国債より復興クレジットカード発行を

 最近、個人向け復興のために国債が財務省から発行されて売上げ好調である。
 でも、数年後には金利付きで国債を買った金持ちに、消費税増税などをして金利付きで返済しなければならない。そうなれば、「ウォール街を占拠せよ」という、国債を買う金持ち1%と税金を支払う99%の貧乏国民の格差社会はもっと広がるだけである。

 しかし、こうした国債の代わりに、新マネーとしてクレジットカードを発行すれば、とくに現財源は不要である。それは直接未来の全国民から確実に返還されるシステムだからである。

  原理は簡単で、復興通貨を発行して、その通貨の貯金日数に合わせた復興税が預金から自動引きされて、発行元の財務省に返還される仕組みである。

   例えば、被災者に100万円の復興通貨が財務省から振り込まれるとする。被災者は衣食住に紙幣ではなく復興クレジットカードで、業者に代金を支払う。業者はさらに仕入れ業者に復興通貨で支払う。すると、復興通貨はたくさんの業者に振り分けられ、とくに売上げがいいところに集まることになる。

 彼ら業者が手にした総額100万円の復興通貨は銀行預金区分けされ、その総額と預け日数分の復興税が自動的に差し引かれ、発行元の財務省に返還されるだけである。

 復興通貨は日銀券に復興reconstructionの頭文字をreを金額に付ければ区分け復興税が計算しやすくなる。

 こうすれば、確実に復興税として義援金は発行元の財務省に返還される。

そして、復興通貨は持っていると復興税で無くなってしまうので、貯金せず、すぐに使うので景気はどんどん良くなる。日銀券よりも早く復興券を使うので、より国民に流通するだろう。

ちなみに、10年国債100万円を10年(3650日)復興通貨re100万円にすると、1日の復興税は1/3650になり、re 274円になる。もし、あなたが今3650円の復興通貨を持っていたとしたら、1日1円復興税を財務省に払う計算になる。

 

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できてもやってはいけないことがある

 やればできる。しかし、できてもやってはいけないことがある。

 科学はすばらしい。とてもできないだろうことを次々と実現している。でも、科学を規制する倫理の発展がともなわないで、欲望列車が暴走している。

 地球上のあらゆる生物を死滅させることができる核や原発、そして世界中の人間を半数をも死滅させる空気感染するトリインフルエンザなどを製造した。

 こうした科学の暴走を止める倫理がなく、逆に科学の暴走をうながす法律が世界中でまかり通っている。

 科学の暴走を止める倫理も法も至極単純なものである。人類が生き続けられるなら善であり、人類が死滅するなら悪である。この白か黒かの二者択一しかなく、どっちつかずの灰色のような、生きて死ぬとか、死んで生きるというような矛盾などはなく明解なものである。

 人類といっても、それ自体が現実に存在するのではなく、個人だけが存在し、人類とは個人の集まりの総称である。人類の生死の実は個人の生死である。生死があるのは個人の肉体であって魂や心ではない。

 つまり、倫理とは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題」ということである。個人は存在するが、その集まりを総称する国のような社会や人類という総称生物は実際には存在しない。そのため、倫理とは個人の肉体の生死の問題であり、個人を生かすものは善であり、個人を死なすものは悪である。

  こんなブラックユーモアがある。

「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化する・・・チャップリン 殺人狂時代」

 個人の数の問題は数が2つ以上ある限り、二者択一はできない。善悪のような二者択一しかない倫理は生か死の二者択一問題にしか通用しないともいえる。

 ちなみに、このブラックユーモアは個人の死を数で比較するから、その矛盾がでるのだが、これを個人の生を数で比較すると、常識になる。

「一人助ければ善人を生み、百万人助ければ英雄を生む。助ける人の数が神聖化する」

さらに、これを個人の死を数で比較した倫理(常識)ではこうなる。

「一人の殺害も、百万の殺害も同じ犯罪であり、悪である。悪や犯罪に、数は関係ない」

そして、科学における倫理とはこうなる。

「人を殺す目的で造るどんな製品も、また、人を死に至らしめるどんな製品をも、たとえ造ることができても、けしてそれを造ってはならない」

 「人を殺すような銃はどんな理由があっても、使っても、造ってもいけない」というモットーが今後常識になれる社会こそ、倫理科学社会だと言えるだろう。

 

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迎春2012年

 昨年にどんなことがあっても、新しい陽日を迎えて、おめでたいことだ。
 新たに引っ越してきたところは、新年を迎えると、打ち上げられた花火がよく見えた。
 その時、テレビの東京放送が「ボレロ」の演奏がちょうど終えて、パーンと花吹雪をあげた。窓をあけると、ゴーンと寺の鐘も鳴っていた。

 ずいぶんと風情のいいところに引っ越してきたもんだ。世の中全体が新年の歓びにしたっている感じがよく伝わってくる。

 紅白で、長渕剛が放射能に汚染された福島にみんな帰れることを信じているといった。人の技術と努力を信じていると。でも、こんなに大量にまきちらかされた放射能を回収し、それを福島に一時保管できたとしても、日本のどこかにそれを10万年以上も地下深く漏れ出さずに保管させることができる技術ができるかは疑問である。放射性廃棄物の保管は技術では無理で、いくらか漏れだしても安全だと思える場所は地震国の日本国内にはないだろうから、海外に助けを求めるしか道がないように思える。
 
