生死の循環ということ

 最近、基礎土台柱が雨といの排水で朽ち果てたアパートを修繕しているが、雨水を垂れ流しすることで、家本体自体が傾き、すぐに壊れてしまう姿を現実に見ることができている。

 こうした修繕は壁や床をぶち抜いてするわけだが、その時にたくさんの瓦礫や産業廃棄物が出る。その場合、産業廃棄物業者に依頼しないとできないが、費用も運搬も大変なので、自分でうまく処置するようにしている。

 土は山梨の畑にまき、瓦礫は縁の下の湿気とりとして、まいたり、セメントにまぜて砂利の代わりに使う。 木材は畑の一角に野ざらしにして、自然に腐らせるか、燃やして、灰にし、畑にまく石灰や肥料の代わりにする。

 新たに購入するものは、捨てやすいもの、リサイクルしやすいものだけにして、産業廃棄物になるようなものは購入しないことにしている。つまり、買うときはまずそれを捨てられるかどうかをチェックするのである。どんなに便利な資材でも、捨てにくいものはけして買わないようにするのが、将来修繕しながら、家を保つコツである。

 修繕とは清掃と同じで、どんなモノも汚れたら、すぐにきれいに出来るように、どんなモノも壊れたら、すぐに修繕できることが必要である。それがすぐにできてこそ、家をつねにきれいに、安全に便利に使えるように保てる。

 ところが、家は一部が壊れたら、全部新築せざるをえなくなるような、使い捨ての家の構造が多くみられる。

 例えば、下水がつまったり、壊れたりしたら、床を壊さないと修繕できないように、釘やネジや接着剤でくっつけている。しかし、床を簡単に取り外し、取り付けできるようにすることはそう難しい技術ではない。壁の中だって、電気の配線を変えるにも、壁をとりはずしできるようにすれば、簡単に修繕できる。

 生きている、生きていくということは、学習することと同じで、「二度と同じ過ちは繰り返さないようにする行為」である。汚れたら、するに綺麗にできる。壊れたらするに修繕できる。失敗したらすぐに成功できるようにする。

 先日も書いたが、、放射能物質の廃棄ができない現状があるならば、すぐにその生産も購入も、使用も中止することが、人類が将来生き残るコツである。

 原発を稼働して、それに電力や経済を依存しようとする行為は、まさにたれ流しの下水で家の基礎土台が腐り果てていて、危険なのに、それを修繕しないで、「まだ大丈夫」として、そこに生活依存する行為である。

 いわば、使い捨ての人生、使い捨ての人類であり、今の快適で便利な生活が、自分たちだけできればいい、未来の子供達、遠くの隣人や海外の友人たちの生活を無視して、自分たちさえ、生きられればいいとする心情である。 

 智恵には二種類あるようだ。

 それは使い捨ての人生の智恵と、循環する人生の智恵である。

 原発のように、そのゴミを捨てるところがないのに、生産、消費、たれ流しする使い捨ての人生の智恵と、太陽光や風水力発電のように、ゴミはでないだけでなく、その生産設備は修繕しながら、永続使用が可能な循環する人生の智恵である。

 そもそも人生とは生死の循環である。しかし、自己の人生は一回限りの使い捨てである。自分というのは、自分の肉体のことである。自分の心は必ず相手があって生まれるものであるから、自他から産まれ、自他が基本であり、自他であるといえる。

 そのため、自分の魂とか霊魂というのは、肉体がない自分の心である。つまり、自他のことであり、それはいわば自他の会話、自他の循環である。

 生まれ変わりという思想があるが、それは自分の心である自他の循環の意味である。それはしばしば勘違いされるのは、自分の肉体の永続性として、魂や霊魂の不滅として、恐れられたり、安心させられたりする。

  生まれ変わりというのは、自分の肉体の繰り返しの再生ではなく、自他の肉体の繰り返しのことである。その場合、自分の肉体も他人の肉体も、一回限りの人生であり、二度と再生できない使い捨ての肉体のことであり、そうした一度しかない自他の人生の繰り返しが生命の基礎であるという意味である。

