生きているということ、それは死んでいるということ

死はすべて消えてしまうことのように感じる。死への悲しみや苦しみはなかなか癒えない。

今年の震災の死亡不明者の数は25000人を超えている。そして生き残った被災者の1人がつぶやいた言葉がとても印象に残っている。

「地震や津波はなんとか復興できるが、原発事故は無理だなあ!」

放射能物質があるところに、戻って来られるかは難しいからだ。

 強い放射能を浴びると、命の伝達する遺伝子そのものが破壊されてしまうため、再生できない。人の身体は日々新陳代謝をして、細胞の一つ一つは生まれ変わっている。しかし、放射線を浴びると、その細胞の遺伝子が犯されると、例え再生しても、同じ健康細胞は生まれないで、癌のような自殺細胞に変形してしまう。

 我々が人間らしく生まれ育つためには、人間らしさの形状を記憶伝達する遺伝子が再生されることが必要だからだ。地震や津波は自然災害であるため、生き残った被災者の遺伝子は破壊変形されることはないが、原発災害は人工災害であるため、生き残った被災者だけでなく、その子孫にも遺伝子の変形が遺伝していくことになる。

 放射線を浴びても当初はほとんど何も起きていないが、時間がたつにつれて、細胞が再生できずに破壊され死んでいく。

 原子力そのものが、物質の最小構成要素である原子をその中性子で分裂させて生まれるエネルギーだから、命の遺伝子だって、破壊されてしまうのは当然のことだろう。

 放射線は人間の遺伝子だけでなく、どんな生物の遺伝子さえも破壊変形させてしまう。そのため、原子力を使ったエネルギー開発は、地球上の生物すべてを破壊変形させてしまうという、生命自殺遺伝子製造機なのである。

 そもそも「生きているということ」はどういうことなのだろうか?

 それは「死んでいるということ」でもあるのだ。こんなことをいうと、気が触れたと勘違いされるかもしれないが、よく生きているということが何かを吟味していると、生と死の境がはっきりしなくなってくるのだ。

 これは老子の「不知の知」ソクラテスの「無知の知」のように、知識は相対的認識されるからである。私達は物事を知ったり、判断したりする場合は言葉を使って考える。言葉は物事をシンポル化させて、その組み合わせからなっており、それを構成する展開の基本は相対的な事象である。それは人は男女の相対的な姿からの展開と同じである。

 生きていることを知るには死んでいることを元にしなければ認識できない。死んでいることを知ることもまた生きていることを元にしなければ認知できないのである。

 では、相対的な事象を分ける境とは何か? それは理解する元となる言葉である。もし、言葉がなければ、生死は理解も判断もできなくなる。

 また、神のような絶対的な事象が存在するかどうかもまた、言葉の問題なのである。存在が有無もまた相対的な言葉の判断であり、絶対的という言葉自体が相対的な言葉から生まれたものだからである。

 つまり、神も人も、有無も、生死も言葉から作り出されたものであり、言葉を超えた真実の姿とは似ていてもまったく同じではない。それは言葉が事象をシンボル化して生まれた所以だからである。

 もし、生死は何か? その真実を追究するためには、言葉の相対を一度超えてから、もう一度組み替えて、文章化すると、新しい理解や判断ができることになる。

 今私は畑で穀物や野菜の一生を研究している。植物の生死を観察していると、絶対的な生も死もなく、相対的な生死が繰り返されていることに気が付く。個人の命は米の一粒のようなものであるが、米自体からすれば、米一粒の命は地球の重さよりも重いとはけして感じられない。

 しかし、米一粒にみな人間と同じように、名前を付けたら、どうなってしまうだろうか? 地球よりも重く感じられるだろう。米太郎は一度生まれたら、二度と生まれることはないからだ。その米太郎の一生の記憶がそれを知る人間に魂として絶対の生になってくるだろう。

 つまり、命や魂は言葉が生まれる最初の「命名」という「シンボル」「象徴」に過ぎない。こうした命名は事象を相対的にとらえた想像世界でも同じ理解が生まれる。

 例えば、生きている世界を「この世」として、死んでいる世界を「あの世」として、命名するのである。すると、戦争の敵味方とおなじように、どちらを基点にするかで、理解が反対になるのである。矛盾という問題がしばしば起きるのはそれが同じ基点ではなく、相対的な基点から、言葉による理解をしようとするからである。

