外の出来事が起こる。その予想外の出来事は幻想ではなく、現実である。その予想外の出来事は善いことも悪いこともある。

 もし、予想外の良い結果ならば、目的が現実化しない幻想であっても、その幻想を受け入れ、信じたいと思うであろう。

 愛する人が亡くなった時に、もしその人があの世で楽しく暮らしていると信じたら、残された家族全体が明るく楽しく生活できるようになったとしたら、人は死ぬとあの世で楽しくも暮らせると信じて話をするのではないだろうか?

 古来から信じられている宗教もまさにそういうことではないだろうか?
神様や仏様が本当にいるわけではないが、それを信じて行動すると、今まで以上に楽しく生きられる環境ができるからではないだろうか。

 私達は本当ではないドラマや映画を楽しむことができるのは、本当ではないことを本当であるかのように空想し、それを楽しむことができるといっていいだろう。

 信じることは自由であるが、それを信じることで、どんな結果を招くかを注意することが大事であろう。もし、それを信じることで悪い結果を招くなら、それは信じない方が無難であるということだ。また、もし、それを信じることで、良い結果を招くなら、それは信じた方が楽しいということである。

 

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