 海外に助けを求めるためには、もうこれ以上の放射性廃棄物を造らないことは必須の条件になるだろう。

 日本は核の被爆、原発の被災の国として、核と原発の廃絶を世界に訴えことを率先的にする国としての責任があると思える。

 次は世界的な金融混乱の問題だろう。自分たちが造った貨幣システムに翻弄されている。元々貨幣は国が製造してきた。ところが、多くの先進国が借金が膨れあがり返せなくなっている姿は異常である。どうして、金を造る国が、借金で破産する貨幣システムを造ったのか。その病的システムに問題があるのに、どうして、新しい正常なシステムに換えようとはしないのか、不思議でならない。

 今の金は放射能と同じで、どこにも捨てるところがないからだ。生きているものすべてに寿命があり、生死を繰り返すように、どんな物質も宇宙と同じく、生成と消滅を繰り返す。

 人の生活の第一の糧は食料である。どんな食料にも賞味期限がある。それをすぎれば毒になるか、消え去る。しかし、金は違う、通用期限がないだけでなく、金の貸し借りで無限に増え続け、消え去ることはないのは不自然であり、それは科学ではなく、迷信である。

 どうしてそんな迷信を捨てて、新しい通用期限がある貨幣にしないのかが不思議でならない。

 今消費税の大増税を政府はしようとしているが、たとえ、倍にあげたとしても、そのほとんどは国債の返済のあてるためだ。それが社会事業に回るのはわずかである。それで毎年10兆円返済できても100年以上かかる計算になる。これは病気の原因を治療せず、上辺の症状だけを抑えるだけで、何の治療効果は期待できない。

 借金システム自体が病因なのに、借金を返すことに全力をあげるなんて、まさにインチキ呪い師の呪術と同じである。「借金を返さねば国は潰れるそよ」と説得する野田呪術師である。

 3つ目の問題は、食糧と自由の問題である。TPPの問題は貧しいアフリカのある農家の現状に照らし合わせることができそうだ。自分たちの食べ物であるトウモロコシを栽培せずに、海外に輸出して金をたくさん得るために、コーヒー豆を栽培する方針と同じであろう。

 人が自由になるためには自立は不可欠である。自立できないと、他に依存せざるをえなくなるからだ。

 人の自立は、国においては自給自足である。自国の中だけで国民すべての食料が足りるようにすることがまず大事である。それが成り立って始めて、他国との自由なる協力関係がなりたつ。

 もし、他国に食料を依存したら、もし、他国のいうことをきかないなら、食料を輸出しないと脅かしされる。また、世界的に人口爆発であるから、食糧難も予測できるので、いつでも、他国から食料を輸入できると信じることは、自国の自由と尊厳を失う結果になるだろう。

 4つ目は健康問題である。国民の死亡原因で、病気で亡くなる人は毎年78万人いるが、それに比べて寿命で亡くなる人は、毎年たった5万人しかいない。昨年の震災で亡くなった方は2万人でびっくりさせられたが、病気で毎年亡くなる78万人にはほとんどびっくりしないのは変である。
 大きな戦争でも毎年78万人の日本人が亡くなることなんておかしい。しかもそのうち、癌で亡くなる方は35万人もいる、

 それは今は癌戦争なのである。癌よりも昔は結核で多く死んでいたが、ペニシリンの発見で、結核死亡者は激減したが、逆に癌による死亡者は加速度的に増え続けている。身の回りでも、著名人でも多くが癌で亡くなるが、治す治療技術はまだない。

 まさに結核が癌に替わっただけで、病気で死亡する人は相変わらず多いのである。これが医学の現状だとしたら、なんとも情けない技術ではないのか。

 インフルエンザのワクチンのいたちごっこみたいに、ある病気を治すと、別な病気が出てくる。それを治すと、また新しい病気が出てくる。このいたちごっこの医学は根本的に問題があるのではないだろうか。

 自然農を研究すると、細菌を殺す農薬に疑問が生じてくる。農薬と植物もいたちごっこで、新しい農薬ができると、それがまたきかかくなると、また新しい農薬を造るという繰り返しがしているように思える。

 癌を殺したり、切っても、他に転移するのも、またいたちごっこである。まさに、復讐の悪循環のようなのが、農業でも医術でも行われている感じがする。

 これからは、そうしたいたちごっこをしないような技術が、ヨーグルトの善玉菌とそのほかの悪玉菌との関係にあるように思える。放射線や殺菌剤では、悪玉菌も善玉菌も両方殺してしまうから問題になる。どんなに医学が進もうと、悪玉菌だけを殺すことは不可能である。細菌にとっては悪も善もないからだ。

 腸内の健康を保つには悪玉菌よりも善玉菌の数を増やすような技術に期待ができるのである。それは人でも同じで、悪人を死刑にしたり、懲らしめたりするよりも、善人に対する援助と協力をすることで、善人の数を悪人よりも多くした方が、世の中を安全にしやすくするのではないだろうか。