 シャカは生老病死を四苦として、その根本原因を「自我(個我)の執着心」とした。自我とは自分の肉体のことであるから、「自分の肉体への執着心」が「すべての苦しみの原因」であるという意味である。

 この執着心というのは「わかっちゃいるけどやめられない」というようなもので、「終着駅のない欲望列車」のことである。こうした欲望を制御できなくなった姿は「麻薬常習者」「喫煙やアルコール依存症」「ギャンブル依存症」によく現れる。

 原発も自己の生活執着心で維持され、「自滅する危険であると、わかっちゃいるけど、生活するためにはやめられない」という「危険生活依存症」の姿である。

 いろいろな苦労から解放されて、快適に生き抜くためには、「自分の肉体への執着心の諦めが肝心」ということであり、「自他のコミュニケーション」や「自他の繰り返し」に対して、前向きに取り組み、「自他の繰り返し=自分の心=自分の夢をけして諦めないことが、肝心である。

 さて、いつでも修繕しやすい家造りをここ一年間で、築いてみせるとするかあ!

 

 

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トイレのないマンションに住む人類


「トイレのないマンションである原発、出口だけでなく、入り口にも問題があった」と報じるTBSのサンデーモーニング・・原発の原点・・2012、3,4放送である。

ここで、「イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘」という映画を紹介している。

イエローケーキとは採掘したウランを粗製錬工場の最終製品のことである。それを生産するために、世界全体を危険にさらしてしまった。

ウランの埋蔵量がもっとも多いオーストラリアの千住民であるアボリジニに伝わる伝説、「聖地が荒らされたら世界中に害が及ぶ」があり、かって日本でウラン採掘された人形峠にも、昔から「入っちゃならん、掘っちゃならん、いじくったりしたら、祟りがある」という言い伝えがあった。

3,11の大津波の危険を知らせた石碑「此処より下に家を建てるな」で助かった地区もあった。

 

こうした先人が二度と間違いを犯さないように後生の人に伝えたこと、また、福島の原発事故を二度と起こさないように未来の子孫に警告をした記念碑を建てることが必要である。

日本はすでにウランを20年分も輸入しており、今年さらに20年分を輸入する予定があるらしい。また、原発事故も放射能物質も処置できない原発技術を輸出をもしようとしている現在の政府は消費税増税以前の姿勢として、けして容認はできないだろう。

 日本の経済破綻以前に、世界の人類破滅にかかわることを最優先すべきだからだ。

そして、世界のウランの採掘場に、生産したイエローケーキや放射性廃棄物を返還して、こう石碑を建てて、埋め戻すことが必要だろう。

「けしてウランを掘り起こすな、ウランを使って原発も原爆も作るな、世界人類が破滅しないように」

 

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住まいでも病気になる

 板橋にあるアパートの改築を自分でしていて、愕然とした。

 なんと、コンクリート基礎の上が周りの土地より低かった。さらに、雨といの水の排水が家の四隅の土地にたれ流しになっていた。木造モルタル2階建ては全改築してから31年だが、基礎の上のある角材は腐り、消えていた。雨といの水が流れされた柱は背丈くらいまで、腐っていた。

 いつ倒れてもおかしくないのだが、昨年の3,11の大震災にも耐えていたのはびっくりする。どうやら、この建物は中央の柱と壁で支えており、周りはささえられていない。二階に上がる鉄骨階段が家を補強しているようにも感じる。

 このことが判明したのは、家の周りのゴミをとり、さらに、土を掘り起こして、空洞があることに不安を感じ、その空洞があった壁をぶち抜いて、はじめてわかった。

 このアパートの土地は西側の土地より50センチほど低く、ブロックの塀で区切られている。そのため、西側の下の柱のほとんどが腐っている。東側は雨といのたれ流し当たりの柱がほとんど腐って無くなっている 。