 今地震津波でなくなったAさんがいたとする。この世ではAさんは死んでいるが、あの世ではAさんは生きていると判断できる。あの世のAさんがそこに災害でやはり亡くなったら、Aさんはこの世に生まれてくることになる。

 この場合、この世を基点として判断するなら、Aさんは再生したことになる。それは米一粒の生死と同じで、何度でも生死を繰り返して、米一粒は存在することになる。しかし、Aさん、米太郎という名前は「一度しかない人生の個々の命の姿」であるから、再生はけしてありえないことになる。

 そのため、もし、けして死にたくなかったら、「自分の名前を消し去る」ことである。Aや米太郎という名を消し去るのである。すると、あなたはつねに生死を繰り返す1人の人間になることができる。

 しかし、命よりも今の欲望を優先すると、原発事故が起きて、人類そのものが破壊、変形してしまう。過去の地球上でたくさんの絶滅種があるように、人類もまた同じ愚かな行為に走り出す。

 というのは、生死を繰り返すのは遺伝子が媒体となっているからだ。遺伝子そのものを破壊するような放射能物質をどんどん造ってしまい、それを廃棄できずに、保管垂れ流しすることで、人類は絶滅した恐竜と同じ運命をたどることになるだろう。

 人間のほとんどの根本的問題は「自我」から来る。自我とはこの世のたった一度の名前をもった個人名である。そこに死は必ずやってくる。しかし、個人名を消し去った人ひとりの命の死はなく、再生を繰り返すだけである。

 枯渇するエネルギーを元にするのではなく、再生するエネルギーを元にする生活でこそ、人類がより長く地球上に生きられ、幸せに暮らせる条件になるだろう。

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幸せのちから

 昨夜、金曜ロードショーで「幸せのちから」を観た。二度目だったが、その印象はまったく違ったものになった。

 「お金とは何か?」を知ってくると、お金を求めて、それを手にする成功や幸せは馬鹿馬鹿しいと感じられたからだ。

 一方、震災の処理のお金はどうするというNHKの視聴者の発言があったのも、可笑しなものに思えた。

 生活のためのお金が、お金のための生活になっている現実社会の盲信が感じられたからだ。あと、数十年か数百年か先の未来人はこうした現代の「お金のための生活」をせせら笑ってしまうだろうことを、まるで原始人の占いを信じて行動した姿に移し替えて見えた。

 主演のウイルスミスが、ホームレスから、株のブローカーの一流企業の社員になる成功物語だが、その企業は株の売買のアドバイザーであり、その手数料を儲けるものがだ、それは「金で金を儲ける」という金融商品の販売会社である。いわば投資銀行・証券会社にあたる。

 金を生産することと、衣食住の生活必需品を生産することとは違うはずだが、それが同じに扱われるだけでなく、金が生活必需品よりも大事になっている、本末転倒の姿がいわば投資会社である。

 「お金とは何か?」

 現代のお金とは「国が特別な中央銀行にのみ独占的に発行させたもの」である。つまり、お金が生産できるのは唯一中央銀行だけであり、その他の会社も個人も国も発行生産できないという法律に基づいた数字が書かれた紙切れにすぎないのである。

 投資会社であれ、どんな国民であれ、どんな国であれ、金を稼ぐこと、生産すること、発行すること、増やすこと、みなできないのである。

 これが、できると思いこまされ、金をいかに多く稼ぐことが成功者になるという金の原始宗教政府による洗脳の結果である。

 金が仏教の悟りや、キリスト教の神の愛に当たっており、その金と悟りと神の愛という最高の幸せのちからを求めて、修行努力する姿が、この映画と現代社会の成功物語である。

 仏教の悟りのような全知全能は不可能であり、神の愛といっても、神そのものが不可知であるから、それらを手にすることはありえない。もしあるとしたら、単なる「悟ったという思いこみ」であり、「神に愛された特別な人という思いこみ」にすぎない。

 金だって、すべてのお金の所有者は中央銀行だけであり、それ以外の国民や会社や国がすべて所有することは不可能である。

 現在の金は仏教の悟りや神の存在のような「信心から生まれた空想の姿」にすぎない。

 もし、あなたが仏陀のようにすべて悟った人であり、キリストのような世界中の人類すべてへの愛に満ち、そして、世界の創造主のような神として、世界中の人々が幸せになれるようなお金を発行しようとしたら、まず何を考えるだろうか?

