余ったものは捨てなさい

 学生時代に、読んだシャカの言葉で引っかかる言葉があった。それが、

「余ったものは捨てなさい」

 というものだったが、「もったいない」ということの意味とはまったく逆にとらえられそうなものだった。さっそくその仏典の箇所をネットで調べた。

汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ

          ――― 南伝 中部経典 3 法嗣経

ある時、ブッダが祇園精舎にいらっしゃった時のこと、ブッダは比丘たちに説かれて、このように仰いました。
  「比丘たちよ、わたしは汝らを愛しみ愍(あわ)れむが故に、汝らはわたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならぬ、と願っている。
  比丘たちよ、もし汝らがわたしの財の相続者となって、法の相続者とならなかったならば、汝らはそれによって、他人より指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と批評せられるであろう。わたしもまた、それによって、人々に指さされて――、かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と評せられるであろう。
 比丘たちよ、もう一度言うが、汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ。
汝らは、それによって、他人より指さされて、――かの弟子たちは財の相続者であって、法の相続者ではない、などと――評せられることは、よもやあるまい。わたしもまた、それによって、人々に指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相縦者であって、法の相続者ではない――。などと批難せられることもあるまい。
 それ故に比丘たちよ、汝らはここに、わたしの法の相続者となるがよく、財の相続者となってはならぬ。

「比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分に飽食することを得、しかもなお食物の余分があって、捨てようと思っているとするがよい。その時、飢え渇き、疲れ衰えたる二人の比丘がやってきて、わたしは彼ら二人に対して、このように言ったとするがよい。――比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分、飽食することを得た。しかもなお、わたしは食物の余分があって、いま捨てようかと思っている。もし、汝らが欲するならば、これを食するがよい。もし、汝らが欲しなければ、私は今これを草なき土地に捨てよう。あるいは虫のいない水に投じよう。
 比丘たちよ、その時、その一人の比丘は、このように考えたとするがよい。――世尊は今、食を得られて、飽食なされた。しかもなお、世尊には、食の余分があって、世尊はそれを捨てようとしておられる。もし、私共がそれを頂かなかったならば、世尊は、これを草なき地に捨て、あるいは虫なき水に投じられるであろう。だが、世尊はかつて、『汝らよ、汝らはわたしの法の相続者たるがよい。財の相読者となってはならぬ』と教えたもうたことがあった。そしていま、かの食の余分は一つの財である。わたしはむしろ、この食を頂かないで、飢え渇き、疲れ衰えたる身をもって、一夜を過ごそう。――かくて彼はその飢渇・疲労の身をもって、その一夜を過ごしたとするがよい。
 比丘たちよ、その時、いま一人の比丘はまた、このように考えたとするがよい。――世尊はいま、食を得られ、充分に食をおとりになられた。しかもなお、世尊には余分の食があって、それを世尊は今捨てようとしておられる。もしそれを私共が頂かなかったならば、世尊はこれを草なき土地に捨て、あるいは、虫なき水中に投じられるであろう。今はむしろ、わたしはこの食を頂き食して、飢え渇き、疲れ衰えたる身を養い、この一夜を過ごすとしよう。――そして彼は、その食をとり、飢渇・疲労の身を癒して、その一夜を過ごしたとするがよい。
  比丘たちよ、彼はその食をとって、飢渇・疲労の身を癒すことを得て、その一夜を過ごすことを得たけれども、しかも、彼に比して、かの第一の比丘こそは、真に尊敬されるべき者、称讃されるべき者と言わねばならぬ。なぜならば、比丘たちよ、かの第一の比丘の選んだ道は、彼にとって長く、少欲・知足・削減・精進の徳を養うに役立つが故である。
  されば比丘たちよ、汝らはいまや、わたしの法の相読者となるがよく、財の相読者となってはならないのである。わたしは、汝らを愛しみ愍れんで、わたしの弟子たちは、わたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならない、と願っているのである。

 実際生活で、もし、師匠が腹を空かせた弟子にこうしたらかなり反感を持つだろう。そして、弟子の多くは師匠の余りの食べ物をまるで悟る(法)ことができるものとして、競って得ようとするだろう。ちょうど仏舎利(シャカの遺骨)をもったものが正当な宗派であるかのようになるようなものだ。

 このシャカの言葉は聖書のキリストの言葉を思い浮かべることができる。

ところで、イエス様どうお思いでしょうか、お教えください。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。

「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」

彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、

「これは、だれの肖像と銘か」 と言われた。

彼らは、「皇帝のものです」と言った。

すると、イエスは言われた。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

   マタイによる福音書 22章 17~21

 この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉はシャカの言葉に言い換えると

 「財はそれを作った者に、仏のものは仏に返しなさい

 になるだろう。神や仏は無宗教的には「自然」に置き換えることができる。

そのため、

 「お金は作ったものに返し、自然のものは自然に帰しなさい」になる。

 シャカ流にこれをいうなら、

お金を引き継ぐ者にならずに、自然を引き継ぐ者になりなさい

 となるだろう。実はこの法則はお金のシステムを自然なシステムにする方法が隠されているのである。

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地方自治通貨を発行しよう

 お金って何だ?!を考え始めてから、かれこれ2年くらいになるだろうか?