 これは完璧なる欠陥住宅だった。これを建築した業者はすでに解散してない、また、長年管理をまかせていた地元の不動産屋も廃業していた。

 このアパートはたった9坪で、1階と2階の二件に貸していた。その2件とも25年間くらい住んでいた。2階は新聞屋さんの寮になっていたが、昨月出たため、改装しにいったとき、1階に住んでいた80歳の老婆がずっと留守であったので、その保証人である息子さんのところに電話して、もう半年前から老人ホームにいき、今では入院していることがわかって、びっくりした。

 どうやら、もうここにはもどれないようだ。そのため、二階を改装するので、一階も一緒に改装しようとして、築31年にして欠陥住宅であることがはじめてわかったしだいだ。

 二年前、床が不安定なので、プロの業者に委託してそれを修繕してもらった。その時にはなんの報告もうけていなかった。床をみれば、まわりの柱が腐って落ちていることはすぐに気が付くはずだ。それに、床が不安定になった原因もわかるはずである。

 一階の老婆は以前から、入退院を繰り返し、昨年の9月に認知症を突然発症し、緊急時のベルも押せずに孤独死をする寸前で、隣の人が発見して救急車で運ばれ助かった。

 長年の老婆の病気の原因が、このアパートの欠陥による湿気にあったのではないかと思えてきた。病気の原因の一つに食事がある。食育という言葉があるように、食が人を育てるように、住居が人を健康にも病気にもする、居育という言葉があってもいいように思える。

 世界中で、住む環境が人類の未来を決定づけると言われている。それを縮小すれば個人の住居環境で、健康にも病気にもなり、また考える内容も決定させてしまうということである。

 私の友人は2DKのアパートに引越して数ヶ月たつが、そこでは捨てられないモノが天上まで積み上げられ、寝る空間だけしかない環境である。

 私がそこに一度泊めてもらった翌日、荷物に潰されるような狂気になった。そのため、すぐに電話して、捨てられない荷物を全部買うから、自分に捨てさせてくれと何度も頼んだが、断られた。

 本人はいつも過去に生きており、前向きでなく、ふさぎ込んでいることが多い。それも、こうした捨てられない荷物で埋まった住居環境が原因であるように思える。

 昔、風通しがない、建築構造のシックハウスというのがあった。原発事故の放射能物質があるところに長く住んでいれば、取り返すことができない病気にもなるだろう。

 健康のために、食事に注意するように、住まいにも注意をすることが肝心であろう。

 

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ベイシック・インカムとワーキングシェアは社会の両足だ

 公営のプールや温泉に行きたいときが、なぜか、休みの月曜日になってしまう。会社勤めの娘が郵貯銀行口座を開きたくても、平日でしか受け付けていないので、なかなかできないでいる。

 勤め人の休日が同じだと、同僚と遊べるにはいいが、お客からすれば、毎日営業していることの方が助かることが多い。

 公私理論の安定比率が5:5が一番高い。これをお金の仕組みに発展させたのが、私的なプラスの利息付きの中央銀行券に対して、公的なマイナスの利息(税金)付きのe中央銀行券である。その発行比率もやはり5:5が一番お金が順当に廻る。

 私的な中央銀行券の配布先が利潤の高い投資先であるのに対して、公的なe中央銀行券は、その配布先が直接国民すべてに、最低生活費としてのベーシックインカムをする。

 このベーシックインカムは、国民を甘やかして、労働意欲を失わせるという反論が根強くある。子育てをする場合、親は子に対して、自立をうながすために、二十歳になったら、お金の援助を一切しないようにして、自分で働きお金を稼ぐようにもっていく。

 これは、何もしないことが自然の流れを促進することにつながるからである。自然農法は何もしないことが理想である。私の家の周りは果樹園が多いが、中には何もしない果樹園はどうなるかというと、原生林化している。何もしないで実をつける柿の木以外の果樹、ブドウやモモやサクランボなどはまったく実を結ばない。雑草のツタがからみ、また、雑木が果樹以上に大きくなって、実を付けさせないのである。

 何もしないことは自然状態になり、そこで生き抜く生物はより強いものが支配(自然淘汰)する。逆に何かをすることは人工的な世界になり、人間に選ばれた生物だけが育てられる。