 たぶん、ずべての人々が協力して生活できるためのお金を発行するだろう。協力は「困った人を助ける」ことから生まれる。そのように、お金は困った人を助けるために発行生産されることになるだろう。

 つまり、主演のウイルスミスが息子との衣食住に困った時に、お金が発行生産され、彼の家族に贈られることから始めるだろう。しかし、映画では困った家族の金を国が税金として、資産家が家賃として、奪いさることから始まっている。そして一流企業に就職して、金を得ることが神の愛を受けることが成功者の条件になっている。

 これは金が神のような絶対君主のような姿になった自由も愛もない世界である。金は困った人を助けるための道具であり心である。そのため、困った人がいなかったら、お金の発行は必要がなくなるのである。

 もし、あなたが中央銀行の総裁だったら、生活困窮者のためのお金だけを発行し贈与することから始めることがもっとも神様に近い存在になる。

 次に問題になるのが、「どう人々は協力しあうか?」である。

 もし、「あなたが困った人を助けたならば、次にあなたが困った場合は誰かに助けられる」という保証(信心)が協力を持続させる力になるだろう。

 それは地域通貨を発行しようとしたときの、心理と同じである。ボランティアでは無償の愛として、「与えた愛を返してもらわなくてもいい」という行為が持続できないため、せめて、「自分が与えた分の愛」を、与えた人からでなく、他の誰かからでも、「恩返し」してもらう方法が地域通貨の原点であるからだ。

 中央銀行券のような法貨も同じようになることが必要である。しかし、多くの金の悪業を起こす原因となるのが、お金の無制限な通用数・通用期限である。

 人々が「自由と愛」の元に、協力しあうための条件は「人々の平等」である。「人の上に人を造っても、人の下に人を造ってもいけない」

 そのためには、「自分が困った人を助けた分だけ、自分が困った時に助けられる恩返しをされる」ことが条件になる。自分が助けた分また、助けられた分以上も以下も必要がないのである。

 例えば、あなたがお腹が空いていた人に100円のリンゴをあげたとしたら、あなたがお腹が空いたときに誰かに100円のリンゴをもらえればいいのである。100円のリンゴをあげたら、1000円分のリンゴ10個をもらう必要も、また、1円のリンゴに代わってもらう必要もない。

 そのため、お金は最低2回だけ使えればいいことになる。

 例えば、お腹が空いたAさんに、お腹が空かないBさんが100円(りんご)をあげたならば、今度は、お腹が空いたBさんに、お腹が空かないAさんが100円(りんご)をあげて、そのお金の一生は終了すればいいことになる。

 また、10人の間でお金が回ったとすると、100円のお金は→B→C→D→E→F→G→H→I→J→ 10回通用してその生涯を終えることが必要になる。

 しかし、実際問題、その回数をはかるのは難しいので、お金の通用期限を設けることで、お金を回すことができることになる。

 ところが、現在のお金は無期限通貨であり、しかも、利息が付いてくるので、お金は世界中を回ることはなくなり、停滞、渋滞することになる。それが所得格差拡大であり、金による世界征服と隷従世界になってしまっている。

 しかも、中央銀行は商業銀行に金を貸し出すだけで、生活困窮者に直接金を贈与することはないため、金持ちはさらに金持ちで豊かと幸せになり、貧乏人はさらに貧乏に、不幸になってしまう構造になるのである。

 しかも、国民の代表である国家が金持ちから借金して隷従する政治をせざるをえなくなる。それが、この「幸せのちから」の映画の姿であり、金と生活の本末転倒な原始宗教の信徒成功物語になっている。

