e日銀券の実現に向けて

 復興カードの実現を期待されているが、それをどうやれば実現できるのかが、さっぱり解らないままである。ただ言えることは今までのように、議員にお願いしたり、デモをしたりしても、ほとんど効果がないと思えることだ。

 理論的にも、技術的にも、問題なく実現できるはずであるが、その発想を社会が受け入れるかが問題であるようだ。

 しかし、自分一人だけで、e日銀券を発行し、それを使い、回収することも可能であるので、社会全体が受け入れなくても、自分一人楽しみながら、e日銀券生活をすることができる。

 これはスポーツと同じで、社会的評価である勝つという結果を目的にすると、まさに戦いであり、勝つまで苦労することになり、負けるとストレスがたまることになる。

 しかし、相手がいなくても、自分一人でスポーツはできるものであり、あえて、相手が必要であれば、明日の自分自身を相手にすることができる。そうなれば、マイペースで実現に向けて、楽しみながらすることができる。

 自分一人だけでの、e日銀券の実現は公私の循環生活をすればいいだけである。それは私的生活を事業とすれば、公的生活をボランティア活動にすればいいだけである。

 独りでe中銀券生活をする方法

1.自分が持っているお金、これから入ってくるお金のすべてをe中銀券として想定する。
2.その減価率(貯蓄税率)を決定する。
  私の場合、残された平均寿命に余裕をつけて、20年で、お金を使い切る計算にすると、貯蓄税は年1/20=0,05=5%になる。今の消費税額と同じである。平均1000万円の残高があった場合、年50万円の貯蓄税がかかる計算になり、一月41700円の税額になる。

3.貯蓄税の分を公的な社会事業に使う。一番簡単な方法は助けたいところに寄付をすればいい。私の場合は公的な事業に使うことにする。e中銀券の発行は公的事業を援護する力になるので、その発行運動は充分公的事業にあたるので、それに使うことにする。

 これで、e中銀券の発行は公的事業になる。その回収は中銀券でする。私の場合は、不動産の収益の一部がそこに当てられることになる。

 つまり、e中銀券の実践は簡単にいえば、自分のお金の一部を必ず社会のために使うという習慣を身につけることである。

 それは健康のために、腹八分で満足するようなもので、腹八分は自分の胃袋に、腹二分は他人の胃袋に入れる食習慣をつけるようにするようなものである。

     

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食わざる者は働くべからず

 労働を義務化した考え方に、「働かざる者は食うべからず」がある。

 日本国憲法では国民の三大義務として、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)がある。

「教育の権利と義務」

1,すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2,すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
 
「勤労の権利と義務」

1,すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2,賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、労働基準法でこれを定める。3.児童は、これを酷使してはならない。

「納税の義務」

 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。

義務とは権利に対応するものであるが、納税だけに義務があって、権利がないのは変である。これは税がお金であり、そのお金そのものに矛盾が含んでいることからおきる論理的矛盾である。

 納税の権利をいうと、それは寄付する権利になるが、寄付する権利に対応する寄付する義務はないので、やはり論理的矛盾をおこすことになる。

 これらの三大義務全体がよく考えるとおかしな矛盾が多いことに気づく。ちなみに、それ以前の大日本帝国憲法では、臣民の三大義務として、兵役の義務・納税の義務・教育の義務があった。兵役の義務が勤労の義務に置き換えられたことになる。役人のやることはしばしば言葉の言い換えがあるが、本質的には変わりないことが多いが、この兵役の義務と労働の義務もまた同じ本質があるように思える。

 「兵にならざる者は非国民とみなす」=「働かざる者は食うべからず」

それに企業や公務体質が、軍隊体質とそっくりなのも、ここからうなづける。

 こうした権利と義務は、自由と責任と言い換えることができ、論理的矛盾をとくカギとなる。

 勤労の権利と義務を、勤労の自由と責任に言い換えると、「働かざる者は食うべからず」ではなく、「働きたい者は食べる責務を負う」になり、「食わざる者は働くべからず」になる。

 自由主義社会を基本にするならば、国民の三大義務を法定化するのではなく、国民の三大自由を法定化すべきである。

 すなわち、教育の自由と責任、勤労の自由と責任、納税の自由と責任である。例えば、納税して議員を雇ったら、その議員が国民のために働かせる責任をもたなければならないということになる。

 そして、勤労の自由においては、「食わざる者は働くべからず」であるから、国民が自由に働ける環境をまず与えることが政府の義務になり、国民すべての最低生活保障であるベーシックインカムをすることが必須条件になる。

 かように、「権利と義務」という意識から、「自由と責任」という意識改革をすることから、新しい日本自由国平和憲法を制定しなおそうではないか。

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矛を治めるは笑いなり

 イラクで、アメリカ兵がその村の宗教指導者に会いにいった。しかし、そこの住民はアメリカ兵がつかまえにやってきたと勘違いして、「帰れ!」と住民は怒った。
 そこで、指揮官が「grin (歯を見せて笑え)!」と命令した。すると奇跡が起きた。住民はアメリカ兵に敵意がないことを知って、smile(微笑)したのだ。
  
 参考:NHKスペシャル ヒューマン第一集 でこの場面を放送されている。

 人類の歴史において、隣国や隣部族同士は常に争いがあり、軍事的衝突がある。これは移動する狩猟生活から、定住する農耕生活に変わったときから、自分のなわばりを死守する集団行動である。