 この何もしない、するという安定もまた、公私理論が適応され、5:5が丁度いいように思える。何かをして生きられるのを労働といい、何もしないで生きられるのをベーシックインカムという。

 そもそもお金とは人間の肉体的にも精神的にも、その労働の総量であり、それがお金の発行総額になり、それを国民に分配することで。社会全体を維持していくシステムである。

 もし、あなたが、何もしないでお金をもらえるとしたら、それは誰かが働いた分である。ベーシックインカムでは、労働と収入の分離が基本であるが、それは労働とお金の分離ではなく、労働量と収入を比例しないという意味での分離である。

 人がもっとも大事にするのが、自尊心である。古今東西、人は神をもっとも大切にし、信じてきたのは、人はみな神であり、その神はすべての人の心に宿り、その神の実体こそ、各自の自尊心であるからだ。

 生活保護で生きる人はその自尊心から、「社会にすまない」というような卑屈になることがあり、そして、「お金より労働の機会を」と主張することがある。

 これは食料援助する場合、単に食べるための米や魚をあげることは、単にお金をあげることであり、自分で米を作り、魚を獲る技術や道具を与えることが労働の機会を与えることなのである。

 この自立を促す自尊心と労働意欲は、社会におけるもっとも大事なものであるから、ベーシックインカムにおいては、労働の機会をも常に与えることがセットになっていることが必要であろう。

 そこで、公私理論をこのベーシックインカムに適応し、国民すべてに公務員としての労働機会を与え、その報酬としてのベーシックインカムを受け取るようにしたらどうだろうか。

 つまり、公私のお金のシステムと同じように、公私の労働システムを創るのである。国民皆半分公務員であり、かつ、もう半分は私会社員であるようにする。

 こうすると、公的サービスだけでなく、企業サービスもみな、二交代や三交代でワークシェアすることになり、土日休日営業も可能になる。自分が決めた休日と休み時間をとることができるようになる。

 どこかの国だったか、警察官もワークシェアで、一日の数時間警察官であり、別な時間は定員さんであった。こうすることで、シングルマザーなども働きながら子育てがしやすくなる。

 お金が発展すると、専門家が増える。社会が充実すると、ワークシェアが増えるともいえるだろう。

最近、アベールで、おもしろいTシャツを見つけた。

金は天下の回り者

 あのウオール街を占拠せよという世界的な動きのTシャツだった。

 お金は分配することで、社会が維持できるように、労働もシェアすることで社会も安定する。そもそも協力するということは、お互いの労働をシェアすることである。

 

 

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時は金なり、金も時なり

 私にとって、「時は金なり」の言葉は石川五右衛門のドラマで、彼が金持ちの家から千両箱を盗み出し、それを手下に貧乏人の家にばらまかせて、自分は屋根の上から、笑いながら叫ぶ。

 「ウッハハ、これは絶景かな、時は金なり! 春の宵は一刻値千金(あたいせんきん)とは まことにちいせえ、ちいせえこと。この俺には一刻値万両(あたいまんりょう)じゃあ。ウッハハ!ウッハハ!」

 という光景がすぐ浮かびます。

 諺としての「時は金なり」はギリシャの「Time is precious」からフランクリンの「Time is money」からの直訳からきたようですが、お金のシステムからすれば石川五右衛門のやったことの方がしっくりときます。

 金持ちのほとんどは「金で金を稼ぐ」いわば「金を貸してその利息で儲ける」方法で成金になれたものです。株や外為も一種の貸金であり、それが「借用証書の売買」に発展したものにすぎません。

 逆に貧乏人というのは「金で使われる人」のことで、「金を借りて、高い利息を払い続ける奴隷」のことだといえます。

 この金をプラスの利息で貸すことでお金が廻るシステムは、古今東西、経済格差が天と地の差くらいに大きくなって、最終的に没落してしまいます。

 その経済格差を是正することなしに、経済生活は発展維持できません。そこで、石川五右衛門がやったように、金持ちから貧乏人にお金を無償であげる是正システムが必要になります。