 金が人々の協力の神具になるか、独裁者の権力の道具になるかは、金がどこから発行されるか、金の通用期間が制限されるかどうかにかかっているのである。

 

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仕事とは何か

 高三の娘が進路を決めるのに困っていた。どの大学を選択するかを迷っていた。

 この迷路は誰でもが経験することだ。私もそうだったからだ。そこで、親の私がアドバイスしたことはこうだ。

「自分のやりたいことをいくら探しても、仕事は見つからないよ。人がやってほしいことの中から、自分しかできないことを探せばきっと見つかるよ」

 青春の日々でもっとも悩ましいのは「自分が何をしていいのかわからない」「自分が本当に求めていることが何かがわからない」ということである。それをさらに考えるといつしか「何のために勉強するの? 何のために生きるの? 何のために働くの?」という根本命題にはまりこんでしまう。

 いわば、生きる意味を問い出すのである。これが生きる迷路の入り口である。「生きるべきか? 死ぬべきか?」とまさに、生命の崖淵に立たされる。

 この迷路を造っているのは「生きているという事実」を疑ってしまう心が生み出すものである。生きているという事実は疑うこともできなければ、信じる必要もないものだ。「自分はここに生きている」というのは、事実であり、その事実をそのまま受け入れる道しか人にはないからだ。ありのままに生きる、自分のそのままでいい、という自然の生き方になってくる。

 ただ、この「自分はここに生きている」という事実には2つの欲求が同時に隠されている。それは自力本願と他力本願の両方である。「自分はここから生きる」と「自分はここに生かされている」という双方向の欲求である。

 大学を選ぶというのは、将来どんな仕事に就くかどうかで決められ。その仕事のために知識や技術を学ぶだからだ。もし、自分が何の仕事をしたいかわからないのは、その仕事の経験も知識もないから、決めようがないためである。そのため、ほとんど知識も経験もない想いから、選ぼうとするから、絵に描いた餅のようなもので、はっきりと、決められない。それがしいては、自分が何をしたいかわからないというような迷路にはまりこんでしまうのである。

 そもその「仕事とは何か?」である。仕事のいう文字は「仕える事」と書く。「仕えるとは

1.目上の人のそばにいて、その用をする、奉仕する。2.官などの、公的な地位について、その職に奉仕する」である。

 そして、「働くとは1.自分の体と精神を動かす2.他人のために努力する、役に立つ」ということである。

 つまり、仕事も労働も、他人のために自分の身体と心を動かし努めるという意味である。その意味はもし自分のために生きるとしたら、それは単なる欲望であって、仕事でも労働でもないのだ。

 これをお金に例えるならば、「自分のしたいことをするには金を出さなくてはならないが、他人のしたいことをするとお金が入る」という意味なのである。

 また、生きているという状態からいうなら、「自分が生きるのは欲望であるが、自分が他に生かされるのは仕事であり、労働である」という意味になる。

 人の好きな言葉に「愛」があるが、これは自分が他人に対する行為になるので多分に欲望である、一方「感謝」という言葉は、他人に自分が生かされる行為になるので、多分に仕事や労働の意味になる。そのため、愛することにはいくらでも金も力をつぎこむが、感謝するところからいくらでも、金や力が湧いてくるのである。

 仕事をすると、「ありがとう」というけれど、「愛してる」とは言わないのはそのためだ。

 もし、自分の仕事や勉強の方向を決めるには愛する(好きな)事を探さず、感謝する(生かされている)事を探すことである。

 

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財源とは命のことだ

 今、復興のための財源が政府内で議論されている。1つは国債(日銀または市中銀行から)2つは税金(国民すべてから)である。どちらも、本当の財源が何かを知らない。そもそもお金が何か、お金がどうやって作られるかをまったく知られていない。

 もし、地域通貨を作るとしたら、その財源はいらないことを知っているだろうか? 日銀と同じく、お金は財源が関係なくいくらでも印刷可能であり、それを流通させることができる。

 政府紙幣もまた財源がいらないでいくらでも印刷が可能である。しかし、どうして復興のための財源が銀行の借金か、国民の税金になってしまうのだろうか? それが今までの中央銀行システムによる法律による洗脳のためである。すべて日銀を中心に市中銀行からお金を借りて、働き、利息をつけてそのお金を返済するという繰り返しになっているからである。借金返済がお金の循環であり、その循環力の調整がその利息である。

