福岡式自然農法は奇跡的確率だった

自然農法で著名な福岡正信さんの「わら一本の革命」の緑肥草生米麦混蒔栽培を昨年の秋から実験してきた。その結果を知って、びっくりした。

麦畑に陸稲を秋に蒔いた土団も、5月に蒔いた土団子も100%発芽しなかった。しかし、水はけの悪い田圃に近い畑において、麦刈りしているときに、数本のコシヒカリが発芽して、10㎝くらいになっていたのを発見した。

 この畑に蒔いた土団子の種が発芽した確率は数万粒の一つである。まさに奇跡的な確率で福岡式自然農法は実証された。でも、同じように麦下から発芽したイネ科の雑草は3倍くらいあったし、麦のあいまにはえていたクローバーやその他の雑草は1000倍にもなっている。

 この福岡式農法が実際に使えるかというと、無理である。10㎝奇跡的に発芽した稲は雑草にまけて実をつけることはないと充分想像できる。それよりも、蒔いた種籾の数から発芽する確率が奇跡的であるので、まず使えない。真似ることも、実際の収穫も難しいことになる。

 こうした実験結果から、福岡式越冬栽培は理想的な論理であって、実践的技能ではないと結論できた。

 ネットで、いろいろ調べて、福岡式粘土団子の方法で稲栽培をしている人が1人もいない理由がはじめてわかった。

 それにしても、世界的に売れた「わら一本の革命」の本のメインである、「米麦連続不耕紀直播」が、単に空論に過ぎなかったことにびっくりした。本が売れることと、そこに書いてあることが本当であるということとは違うということだ。

 真実と人気とは違うのだろう。

それにしても、福岡さんは、この米麦連続不耕紀直播を訂正したり、技法をもっと進めたりしなかったのだろうか? その他の本はみな技能ではなく、思想になっている。その理由は半年の実験から納得できるものだった。

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期限通貨に変わったらどうなる

新しい提案をする場合、「もし、それが実現したらどう変わる?」ということを明確にしないと、相手は理解しにくい。

 そこで、現在の中央銀行システムのお金が期限通貨のお金に替わったら、社会がどう変わるかを想像してみたい。

1,日銀は単に国が決定した期限通貨を発行する造幣局になる。(日銀は独占的に貨幣発行権はなくなり、貨幣印刷権を持つだけになる。

2,政府の予算案の総額が貨幣の発行額になる。

3,予算は全国民の社会への要望アンケートの内容で決められる。

4,予算の財源は期限通貨の通用期限になる。(財源が国債でも、税金でもない)

5,国がお金の発行権があるので国債はなくなり、また、税金も必要なくなる。(税金は期限通貨の減価総額になり、お金そのものから自動的に徴集されたことと同じになる)

 例えば、震災の被災者の最低生活費が5年間にわたって、年1兆円必要だったら、その1兆円の期限通貨の通用期限は5年間になり、年減価率25%になり、それは自動的に25%の税金が貯蓄者から自動回収されたことになる)

6.金儲けは自分の欲望から、社会の要望をとらえ、それを供給する量に替わる。(お金は国が発行するため、社会の要望の集まりが国になるためである)

7,お金は貯蓄することより、消費することになり、お金をモノやサービスにすぐ転換するようになる。(お金は持っていても、減価消滅するので、それをモノやサービスに投資するようになる)

8.お金の貸し借りは国や公共団体と国民の間のみになり、個人や企業や銀行からの貸し借りはなくなる。(現在の日銀からの貸し借り制度が廃止される。たとえ、お金を貸しても、それは利子も元金も回収できなくなり、贈与しかできない。お金でお金を儲けることは不可能になる)

9.国際通貨も期限通貨に変わる。それは貯蓄できないために、輸出と輸入額が同額な国際関係になっていく。

 つまり、国民の具体的要望がお金という数字に置き換わっていく社会に変化する。

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目標は欲望をコントロールする

 学生時代、ヘルマンヘッセの「知と愛」を読んで感銘を受けた覚えがある。内容は忘れたが、覚えているのは「知的生活」と「愛欲生活」とは矛盾葛藤するが、知と愛は最良の友だちになれるというものだ。