 というのは、お金をプラスの利息で貸し出すシステムはお金を無限に印刷して金持ちに与え続けるという無理があるからです。それを是正するためには、反対のお金をマイナスの利息で貸し出すことも、同時にしないと、社会経済はバランスを失うことになるからです。

 このお金をマイナスの利息で貸し出すということは、まさに石川五右衛門がした、「金持ちの金を貧乏人に元金とマイナスの利息分だけずっと与え続ける」ことに他なりません。

 これは世の中にお金を貸す1人Aさんと借りる1人Bさんがいたと想定したら、それはすぐに理解できます。

 例えばAさんが、1万円を1日10%1000円のプラスの利息として、Bさんに貸したら、Bさんは借りた1万円の中から、毎日1000円の利息分をAさんに渡しますが、10日後は0円になり、Bさんは破産します。

 次に、Aさんが、1万円を1日10%1000円のマイナスの利息として、Bさんに貸したら、Aさんは毎日1000円の利息分をBさんに渡しますが。10日後には0円になり、Aさんは破産します

 そこで、AさんはBさんに、1万円を1日10%1000円のプラスの利息とマイナスの利息で貸したとします。

 すると、Aさんは1万円、Bさんは1万円元金として持ち、毎日1000円がAさんとBさんの行き来することになり、経済格差もなくなり、かつ、経済は廻ることになります。

 つまり、中銀券はプラスの利息システムであり、e中銀券はマイナスの利息(貯蓄税)システムになります。 
 
 最近、バリ島に家族で遊びに行きました。そのとき、日本のVISAカードが使えたのですが、その利息は年3%でした。JTBだと4%でしたので、ほとんど普及していませんでした。

 そこで、e中銀券の貯蓄税はいくらにしたらいいかが閃きました。それはVISAと同じ年3%の貯蓄税です。これは貨幣の減価率であり、貨幣の循環率にも相当します。年3%を逆算すると、100/3=33.3年あり、住宅ローンの最高年が35年に近い数字になります。

 VISAという会社がそれで経営が成り立つとしたら、国の経営も年3%でも維持できそうです。親子の世代交代も33年は適当かもしれません。

 それに、年3%だと、消費税や所得税よりも少ない金額なので、無謀な税額ではありません。しかも、貯蓄税3%で、消費税・所得税・法人税(流動資産税)は納税する必要がなくなるだけでなく、もっと安く、しかも申告も脱税もする必要もなく、徴集経費が大幅に削減できます。

 バリ島のツアー代金をVISAで旅行会社の社員に払おうとしたら、機械がないので日本円でお願いしますと言われ、困っていたら、娘がさっと足りない2万円を貸してくれた。

 日本に帰って、娘からその2万円を返してくれと言われたのだが、何か変なので笑ってしまった。

 学生の娘が持っているお金はすべて私があげたもので、娘のお金ではない。あげたお金を、もらった人が返してくれというシステムはまさに、中銀システムならではの言い分である。

 考えてみれば、世の中のすべてのお金はけして自分のものではないし、自分のものだとは言えないだろう。それは自分の身体は元々、自分を生み出した父母や天地のものであるといえるからだ。言えるとしたら、自分の身体もお金も、父母や社会や天地から借りたものでいずれ返さなくてはならないものであろう。

 ただ、お金はその器は金属・紙・電子であったりするが、その価値は時である。時とは無限に続くように感じるが、宇宙が無限ではなく、膨張する存在のように、限界はある。

 なぜ時が無限に続くように感じるのだろうか?

 無限に続くような感覚は「その繰り返し」にある。生成と消滅、生と死の繰り返しが時を感じさせていることになる。時を刻む時計もカレンダーも、地球の公転と自転、月の公転から成り立っているように。

 時は金なり
 金も時なり
 富める者はいずれ貧しき者に
 貧しき者はいずれ富める者に

 そうした繰り返しを楽しむのが経済生活なのだろう。喜怒哀楽が人の心の財産のように。

 

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