 しかし、この中央銀行システムは必ず金持ちはさらに金持ちに、貧乏人はさらに貧乏人になり、経済格差が大きくなるのは自明の理である。それはどんな手段であれ、金儲けで成功した金持ちにお金が自動的に集まるようになるからである。つまり、銀行への借金以上の金を多く得た者が日銀や銀行に代わって、貧乏人に金を貸し出すようになるからである。それは主に投資企業と言われる存在であり、世界を金で支配することができるようになるからだ。

 中央銀行システムは市中消化という法律で、国は日銀から直接借りることはできないので、市中銀行から借りなければならない。銀行は金持ちの預金者から借りて、国に貸し出さねばならない。そのため、市中消化の法律は国に必要なお金は大金持ちから借りなければならない。そして、その利息付きの返済はすべての国民から強制的に税金で行わねばならないという金持ち優遇する法律になっている。

 お金はその独占企業である日銀しか、印刷できないのだから、国民はけして日銀から利息付きで借りたお金を返すことはできっこない。それは椅子取りゲームのようなものだからである。日銀が100兆円印刷して、国民すべてに利息1%(1兆円)で貸したら、国民は101兆円日銀に返済できるだろうか? もし、できたとしたら、唯一、国民は利息分の1兆円を国民はどうしても印刷(偽造通貨)をしなくてはならないからだ。

 偽造できないとしたら、国民の1%の人の金を奪いとらなくてはならない。いわば、1%の国民の命を奪う椅子取りゲームになってしまうのである。それが自由市場という弱肉強食というのが中央銀行システムである。金持ちはいわば弱い貧乏人の金と命を奪っていく存在である。世界で6秒に1人の飢餓で死ぬ子供達がいるのはこの中央銀行システムが生み出しているのである。

 もし、あなたが地域通貨を発行して、その地域の経済を活性化させようとしたら、どれだけのお金を作ったらいいか、計算できるだろうか? それはあなたが日銀総裁だとしたら、日本の円をいくら印刷したらいいかを計算することでもある。

 この計算こそ、本当に意味での財源である。財源とはお金の源である。お金の源がお金であるはずはないのだ! それは恋の源が恋であるはずはないことと同じである。 恋に恋すれば空しい思いのように、財源議論がお金の財源がお金という空論をする政府はみてて、恥ずかしくなる。

 さて、今までの日銀券がまったくないとして、新たにあなたが日銀総裁として、国民のためのお金をどれだけ印刷したらいいのだろうか? また、どのように国民にお金を配布したらいいのだろうか?

 たぶん、国民1人1人に生活する上で最低必要なお金を聞くことから始めるだろう。その最低必要生活費の合計額と、また、法人のような会社や企業や団体が最低必要な資金をも聞くであろう。その合計額も加算した総合計額が日銀のお金の製造額になるだろう。

 つまり、財源とは国民の最低生活保障と、法人団体の起業する最低必要資金のことである。東日本震災の復興の財源は被災者の命と被災起業の復興力なのである。

 最低生活保障であるベーシックインカムと企業の最低資金(株式)こそ、お金が生み出される財源である。けして、金貸しする金持ちや貯蓄できる国民のことではないのだ。

 いわば、財源とは国民の命と企業の命である。その命をけして奪ってはならないだけでなく、その命を育むのがお金の役割である。

 だから、復興税や復興国債という空論は必要ない、日銀は復興に必要なお金を必要とする被災者に直接贈与すればいいだけである。

 次は贈与したお金を確実に循環させるだけでいい。それは無利子返済が100%自動的にできる方法がある。それがゲゼルの減価する通貨であり、使用期限通貨である。

 お金の利息付き貸し借りは必ず弱肉強食市場になり、経済格差が激しくなり、一部の人間が大金持ちになり、大量の飢餓貧困者を排出してしまう。

 たとえ、利息なし貸し借りでも、強制的な税金や法律で国民を縛り上げないと稼働しない。これは「借りた金は働いて返せ」という洗脳を国民に無理矢理強いることになるので、働けない病人や老人子供は社会からはじきとばされることになってしまう。