 当初の理解とは今はかなり違ったものになっている。そして、どうしてお金の流れがこうなるのか?ということがだんだん解りかけてきた。

 例えば、世界はデフレ不況で困り、金融緩和政策をしているが、中国だけはまったく逆のインフレ好景気で、金融引き締めをしている。

 この理由は為替の自由相場制を世界の多くはとっているが、中国は管理相場制で、自国で勝手に為替相場を決めているからだ。

 各国は輸出によって、景気をよくしようと、自国通貨の相場を安くすることで、他国の商品との競争に低価格で勝とうとしている。とくに、為替自由相場の元になる基軸通貨のドルを安くしようと、その金利を安くしたり、膨大なドル紙幣を印刷している。基軸通貨が下がれば、他国の通貨は逆に上がることになる。そうなると、輸出する産業は競争に勝てなくなり、倒産し、一気に不景気になってくる。

 そのため、基軸通貨の安さに合わせようと、各国は金融緩和政策をとらざるをえなくなる。ゼロ金利政策では追いつかなくなり、中央銀行が不良債権を買い取ることで、大量の通貨を発行する。これは不景気の連鎖である。この原因は基軸通貨がドルであり、しかも、自由相場であるためだ。

 しかし、中国は自国で勝手にその相場を決めているので、自国の輸出競争力はトップになる。そして、外貨がたくさん中国に流れ込んでくると、当然、インフレになる。景気が過熱するので、金利を大きくして引き締めにかかる。

 また、ギリシャの危機があったが、もし、ギリシャがユーロに加盟してなく、自国通貨だったら、その危機はその国だけで被害はおさまっただろうが、ユーロ圏に拡大したのは、共通通貨にしたためである。

 世界恐慌はアメリカの投資会社一社の倒産だけで起きた。それはいかに世界が基軸通貨であるドルを大きく左右する投資会社と為替相場に支配されているということである。各国は経済的に自由ではなく、アメリカの投資会社に支配されているという証拠でもある。

 自由な国とは他国から一切支配されないということである。その自由を守るために欠かせないのは自国の衣食住の基本産業の自給率が高いことである。自給率は人でいえば、自立した経済力生活力であり、それが自由に生きるための最低必要条件である。

 その基本衣食住の産業と流通と消費を安定化させるのが自国通貨である。それは他国の通貨との為替によって左右されることのない通貨でなくてはならない。それが自由生活を保障する経済システムになる。しかも、自国通貨は自国の産業に合わせた独自の貨幣システムが有効である。

 さらに、それを地方自治を推進するならば、地方独自通貨も必要になってくるだろう。但し、独自通貨の流通は基本的衣食住産業だけに絞ることが必要であり、それ以外は他の地域や他国との文化交流のために、より開かれた産業が必要であり、それに合わせた通貨が発行されることが必要である。

 今の通貨は残念ながら、どの国の通貨もアメリカの投資会社の支配通貨である。それをいち早く脱して、三種の通貨を発行し、流通させることが大事であるように思える、

1,地方自治通貨・・・その住民の基本的な衣食住産業+地方独自産業

2.国の通貨・・・・・・他国の通貨に左右されない基本衣食住の産業通貨+独自産業

3,国際通貨・・・・・・他国との文化教育経済協力通貨(基礎産業以外)

 お金が混乱するのは、そのお金がなんでもかんでも交換流通するためで、それは自由放任する戦国時代の鉄砲や刀に相当する。お金はそもそも物々交換から発展してきたものであるが、今では単に所有権のとりあいのようになっている。お金は人の命と交換できないのに、それがあたかもできるような錯覚をする時代である。

 何が交換でき、何が交換できないか、はっきりとした目的と精神で、新たな自由貨幣制度が築かれていくことが必要であろう。

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命の種が向かうところ

 ニンジンが必要になって、何本か抜いた。まだ小さかった。中には根っ子同士がからみあっていたものがあった。種を密集してばらまいたためだろう。葉っぱがかなり大きくなっているのに根が小さいとは。

