食べる農業か?金儲けの農業か?

隣の桃栽培農家が、銀色の桃落下シートを敷き詰め、先日、収穫が終わり、落下シートも撤収し終わっていた。

収穫後の畑の下には大量の腐った、傷んだ、小さすぎる桃が捨て去られていた。

また、売れそうもないイビツまた、傷んだ、小さすぎる桃はそのまま収穫されないでそのままになっていた。

こういう売れないものは廃棄する行為はどの農家でも同じことをしている。

捨てられていた4本の桃ノ木の下にあるものをみな集めてみた。

4本の桃ノ木から売れないので、捨てられた桃

腐った部分は手で乗り除き、桃のジュースにした。

でも、95%はそのまま冷蔵庫に入れ、傷んだ箇所をとりのぞきながら、美味しく毎日食べることができた。

この量は畑に捨てられた桃だけで、収穫されなかった桃はそのままに残しておいた。

収穫後の桃ノ木4本、捨てられた桃だけ拾ってきた

桃の実が育つ頃、一つ一つの桃を大きく育てて売れるようにするため、間引く作業をする。

間引かれる桃の数は3分の2はあるだろう。

そうした間引かれた桃も拾ってきて、梅とそっくりなので、梅干しと同じ要領で、桃干しを作ってみた。そうでなくても、焼酎につければ桃酒ができるし、砂糖にまぶしても、お菓子ができるだろう。

食べる農業ならば、無駄に捨てるものはないが。

売る(金儲け)ための農業ならば、無駄な捨てるものがたくさんできる。

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時々ニュースになることで、

キャベツができすぎて、値段の暴落することを恐れ、みな廃棄してしまう生産調整もそうである。

緊急需給調整により全国で9,700tのキャベツが産地廃棄されtた。これによる交付金は27円/㌔、2億6千万円

緊急需給調整により全国で9,700t、うち愛知県では8,500tのキャベツが産地廃棄されることとなりました。需給ギャップによる大幅な値下がりを緊急的に調整するためです。これによる交付金は27円/㌔、2億6千万円となります。

1980年この制度が始まって以来、1994年を除いて毎年全国のどこかで野菜の産地廃棄がおこなわれているそうです。消費者の立場にたてば「捨てるのはもったいない。」とか「高いときはなかなか安くなる措置をしないのに。」などいいたいことはいっぱいありますが、市場経済に委ねこのまま価格下落をそのままにしておけば箱代もでなくなってしまいます。「高いときは大儲けするからいいんじゃないの。」という意見もあって複雑ですが、それよりも生産者の無念をおもえば毎食キャベツをたべて少しでも需給ギャップの解消に協力しようと思ってます。

こうした売るための農業と食べるための農業の矛盾は・・問屋小売り、スーパー・コンビニでも起きています。

毎日起きているのがコンビニの売れ残り弁当廃棄である。

世界で13億トン、日本で1700万トンも出ている食品廃棄物

食品廃棄物は生産される量の3分の1

 

生産される食料の3分の1に相当する量が捨てられる。

こうした、食べ物が「売るための農業」が主流になってくると、

飢餓と大食いグルメの矛盾の二極が現実化する

 

 

ボルネオの住民の姿

ボルネオのダヤク族の生活は困窮し、オラウータンは絶滅に追いやられる一方、

熱帯雨林をみなアブラヤシ農園にし、それを海外に輸出して金儲けする構図が生まれる。

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食べる農業は食べ物の分かちあいに進むが、

売る農業は食べ物の奪い合いに発展する。

ここで、思い出すのが、

 

奪い合えば足らぬ・分け合えば余る

「食べる農業」5対「売る農業」5にした、

バランスがいい農業が期待される。

その場合、農業と金儲けを分けて、農業は食べる農業へ、金儲けは金融経済へという方向性でいったらどうかなと思う。

 

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ボルネオのカラユキさん

ボルネオがイギリス領のころ、天草の貧しき娘がボルネオに売られていた。

その生涯を描いている。その娼館はないが、そこで一生を終えたカラユキさんが、日本に背を向けてジャングルの中で、眠っている。

その近くで、今度 ボルネオの「持続可能な農業」学会が開かれる。

著作権で無料動画は中国語しかないが、・・

日本語音声と同時に聞くには、広告がたくさんあって見えにくい動画なので、音声だけを再生して、上記の動画の中国語をミュートにして

二つの動画を同時に再生すればなんとか全体を把握できる。

 

『サンダカン八番娼館 望郷』(サンダカンはちばんしょうかん ぼうきょう)