 しかし、お金を100年サイクルでもいいから、水や血液のように循環させるには100年の使用期限通貨を発行するだけで、自動返済、税金もまったくいらないシステムができる。

 2008年に、中央銀行システムにおける世界が100年に1度の金融危機が起きたのは、お金に使用期限がなかったためである。無期限に通用するため、お金は作っただけインフレになってきて、それがあたかも正常な経済だと思いこまされてしまった。さらに、金儲けしなくてはならない必要悪が地球環境よりも経済優先をさせてしまい、今回の原発事故のような未来の子供達の命を奪うまでになってしまっている。

 しかし、期限通貨だと、自動的に期限がすぎると使えなくなるし、期限が進むと減価するので、その減価した分を税金徴集したことと同じになる。国民の税金も企業の法人税もその減価分を印刷できるし、また、震災復興や未来の国民年金のような需要に合わせた社会保障費も印刷できるようになる。

 それは社会に必要な分だけお金を製造できるのがお金の基本法則だからである。需要がお金を生み出すのである。それは市場でのセリをみればいい。魚の値段が需要によって、高くも安くもゼロにもなるのはそのためである。

 昔の無期限に使用できる政府紙幣では返済や税収が期待できないために、ハイパワーインフレになる。今の無期限に通用する日銀券では、返済へのリスクが高くて、貸し出しがしにくいため、お金が流通しないで、デフレ不況に陥ることになる。

 これらは社会の需要に合わせたお金が印刷されないで、多すぎたり、少なすぎたりするために起きる現象である。お金はいわば商品の値札のようなものであり、その値札の上がり下がりは人々の需要から生まれ、それと同じくお金の製造額と廃棄額も決定されてくる。

 また、お金が無期限に通用するために、お金はすべて大金持ちに集まっていき、循環が国民全体にされないためである。国民全体に必要なお金とその循環をする方法がある。

 それは確実に貸出返済100%でき、税金もいらないシステムである期限通貨しかない。その循環スピードは期限の年数で調整できる。復興のための期限通貨だとしたら、10年の期限通貨を発行すればいいだろう。

 また、危険な原発から自然エネに転換する政策にするなら、その期限を50年にした自然ネル期限通貨を発行すればいいだろう。

 国民も企業も、古い期限通貨を新しい期限通貨に両替するときに、減価分だけ税金を支払うことになるだけである。こうしたお金は最終的に自由市場での成功者の元に集まってくるため、その成功者が必然的に余裕に減価分の税金(利息)を払うことになるので、強い国民が弱い国民を守る平和で安定した社会を自然と築き上げることになるだろう。

 

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復興期限通貨で中銀に代わる新貨幣に

1,東北関東大震災の復興資金の2大ニュース
 
●震災復興税
 
 義援金が国民の自由な意志で集められたが、それを税金で強制的に集めようとした。それは国に復興する財源がないためで、それは国民から集めるしかないという単純な発想である。

●日銀引き受けによる復興国債の発行

 「新規国債の発行も検討されたが、国債を市場に大量流通させれば財政事情が悪化する上、国債の格付けが下がり長期金利の上昇をもたらす危険性がある」として、市中消化の原則でなく、特例としての日銀が引き受ける国債の発行である。
 

2,復興新通貨発行を
 
 これが私の案である。それは復興の10年計画で発行される期限通貨である。
 震災の被災者全員に必要なお金を国が10年間使用できる通貨を贈与する。その通貨が使用期限が過ぎたら、国がすべて自動的に税金回収できるシステムである。

 復興期限通貨が期限切れになる前に、税金として国に支払われる場合、年利10%の単利計算にされた税額になる。

 例えば、1被災者に国が100万円の10年復興新通貨を贈与した場合、被災者がそれを住宅資金に充てたとする。復興新通貨が1年後建築会社10万円、5年後資材会社40万円、10年後銀行50万円などの金融会社へ流れていったとする・