 日本は海に囲まれていても、隣国とのいさかいは治まることは難しい。中国、ロシア、韓国との島の領有権で争いがある。

 こうした問題を治めるためには、お互いの二国間だけでは治まりができない。第三者が必要であり、その第三者が、お互いの関係諸国全体でないと治まりが付かない。

 二国間での争いを二国間で治めようとすると、最終的に生死をかける武力闘争の勝敗で決着をつけるしか道がなくなる。

 これが、各国の防衛軍事力の必要性なのである。今問題となっている普天間米軍基地や核の問題も武力防衛が基本になっていて、部族民のヤリと大して替わりがない。

 あなたの家庭と隣の家庭の争いを治めるときに、ピストルは必要かどうかの問題と同じである。その場合、武力を持つ警察や軍隊で解決できるだろうか? それはできないだろう。できるのは、両者が加盟する国の法律である。

  国際間の紛争を解決できるのは武力ではなく、国際法である。しかし、今の国際法が単なる和平案でしかなく、実行力がない場合は国際紛争解決はできない。

 現在、多くの問題解決で最も有効なのは金である。

 「ペンは剣よりも強し」
 これをさらに発展させると、
 「金はペンよりも強し」
 「笑いは金よりも強し」 

 武力制裁ができない商いの世界では銀行取引ができない「ブラックリスト」を作ってそのかわりにしている。

 例えば、北東四島の領有権について、日本が国際法に訴えるとする。その結果、日本の領有権が認められたとする。その実行は武力では解決できない。国際法に加盟する国連諸国は国際法に違反するロシアをブラックリストに載せ、ロシアとの貿易などの一切の金銭取引を停止する処置をすると、解決ができることになる。

 人類ホモサピエンスが地球上で生存発展できたのは協力と分かち合いのDNAであるならば、武力で治めようとしたネアンデルタール人の絶滅種に見習うべきであろう。

 世界の防衛問題は武力ではなく、国際法による協力で金と笑いで解決できるものである。

 

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人間らしさ、それは分かち合いだった

  NHKスペシャルのヒューマン なぜ人間になれたか の第1集では、人は見知らぬ人との協力することができることで、地球に多く繁栄できたという。

 これをなんと私の自他の瓦理論の5:5のような、絆実験があったことを知ってびっくりした。

 最近、自分で考えていることが、他の人も同じように考えていると発見することが多い。実際は逆なのかもしれない。他の人の多くがそう考えるから、私もそう考えるようになったともいえるからだ。

 ともかく、絆実験は世界15カ国で同時に行われた。伝統的な社会、農村、漁村、都市で、次のようなシンプルな実験をした。

通行人には見えないように車の中に10ドル札10枚を運転席に置いておく。同時に運転席と助手席に見知らぬ人同士を座らせるというものだ。

 すると、15カ所とも同じような平均的結果が出た。

アメリカでは自分が53%もらい、他人に47%あげた。
日本では自分が56%もらい、他人に44%あげた。

 これが分かち合いの精神が人間本来に備わっていることが、証明されたといっていいだろう。

 この集では、人間が笑顔で他の人間と分かち合うことで、人類は地球全体に広がり、生き延びてきたという結論を見いだしていく。

 第4集はまだ放送されていないが、なんと、お金について放送するそうだ。そうなると、その放送内容は想像がつく。分かち合わないお金は経済格差を生み、それが衰退する結果になるというものだろう。逆にいえば、分かち合う貨幣(e中銀券)を生み出すことで、人類はさらに豊かになるというのが私の主張なのだが、それは放送されっこないなあ。

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結果がすべてなら、すべて無意味である

 あの世は地球
 この世は個人の意識

 であると公私の関係から発展させた。それをさらに展開してみたい。

 スポーツや経営において、「結果がすべて」という考え方がある。勝つか負けるか、契約をするか、しないか で、大きく人生の姿が違ってくる。

 しかし、人生においての結果はすべて「死」である。70億人の人生の結果はみな共通の死である。もし「結果がすべて」ならば人生のすべては死になり、すべて無意味になる。

 そのため、人生の意義とは結果ではなく、その過程にあるといえる。生きた成果ではなく、「どう生きたか?」である・

 人は生まれながらにして、けして平等ではなく、不平等である。病気や障害で生まれたり、その環境はみな違っている。しかし、人は死ぬときはどんな人であれ平等である。死ぬとは個人の意識がなくなることだから、個人個人の差もなくなるからである。

 しかも、死ぬとあの世である地球になる。土と水と空気などになって、地球を構成する元素になるが、それらの元素の違いはないので、地球の一部というより、地球自体になるといってもいいだろう。

 「死なばみな仏」とはそういう意味で、「死なばみな地球」といえることになる。

 そして、自己の意義とは人生の結果や時間ではなく、生きていたときに、何をし、どんな挑戦をし、どんなふうに生きたかであるといえるだろう。

 また、死ねば、どんな人間であれ、どんな生物であれ、みな同じ地球と一つになることは確かだ。そこに個人意識(「自分・他人・生物の差などの意識)もなくなった地球の活動だけが存在することになる。そこから、また新しい生物や人が生まれてくることになる。

 まったくの自分ではないが、また似たような自分が生まれてくるのだろう。その似たような自分もまた、「どう生きたか?」がもっとも価値あることになるのだろう。

 

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