葉っぱは食べられないのかなあ? と思って食べてみたら、パセリのような味がする。薬味になるが、たくさんは無理って感じだ。

 見た感じも、レタスか白菜か迷う。食べてみても迷うものがある。

 結局、娘の意見でレタスだとして、サラダにして食べたら、葉がしわくちゃなのでオイルの絡み合ってうまかった。

 こうした野菜の種は本当に小さい、それが大きくなると、みな個性をもった生き物になる。人間だって、受精卵から大きく育って、みな違う姿になる。

 それは驚きの奇跡に思える。人は肉体と心を持っているが、卵だったころは、肉体と心が一緒になっている状態に思える。心は見えないけれど、肉体は見える。

  この卵は今の携帯のマイクロSDカードのように、そこに莫大な情報が隠されている。その情報の一つ一つがいわば心の一つ一つのように思えてくる。

 肉体の変化とは比べられないほどの心の情報は大きく変化し、他の肉体に影響をもたらす。この心の元になったのが卵や種であるが、その卵や種を作るのが、男女の心の種である。それが実るのが愛で、実らないのが怒りのように思える。

 ニンジンが密集した姿をみると、そこに愛と怒りがからみあって生長しているように思える。そこに平和をもたらすのが、自身による自然淘汰か、人の間引きである。

 人のニンジンがともに生存するためには、ニンジンを全部収穫しないことである。間引いたニンジンを食べることがもっとも平和的行為であるように思える。というのは、残ったニンジンは越冬し、春になるとさらに大きくなって、夏には花を咲かせ、秋には種を実らせる。

 その種はもっとも強く、人にはおいしい品種になることができる。冬に間引いて食べるのは、強いニンジンではなく、弱いニンジンにすることが大事であるように思える。

 森を守ることも同じではないだろうか? 間引いた木だけを木材にし、間引いたところに強い苗を植樹する。それが大きく育ったら、今度は逆に老齢になった木を間引くという繰り返しをすれば、森と人が平和的に共存するように思える。

 間引くという行為は人間社会でともに生きるための規則を作るようなものであろう。間引かないと森は自滅する。間引かれないと、自身で自然淘汰して、強く生き残ろうとする。

 自然淘汰が生き物の自然法であり、間引きが人の法律であろう。人類全体が自滅しないように、環境保全や平和維持のための国際法や経済システムが作られ、また作っていくように思えてくる。

  

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石油も自給自足できる時代になる

もし、化石燃料が枯渇したら、どうなるか?

沖縄の藻が生活排水の栄養で、石油を作り出すことができる。

なんと、1mの深さのプールで1ヘクタール(3000坪)で藻(オーランチオキトリウム)で栽培すると、1万トンの重油ができる。それを2万ヘクタールで、現在の石油輸入量に匹敵する。

朝日新聞のニュースにもなった。

いかに、資源循環が奇跡の美しい自然を作り出すことができるかだ。

それにしても、

石油は古代の藻が作ったとは知らなかった。石油がどのように自然に作られたかを知ったら、もっと早くこのことに気が付いたかもしれない。

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一意志を一金の単位に

 最近、もうないと思われた埋蔵金2.5兆円が独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の利益剰余金が出てきた。それが、基礎年金の国庫負担割合を50%で維持に使われ、平成12年以降は消費税増税になる。

 鉄道建設・運輸施設整備支援機構がそんなに利益が出ていたとはとても信じられない。マスコミのための、ただの数字の帳簿を合わせるだけの「言い訳」にすぎないように思える。

 お金を独断で発行できるのは日銀である。最近、25兆円分印刷した。

 日本の借金は国公債で約1000兆円あるが、税収よりも借金の方が多くなった現実ではその返済は不可能だろう。でも、借金が払えなかったら、個人だったら、破産宣告をすればいいように、国家も破産宣告すればいいのだが、そう言ったら、国民が仰天してしまう。

 そこで、別な言い方で国民を安心させることができる。1000兆円の国債の半分を日銀に買ってもらい、残りの半分を貸し手である銀行各社に債券放棄してもらうと言えばいいのである。

 各銀行は中央銀行である日銀と信用創造の関係にあるので、つじつまを合わせることができる。第一、銀行は国債の利子で食べているところがあるから、そうせざるをえなくなるだろう。