 ▼各会社の法人税を復興新通貨で払われた場合、発行されてから、年単利10%の復興税が付加されることと同じになる。

 もし、全額法人税を復興通貨で支払う場合、建築会社は10万円に年利1割分が付加され、11万円、資材会社は40万円に5年後の5割分付加され、60万円、金融会社の50万円に10年後の10割付加され、100万円になる。

   しかし、中央銀行制度が廃止され、すべて期限通貨になった場合は、期限がくれば自動的に納税されたことと同じになるので、一切の納税が必要がなくなる。その場合は、新しい期限通貨に両替する時に、自動納税されることになる。例えば、10年ものの期限通貨10万円を1年後にさらに新しい10年の期限通貨に両替する場合は、1割分差し引かれて、9万円の新期限通貨にすることがことができる。

  復興新通貨は将来中央銀行システムを廃止して、すべて期限通貨にする最初のきっかけにすることになれる。
 

3,復興期限通貨は信用創造の正常化
 
▼信用創造

 中央銀行システムでは信用創造によって、金融会社はお金をいくらでも製造している。その元になっているのは中央銀行が必要な融資分をただ印刷発行することからなっている。

 国も市中消化の法律によって、商業銀行からお金を借りて政策を実行する。それは名目上、国民の預金を貸し出すシステムとなっているが、その国民のすべての金は元々日銀が銀行に貸し出したものであるが、その貸し出した金を日銀がすべて回収しなかったために、ほとんどの金は投資銀行に集められ、そこがに日銀に代わって、貸出している。そのため、投資会社が回収を失敗すると、金融危機に陥ったのがリーマンブラザーズの倒産である。
 

 
 
 信用創造は商業銀行がその預金を含む資産評価額の1%くらいを日銀の当座預金に振り込めば、その100倍のお金を借りることができる。
 上記のように、もし、A銀行がX社に100万円融資したら、そのお金は巡り廻って、準備預金が10%だったら、1000万円の預金になり、準備預金が1%だったら、1億円の預金高になる。
 国が国債を1億円を発行しようとしたら、商業銀行は1億円の預金をそのまま国に貸し出すことができるが、その元になっているのは日銀の100万円である。その100万円のお金は国債の利子から算出できるので、銀行は国債の利子だけで充分維持できる計算になる。
 但し、中身の現金がない預金であるから、もし預金者の取り付け騒ぎがおきると、銀行は支払ができなくなり、倒産する。
 銀行も投資会社も、日銀がしなければならない貸し出した金を回収する代行をするようなもので、金利や金融商品の売買はそのためのものである。
 そのため、「貸したお金を利息を付けて返してもらえる」という信用と法律がないと、この中央銀行システムは成立できないことになる。
 利息とは手数料と返済リスクを合わせた額として正当なものとなっている。

▼期限通貨は自動返済システムである

 日銀システムになったのは、国が発行する政府紙幣を無制限に発行し、その回収を一切しなかったために、ハイパワーインフレが起きたための防護策である。

 いわば、政府紙幣の民営化が日銀システムである。しかし、この民営化も、投資銀行や商業銀行の倒産によって、回収できなくなって、金融危機がおきたので、うまく軌道していないのが現状である。しかも、経済格差を増大させてしまう欠点も大きくなってくる。

 貸したお金を100%自動的に返すことができたら、お金は国中循環することになる。それが期限通貨である。原発事故が末代にわたって死の恐怖をもたらすのは放射能汚染が10万年以上の続き、原発から出た放射性廃棄物の捨て場所が地球上のどこにもないことから生まれる。

 どんなエネルギーもその最終ゴミが再生につながる自然エネルギーでなくては循環しない。例えば、木材は薪のエネルギーは、植林と合わせてやることで、再生エネルギーとなれる。それらは命と同じように生死を繰り返すことで、エネルギー循環が起こるのである。

 お金も再生エネルギーと同じくすることで、お金は正常に循環する。例えば、稲を育て、一部を種籾としてまた植え、それ以外を食べるとすると、食べ物は末代までゆきわたることになる。しかし、お金は稲のようではなく、育てることも、食べることも、朽ち果てることもできない。1円は永代1円のままである。これは放射能物質のようなもので、その放射能が0になるまで数万年かかることと同じである。