 知と愛は葛藤するように感じるが、知欲・愛欲という言葉があるように、両者は同じ欲望の範疇に入るので、知と愛はただ欲望の性質が異なっているだけである。

 このことを理解する譬えとして、「ダイエットする時の情念」とするならば、「知欲」は「体重何㎏にする目標」であり、「愛欲」は「食べたい、楽したいという欲求」である。

 愛欲はそのまま欲求なので欲望と理解できるが、知欲もまた「体重を何キロまで減らしたい」という欲求から生まれたため、・・・したいという欲望として理解できる。

 「知と愛」の両者の欲望の源泉はどちらも自分である。しかし、欲望は正反対に活動する。そのため、自己の源泉が「頭の知」と「体の愛」の2つの自分に分かれる。

 頭(脳)と体は神経で繋がっている。その神経は動物性機能を持つ随意神経である体性神経系と、植物性機能を持つ不随意神経である自立神経系に大きく分かれる。

 意識せずに自動で体の動きをコントロールするのは自立神経であり、その自律神経は相反する動きを起こす交感神経と副交感神経から成り立っている。

 心臓の血圧や心拍数を上げるのは交感神経であり、血圧や心拍数を下げるのは副交感神経である。

 こうした頭と体を繋ぐ神経の特質から、人の「知と愛」を理解することができる。

 知は随意神経として、「意識したとおりに体が動く」ことであり、愛は不随神経として、「意識つまり思い通りに体が動かない」ことである。

 そして、知と愛が調和して、自然に体が動くようになったのが自律神経であり、無意識で願ったとおりに体が動くことである。

 つまり、弁証法のように、人が「知と愛の正反する欲望」を止揚(アウフヘーベン)して、「知と愛を合わせ調和させた欲望」で、身体を無意識に快適活動させるのが自然の働きになる。

 そして、メタボのような不調和な身体を健康な調和した身体に持っていく最も大きな力が知である。

 知とは何か?

 知とは知識・見識・分別と言われるように、物事を分けることから生まれる。知を働かず言葉そのものも、物事の一つ一つに名前を付けて物事を分けてから生まれる。欲望をコントロール(制)するためには、その欲望の対象を分ける必要がある。

 例えば、漫画家の中では原稿の締め切りがないと描けないとか、試験という制約した日がないと勉強しない、できないというのも、楽を求める欲望をコントロールするには必要な設定である。

 知のような物事を分けたり、制約したりするとは反対なのが愛欲のような感情である。愛欲が激しい場合は、「絶対!・・・・こうだ!」と言い切る言葉が多くなる。宗教的な信心は「絶対的な神を信じ、それに従う」ことであるから、それは愛欲を究極に高まらした感情である。

 宗教的な愛に対して、感情に左右されずに事実をそのまま認める科学的行為は知に当たる。事実は信じようと信じまいと、それは誰しも認めるしかないということから、最後は知に落ち着くように、愛も信も感情も、事実的知に調和する。

 こうした知と愛の特性を生かして、自分を思い通りに健康的な姿にするには、ダイエットする上でもっとも重要なのが何キロまで減量するかという目標体重である。しかも、その目標体重が健康的な体重であることが必要である。

 ただ、ダイエットしたいというだけではそのダイエットは成功しない。はっきりした目標と健康的認識が必要になる。

 自分を健康的な体に維持しようとすることと同じように、世界の経済活動を健全に維持する上で最も大事なのが、経済を動かすお金の制限である。

 今の中央銀行システムは無期限の貨幣発行と、無制限の貯蓄ができるので、不健全な経済生活になってしまう。

 それは知的科学的な法律ではなく、物欲敵な宗教的な法律である。そのため、お金は制約がないために、神のように絶対視され、それに盲目的に従い、求めるような盲信活動が今の無期限のお金である。

 こうした世界の経済活動を健全にするためには、制限された貨幣発行額・貯蓄額である。そして、調和された自律神経のような経済活動を維持するには、お金の通用期間を設けような期限通貨でなくてはならない。

 こうした制限は健全な自然環境に合わせたものでなくてはならないことも大事である。例えば、海の魚の数を常に維持するには、その魚の生死が循環して、常に一定の数だけ獲れる量は自ずから決まってくる。それに合わせた制限された収穫量に合わせたお金の発行額でなければならない。

 

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欲望と自然

 「自然に生きる」が私のモットーであり、それを目標にしている。でも、もし「自分が自然に生きていれば、それがモットーにも目標にはならないだろう。私が自然に生きていないから、自然を目標にするってことになる。

 それに、自然には目的はない。命の生死の繰り返しが存在するだけである。

 目的があるのは欲望だけである。しかし、欲望と自然は同じものだと誤解されてしまうのはなぜだろうか?