 人の才能だって、欠点を指摘するより、良点を褒めた方が伸びて社会的に役立てるではないか。

 悪玉菌をしかるよりも、善玉菌を褒めてあげるのが、これからの医学技術になるのでないだろうか。

 今年はこの4つの方針で自分の生活を築いていきたいと思う。
 
 

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寿命クリニックを創設しよう

平成22年度の日本の死亡原因の割合を観ると、

 

ガン(29.5%)心疾患(15.8%)脳血管疾患(10.3%)肺炎(9.9%)で、病気で亡くなる方は全体の65,5%を占める。ニュースで問題になる不慮の事故は3.4%、自殺は2.5%であり、合わせても、5.9%であり、病気の9%に過ぎない。
同年の日本の人口は1億2739万人であり、死亡した総数は119万7000人であり、100人に9人亡くなり、その内病気で亡くなる方は100人に66人で、、事故3人、自殺3人である。
 病気原因での死亡総数78万4000人で、ニュースになる事故と自殺の合計は7万600人である。癌で亡くなる方は、戦後から加速度的に毎年増え、35万3 000人もいる。
 もし健康であったなら、老衰で亡くなるはずである。老衰で亡くなる方は死亡者の3.8%で、4万5000人しかいなく、ニュースにもならない。

 私達が目指すのは老衰で死ぬことである。そのための社会であり、技術が必要である。病気になってからでは遅く、病気になる前に予防する健康への積極的な生き方が今特に求められている。

 しかし、健康への知識や技術や普及が遅れていて、逆に病気を促進してしまう結果になることも多い。

 最近、無理な断食ダイエットをして、そのストレスからか、1ヶ月以上のジンマシンに悩まされ、ダイエットを中止に、断食する前以上にリバウンドしてしまった。ジンマシンのような病気には病院は対処してくれるが、健康へのダイエットには対処してくれる病院はほとんどない。

 病気には保険はきくが、予防には保険がきかない。健全な出産は保険がきかないが、病的な出産は保険がきく。病院経営からみれば、病人をたくさん造った方が経営が安定し、大きくなれるが、国民の健康保険料の負担は大きくなり、困ることになる。

 これからは健康への予防を目的にした新しい病院ができたら、健全な社会への一歩になると思える。

 その健康病院だが、医食同源というように、食をもたらす農業もまた、農薬に頼らない自然農が期待される。さらに、病院経営も顧客獲得にならない、市場競争経済ではなく、分配する自然経済が必要になってくる。

  病人を増やす社会から、寿命を増やす社会への変換として、自然農や自然経済そして、気軽に地元で健康相談できる寿命クリニックが必要になってくると思われる。

 

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人類の未来予測

 世界人口の西暦が始まってからの現在までの推移のグラフをみると、ここ200年間で、借金返済の複利計算のように、人口爆発、経済破綻とともに、人類破滅に向かうような未来が見えてくる。
 そうした予感は映画や占いなどに反映され、現実的にも自然人為災害なども増えている感じがしてくる。
 そこで、今後の世界人口の予測を自分なりにしてみた。

 日本の人口のピークは2004年で1億2779万人であり、その前に宮崎県は1996年が人口ピークで、118万人だった。このピークの線上をのばすと、2050年には世界人口は90億人でピークを迎えると思える。

 その年から人口減少になり、それは人口増加曲線と同じような放物線で人口減少し、過去数千年のゆっくりとした人口増加線上の人口になり、2500年には20億人くらいになり、第二次世界大戦が始まった1939年頃の世界人口にもどるという予想ができた。

 この根拠は人はどんなに自然に逆らっても、必ずもとの自然に戻されるからである。

 注目すべきは、日本の人口が減少したのは食糧難でも、戦争でも、病気でもないと考えられる。逆に、経済的には豊かであり、平和で、長寿である社会状況において、人口減少が起きている。

 一方、アフリカは人口増加が激しいが、その社会状況は食糧難、戦争、病気があるという事実である。

 そのことからして、人口増加の原因は食料難・戦争・病気に打ち勝とうとする生命力ではないだろうか。

 日本の人口がピークを迎えた2004年はちょうど経済成長がとまったときであり、経済戦争をやめて、環境にやさしい社会と、社会福祉の方向へと転換していった時代である。

 世界全体が向かおうとする豊かさ・平和・人道・自然環境こそ、人口増加をゆるめて、人類が安全に地球上に長く暮らせる道だと思える。それは1人1人の人間の命の重さを感じる社会への変貌こそ、人が人らしく生きられる地球環境ではないだろうか。

 つまり、人類の未来は、「1人の命は地球よりも重い」という命の大切さを向かうことによって、開けるということになる。そうすれば、やたら、未来に対する災害や戦争や病気を恐れて、不安がる必要がないと思えるのである。

 たくさんの死を恐れるのではなく、1人の産まれる命の幸せを夢見ることにかければ必ず、人類は自然環境に合わせた社会をゆっくりと築いていくと信じられるのである。

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