 お金は貸したら返される循環なくして循環しようように、返す行為が道徳や慣習の信用や強制的法律で強制しようとしたら、それは原発事故のように放射能を封じ込めるような人災事故につながってくる。
 人の技術は自然界から放射能を封じ込めることは不可能である。燃料を冷却循環させることが大事であるが、それは100%できるものではないことは、福島原発事故からも明らかである。

 人は自然に合わせることができるが、自然を支配することはできない。地震や津波を支配することも、放射能を封じ込めることもできない。

 お金もまた人間の欲望に従わず、自然に合わせることで、正常なお金の循環が可能になり、国中の商品やサービスが水の循環のようにいきわたることになる。

 そのためにはお金を作った国が自然の創造物と同じようにすればいいのである。

 今回必要になった復興の資金であるが、復興の期間を10年間と見積もってお金の使用期限を決めることができる。

 国が復興通貨を発行したら、10年後にはその復興通貨は使用期限切れとなってしまえば、お金の一生は終わることになる。それは国が被災者に復興通貨を贈与したら、そのお金が廻り廻って、10年後には国に使用済み復興通貨として復興税として自動返済される。自動とは例え、10年後期限切れの通貨が燃やされ捨てられても、国はその分再発行できるから、自動返済できることとなる。

 税金とは社会福祉として貸し出されたお金が返済されたお金という意味である。つまり、国の税金とは自然界における創造したものはいずれゴミとなって捨てられるものなのである。自然は創造し、維持、破壊するように、国もお金を創造、維持循環し、破壊(使用期限切れ)されることで、命もお金も循環するのである。

▼復興期限通貨の発行と回収図
 
 
 
▼自然循環とは何か?

 地球で創造されたものは地球に戻されるのが循環である。お金も自然循環するためには、お金を生産したら、生産したところにそのお金をもどさなくてはならない。

 そうしないと、お金は正常に国中に循環しない。

 また、その発行額と最終回収額はエネルギー不滅の法則のように、同額である必要がある。

▼お金の発行総額はいかにして決められるか?

 人類が生きるために必要とする必要最小限の総額である。自然は必要以上に生産されたものは、必要以上のものはゴミとして捨てられるようにできているように、人為的にお金を生産する場合は、必要最小限のお金を発行することで、合理的にお金は循環し、かつ、お金の奪い合いにならなくなる。

 2008年の金融恐慌は投資銀行が返済できなくなって倒産したことから始まり、信用創造されたお金の返済が滞ってしまったために起きた。それは人類が生活するために必要なお金が回らなかったことであり、それはいわば必要のお金が電子マネーとして大きく消えたことと同じである。

 電子マネーは政府紙幣のような現金ではなく、預金のような貸し借りする電子数字のようなものであって、その裏付けの現金はわずかである。政府紙幣のような現金は消える数字ではないので、消えることはなく、ただ印刷されつづけるためにハイパワーインフレが起きるが、預金のような現金でない電子マネーは返済されないと、消えてしまうため、デフレスバイラルが起きる。

 金融危機が起きて、アメリカを先頭に各国で消えた電子マネー分を大量に発行しても、ハイパワーインフレが起きなかったのは、国民に必要なお金の分を印刷しただけであり、必要以上の現金を印刷することではなかったからである。

 しかし、中央銀行制度をそのまま維持して、金融危機で消えたお金を印刷しても、助けるのは投資会社や銀行や金持ちを助けるだけであり、低所得者の生活を助けることにはつながらないので、景気は低迷することになる。

 今回のように震災で大きく資産もお金も失われた場合は、その失われた損失額以上のお金を新規に発行しても、必要最小限のお金を発行維持することに繋がるので、ハイパワーインフレにはならないし、その発行された復興費を全額回収できるようにすれば、デフレスパイラルにはならない。

 この震災復興期限通貨は人々が健康で文化的な必要最小限のお金の発行と回収をすることで、今までの政府紙幣のハイパワーインプレや中央銀行システムのデフレスパイラルの失敗をすることはなく、震災のピンチを正常復興のチャンスに切り替えられるようにすることができる。

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