 「自然のままに」というのは「ありのままに」ということである。それをそのまま生きる欲望にあてはめると、「ただ欲するままに」ということになり、欲望を肯定するのが自然らしさだと思えてしまう。

 しかし、「欲するままに」と「在りのままに」とは違うのである。その違いは自然は大きく、欲望は小さい存在である。また、自然に自我という個々はないが、欲望には自我・個々がある。

 人類だけで譬えてみると、人類65億人全体の欲求が自然にあたり、個々1人の欲求が欲望にあたる。

 生きるというのは欲望だが、生きて死ぬ繰り返しの存在が自然である。欲望の源泉は自己であるが、自然の源泉には自己も他もあるような自他の存在である。

 今脱原発が世界の一番の課題であるが、原発は電気を製造するが、命の危険性が高いものであり、そのウラン資源も枯渇燃料であり、かつ、放射性廃棄物を安全に廃棄するためには10万年以上もかかるため、持続可能なエネルギーではない。

 それは一部の人間の欲望でしかない。人類以外生物にとってもっとも生命の存続を脅かすものである。この原発推進しようとする欲望は砂糖に群がる蟻や、明るいところに飛び込んでしまう蛾のような行為にみえる。

 欲望がはげしくなると、自分を死に追いやるようになってしまうからだ。快楽ばかり求めて、最後は死に至る病に落ちこむ。それは麻薬のようなものである。

 欲望にはきりがない。どんどん前に進むしかない。しかものめり込むように転がっていくようなものである。目標を達してもさらにその上の目標を持って、進んでいく。それは目標を失うまで続く目標であり、矛盾する目標である。

 食欲のままに食べると、どんどん太り、動けなくなり、また病気になり、死にいたる。人の命の自然死というのは老衰である。欲望のままに生きると、病気や事故に遭うことが多く、老衰で死をまっとうできるのは難しくなる。

 欲望を調整して、必要最小限の食事と運動をしていることが老衰という自然死をえられる。それはまさに自然に生きるとは欲望を必要最小限に調整することだとは言えないだろうか?

 つまり、

 「自然に生きる」とは「清貧に生きる」ということではないだろうか!

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財源は国のはずだが・・

 お金は独占的に中央銀行のみで発行される。その独占を認可しているのは国だ。それだけでも、お金は国が発行責任を持っているといえる。

 国が震災後の復興する財源を増税や国債や寄付から得ようとすること自体おかしなことだ。

 そもそも、お金はどのように発行、廃棄するかがはっきりと法文化されていない。そのため、お金が何か? お金の発行廃棄基準がないのである。

 お金の発行と廃棄の基準は単純に簡単な原理である。国民が経済活動をする分だけのお金を発行し、経済活動に必要のないお金を廃棄するだけである。

 社会の最小単位は二人であるから、売り手と買い手の両者が需要と供給のオークションで、決定された商品価格がそのままお金の発行額である。そして、その商品価格以外のお金は廃棄額になる。

 つまり、お金は国民に必要な分だけ発行され、不必要な分だけ廃棄される。

 国全体でいうなら、消費者物価総額がお金の発行金額である。それ以外のお金は廃棄金額である。

 つまり、国は震災で失った国民の資産分のお金を再発行する義務と責任をもっている。その財源は消費税や所得税ではない、国が発行するだけである。

 しかし今のお金は中央銀行が発行したお金の貸借によって動いているため、それは最終的に金持ちにお金がどんどん貯蓄されてゆき、その金持ちが国や世界を支配する構造になってしまうのである。

 その金持ちへの利息付き返済金が税金になっている。

 こうした悪法と悪質な中央銀行システムは「お金が何か?」という理解がなく、「お金の発行と廃棄金額の基準がない」ために起こる。

 国が税収で成り立っているということ自体がまちがっている。金を作れるのは国民ではなく、中央銀行しかないのである。しかも、金を増やせるのは金持ちだけである。

 国の財産と財源は国民の健康で文化的生活であって、それが中央銀行でも、金持ちでもないのだ。

 震災で失った家や土地や生活に必要なお金はすべて国が再発行すべき責任をもっている。それは保険会社のように毎月保険料を払う必要がない。国民であるというだけで、その資産が保証される。

 ベーシックインカム(国民生活最低保障)の財源は必要がない。ベーシックインカムそのものが財源であり、資産であるから、それに必要なお金は国は発行する責任があるからだ。財源は国民の生活であって、金持ちや貯蓄預金や借金ではない。

 必要なお金を発行し、不必要なお金を廃棄する方法は簡単にできる。お金に通用期限を設けるだけでOKである。命はすべて生死の繰り返しによって持続されているが、その命を守る道具であるお金だけが無期限に(生死にないように)通用することじたい、本末転倒な社会を作り出してしまう。

 生死は生きるか死ぬかしかないように、お金は使うか、使わないかでしかない。命を貯蓄することができないように、お金も貯蓄できないことが命を支える道具では必要なことである。

 もし、貯蓄するお金があったら、それは税収廃棄すべきお金である。税金は金持ちのためだけに存在するシステムであることを理解する必要がある。

  

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