1974年の日本映画。熊井啓監督。

原作はノンフィクション作家・山崎朋子の『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』(初版1972年)。

映画でも、太平洋戦争後、天草で貧しい暮らしをおくる元からゆきさんの姿と、その回想のなかで語られる過去のボルネオの娼館での暮らし、
そして現在のボルネオに残るからゆきさんの墓を訪ねるくだりなどが原作に忠実に描かれている。
戦後、「戦前期日本の恥部」として一般に知られることが少なかったからゆきさんの実像を描き出したとして、
原作・映画とも、さまざまな問題を投げかけた話題作であった。

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日本とボルネオが戦前戦後において、無縁ではなく、深い関係にあり、

それが 生き抜く上での、お金のシステムがいかに大切な心を謀殺してきたか、それがわかる。

持続可能な農業を追及するうえで、お金の問題を抜きにして、食べることができる農業を提案していきたい。

 

 

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知足庵号のいよいよ船出/ボルネオの熱帯雨林から

いつもは知足庵参加の復習で忙しいのだが・・・

「6月の自然と健康の会」は4月で 各自目的がバラバラで、その姿のように会もバラバラに解散するような様相を呈した。

私も最後の大学講義として今までの人生すべてをかけて臨んだ。

その後だ! 船長の大橋教授が「66年間の生涯での悟り」を得て、大いに語りだしたのである。

その悟りで、沈みかけた知足庵号が浮かびだし、大きく世界の海原に走り出した。

自然に生きるとは?

健康とは?

その大いなるコミュニケーションが英語でまるで浪間のように洋々淡々と打ち寄せては離れるかのように表出してきた。

今回のコミュニケーションは「癌とは何か?」というのに尽きるが、

9月中旬のマレーシアのボルネオ島における「持続可能な農業」学会におけるプレゼンが、なんと日本語と、ドイツ人デンマーク人中国人6人の18歳の若者も迎えて英語でも行わわれた。

持続可能な農業と癌は「自然と健康」という具体的対象としてみれば、根本でつながっており、両者は左右の足が振り子のように振れながら歩くような対話でその真実への道へと向かっていく。

私もその流れにどっぷりとつかりたくなった。

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まずは

学会(サバ州)が開かれるボルネオの熱帯林の問題点である。

マレーシア領ボルネオで熱帯雨林の80%が伐採

 

2009年時点のマレーシア領ボルネオ(サバ州・サラワク州)の森林の状況

マレーシアのサバ州・サラワク州に伐採や皆伐の手が及んでいない熱帯雨林はほとんどなく、そのかなりの部分が1990年以降に行われたものだ

古い巨木が多数あったかつての熱帯雨林は、炭素を貯蔵し多様な生態系を支えていた。それが今や油ヤシ農園や材木林に転換され、伐採により空洞化している。

アブラヤシ

アブラヤシは果実から得られる油脂を目的として栽培が行われている。

単位面積当たり得られる油脂の量は植物中屈指[1]である。今日産業的に大規模栽培されたアブラヤシから収穫された果実は、石鹸や食用植物油の生産に使われている。

果実のうちの果肉からはパーム油が、また、中心部の種子からはパーム核油が得られる。パーム油とパーム核油の品質は異なっており、パーム油は調理用、パーム核油は加工食品用としての用途が多い。

また、アブラヤシの油はバイオディーゼル燃料としての利用も考えられている。

換金性の高いアブラヤシはコプラ原料となったココヤシを駆逐して急速にその栽培面積を増加させつつあり、パーム油の世界生産量は植物油中1位である。

マレーシアのギニアアブラヤシ

アブラヤシの幹と果実

マレーシアサバ州タワウでのプランテーション

日本で健康的な洗剤として輸入され、それが日本の環境保全と熱帯雨林の環境破壊とが矛盾するとおおいに話題となったものである。

 

持続可能な農業には地球規模の環境保全という視点で考える必要がある。

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チョコレートと児童労働

 

環境と経済はシーソーのように、

環境を優先すれば、経済が衰え、

経済を優先すれば、環境が劣化する。

仕事と生活のように、どちらかを優先すれば、まるでギャンブルの勝負事のように、どちらかが劣化する。

持続可能な農業において、環境と経済の矛盾バランスは公私の最もよい5対5のバランスが適応できそうである。

自5対他5のバランスが一番安定する

持続可能な農業とは、自国でも自給自足のような食べるための農業と、他国との持ちつ持たれつの輸出入して分かちあう農業のバランスが5対5であることだろう。

ボルネオ農園では輸出するアブラヤシばかり生産するのではなく、

自国で生活するための食事に必要な食べ物を地産地消として半分半分生産し、

かつ、人間と他の生物(植物・動物)との共存共栄も視野に、

ボルネオ農園は原生林5対農園5の割合で、環境と人間が調和して生きられるようにすることが必要だろう。

 

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蕎麦と遊んでみました

陸稲の雑草除けのために蕎麦の種を播いたが・・・

1メートルほど背丈が伸び、花が咲き、その花が黒く三角の実を結ぶ。

そのままにして実が落ち、枯れて、来年もまた芽生えさせるようにしたが・・・・

何か、

そんな実をつける蕎麦さんと遊んでみたくなった。

まずは、食べられるか?