 こうした借金の数字とはいったい何だろうか? それはほとんどが言い訳や「払う・払わない」というような言い合いにすぎないと思える。

 例えば、AとBの文無しの二人の会話のようなものだ。

A:「Bさん、10000円貸してくれよ、利子つけて返すからさ」

B:「ああ、いいよ、10000円貸してあげるよ、来年までにちゃんと返してくれよ」

Bは日銀から、10000円、利子0.1%で借りて、Aに10000円利子10%で貸すことができる。

日銀は10000円の日銀券を印刷して、Bに渡し、それはAに渡す。

1年後、AがBに11000円返済すれば、Bは日銀に10010円返済することで、990円金儲けすることができる。

 これが現実であるが、しかし、日銀が発行した日銀券は10000円しかなく、Aが利息分の1000円はどこからもってきたのだろうか? それはAB以外の人物であり、それをCDとすれば、ABの会話と同じことをCDがしたことになる。もし、世界がABCDの4人しかいなかったら、AがBに返済できたら、CはDに確実に返済できないことになる。日銀の総発行額は20000円であり、ABCDが必要なお金の総額は22000円であるからだ。その差額である2000円は幻のお金であり、約束という信用から生まれた幻想のお金である。その2000円の幻想のお金をめぐって奪い合うのが、ギャンブル経済である。

 この2000円の幻のお金とは債券である。債券を売ったり買ったりするので、2000円の債券は株券にもなり、それは幻の商品となって、その人気と信用度でその値が上がり下がりする。そのため、その価値は最低0円最高は無制限の1億円以上になったりすることができる。

 しかし、こうした幻の債券や株の実体は0円である。

 これは、米や麦などの食料でも当てはまる。日銀が発行した20000円を20000粒の米として想像すればいい。今年の米の生産高が20000粒しかないのに、22000粒の米を取引することは不可能であるが、それができたとしたら、2000粒は来年生産されるだろう米粒のことであり、それは予測した数字であり、実体のない幻の米粒でしかない。

 お金とは商品の値札であるが、その値段を決めることができるのはその商品を売ろうとする人物は自由につけられる。ただ、その値段で買う人がいるかどうかである。もし、買う人がいなかったら、その値札は0円の価値しかない。そのため、売り値ー買値=幻の金 ということになる。

 お金とは数字である。そのため数学であることが必要だ。数字に実数と虚数があって始めて数学が発展することができるように、実体のあるお金と債券や株のような実体のないお金を分けて表示することが必要である。

 実体のあるお金とは先日書いたように、金の重さではなく、米や麦の食料の量である。そして、実体のないお金は将来生産されるであろう米麦の量である。これがいわば借金や債券や株に当たるもので、その数は占いや予測であって、不確定な数字でしかない。

 人は「パンのみで生きるにあらず」なので、幻想や空想や虚構や思いこみによっても、生きている。そのため、幻想であるお金も生きるには必要不可欠である。

 では、この幻想であるお金1円の単位を何に設定したらいいだろうか?

 キリストの「人はパンのみで生きるにあらず」といった裏には、パン以外に何で生きているかである。これは人間は肉体と精神(心)でできているので、肉体の象徴がパンであり、心の象徴が父なる神であるといいたかったのだろう。 

 つまり、「人は心でも生きている」ということなのだ。この心こそ、幻想や空想を楽しみ、人が夢を見る姿なのである。

 では心とは何か? それは欲望・願望・希望・理想であり、それらの元になっているのが「自分の意志」である。人に命があるかをみるのに、意識があるかどうかであるようなものだ。但し、自分の意志というのは洗脳される場合があるので、他に洗脳されていない自分の意志というのが本当の自分の意志ということができる。

 お金を発行する意志は、日銀であるが、その総裁は国会で決められ、国会の議員は国民の投票で行われる。つまり、20歳以上の国民の意志で作られるといっていい。20歳未満は洗脳されやすい意志と言えるかもしれない。

 そこで、未来の米麦の生産数を決定するのは、20歳以上の国民の具体的意志の1を虚数であるお金の単位にしたらいいように思える。いわば、議員を選ぶ一票ようなものである。しかし、お金の単位の場合は、人に信託するのではなく、未来の米麦の生産量に対する意志である。

 それは普天間基地をどうするかの一票に価するのが、虚数としてのお金の単位である。それは国民の声をお金の単位にすることである。

 そこで、お金の実体の単位を

  米麦1粒=1実円

  お金の虚体の単位を

  成人の具体的意志=1虚円

  (1実円:1虚円を +1 : ー1 のようにするには、具体的意志の内容も米麦1粒 : 未来の米麦1粒 にすることで、米麦の生産量と未来の生産量がお金の単位の象徴的単位にすることができる)

  米麦1粒=1実円

  来年の米麦生産への1成年の意志=1虚円(今年と来年の生産意志が同じ場合)

 とする。

 そうすることで、お金の発行額は2種になり、1つは国民が生産消費する商品の量であり、2つは国民が将来必要とする商品量になることができる。

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