ひと草を花と実と葉とともにもぎ取った。

2018,6.30蕎麦のひと草

鍋に湯を沸かし、おひたしに?・・・

茎と種は堅いが、葉と花は柔らかい。

葉と花は醤油をかけておひたしでいただき、

汁はそば茶+青汁で、いただく。

蕎麦のおひたしとそば茶
2018,6.30

蕎麦の種が蕎麦を食べているような味で、意外とうまいが、ただ殻がかたいので、それは出す。

おひたしはサッパリした味で、どんな調味料にもあう。生だったらサラダ菜でもいける。

そば茶はまさに健康茶って感じで、病後のやさしい滋養感がある。

蕎麦湯に青汁を足したような味だ。

それにいろいろな味付けも可能だが、そのままを楽しむのは緑茶と同じだ。

もっとも、

まだ花・実がならないまでの、若菜だったら、そのまま青汁、サラダ菜、おひたし、天ぷらなどして、茎が柔らかいうちに飲食をたのしめそうだ。

調理参考事例

1.蕎麦の青汁

2.蕎麦葉のからしあえ

3.蕎麦の中華風炒め

蕎麦の実を集めて、蕎麦づくりは来年に自然に芽吹いたら 挑戦してみようかな。

今年は陸稲さんの雑草除けに精出していただきます。

 

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病気は自分でしか治せない

朝飯前に、雑草取りをしたら、

防備したはずの足首に虫に刺され、強烈な痒みに襲われた。

一か月前に、食物アレルギーで、全身に湿疹と痒みに二回襲われた。

その経験から、

いかに痒みから脱却するかを知っていたので、

虫刺されの痒みも同じ処置をした。

汗と泥を水シャワーで洗い落とすとき、念入りに足首の痒みのところを洗い落とす、

怪我したときに、そこからばい菌が入り込んで化膿させないことと同じ要領である。

タオルでふき取り、

大きく膨れ上がった虫刺されは1センチほどだった。

それを爪で十字に何度も押しつぶす。

すると、刺された穴から、虫の唾液とともに血が噴き出てきた。

毒蛇のかまれたときの処方と同じだろう。

血が止まるまで三分ほどかかり、それをタオルでふきとる。

虫刺されの処置10分後痒みも、湿疹も消えた

以前は、かゆみ止めのマキロンなんか、薬をなんども塗っただろう。それが治癒するまで数日かかり、痒みもずっと続いただろう。

だが、

自分で、薬に頼らず、自分で考え、実験し、その体験からあみだした処置ほど、虫刺されから10分で、ほとんど痒みも、痛さも、湿疹も、消すことができた。

虫刺されにたいして、昔から 笑い話であった「爪でバッテンをつける」というのは、痒み止めだけでなく、化膿させず、はやく血を出させる有効な手段だと思える。

薬が治すというのはいわゆる洗脳とか思い込みとかであり、それらはみな一時的な痒み症状を抑えるだけのためだ。無駄なお金と生産と技術と知識のような気がする。

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どんな病気も自分で考え実験して治すような方向転換は

先日の知足庵の「癌という病名はない」という大橋教授の指摘があってからである。

虫刺されにしても、

アレルギーにしても、

しいては

癌にいったっても、

みな自分で考え、自分で実験し、自分で治した方が、より確実に早く完治できるようにさえ思えてきた。

病気は医者や薬や知識が治すという思い込みは捨て去り、

どんな病気も、基本は自分自身で治すというのが・・

それが自然治癒であれ、自分で病気を治そうとする意志であれ、そうであろう。

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私の経験的専門は精神病である。自分が長く患った経験から、医者には精神病は治せない、ただ症状を一時おさえるだけであることを体験している。

どうやら、肉体の病気もまた、精神病の治癒の原理が「自分からその病気を治す」という意志がもっとも効果的であることを、改めて、アレルギーと虫刺されで、確認できた。

 

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