時空を超えて今僕はここに居る・その8

自然との対話が始まった

田舎の一人暮らしの老人の楽しみは唯一畑と対話することだ。

自然や畑は人と違って言葉を持たない。命を持っているだけである。

命と命の交流みたいなことを自然(畑)との対話と表現している。

古代麦(緑)野沢菜(黄)桃(ピンク)山桜(白)右の斜面と対話する

右の駱駝の背のようなのが棚山、左がフランス人といった兜山。

大橋教授がうちの畑をみて、開口一番に言ったのが、

「小松菜をよくもまあ自然栽培しましたね。雑草は抜いたのですか?」

「あれはホームセンターで一袋の野沢菜の種を8年間かかって雑草化したものです」

小松菜は背が高くなっているので、気が付かないが、雑草は背が低く生えているので、いわば共存状態である。

「最初は苗からそれを移植、そして、花が咲き、種ができたら、それを荒地(畑でない、石がごろごろ、雑草が生い茂るところに 撒く。それを8年間もつづけたら、こうなった」

小松菜は食べる分、漬物にする分だけ、葉だけとり、けして根っこはとらないことが肝心。

もちろん、無肥料、不耕起だ。ただ、小松菜を覆う雑草だけは根ごとひっこぬくのを繰り返す。

また、長ネギは雑草や小松菜とも共存するので、そのまま株分けして 荒地で、増やし、葉だけ食べ、根っこはけして取らない。

小松菜と長ネギは荒地で、雑草と共存している。

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大橋教授の開口一番で、はたと気が付いた。

なんで、僕は荒地・雑草地で、野菜の雑草化に成功しているのに、90%の畑(耕作地)で、少しも成功していないのか?

今後、自然農法の方針を大きく変更することにした。

荒地による野菜の雑草化と同じことを、畑でやればいいではないか!

まずは、荒地でももっとひどい崖地での野菜穀物雑草化をし、さらに、畑全体をそのまま雑草化してみることにした。

これは通常の自然農法とは区別して、

野菜・穀物雑草化作戦と名付けよう

この手順、科学者の論文を書くように、データ記載は面倒なので、写真で、実験と結果を写真で、記録していく方法で まあ、小松菜と同じ8年間もやれば、一目瞭然で、その報告書が8年後できるということになる。

雑草を根ごと刈り、土にそばをばらまき、陸稲を線撒きする

同じように他の荒地も

 

他の荒地も

一番やっかいな崖地も

野菜や穀物のような植物も

魚や動物と同じで、金儲けなどの終わることのない欲望列車で、乱獲していけば、その魚も、動物も、絶滅し、まったく獲れなくなる。

アイヌ民族の伝統猟法ように、生きるために必要な食べ物の分だけ獲っておけば、明日の食べ物は保証される。

それは野菜・穀物だってそうだ。

モンゴルの遊牧生活もまた、葉だけ馬羊牛などに食べさせ、根っこは残し、そして、移動して、翌年にまた牧草がはえるようにするのも同じである。

それはボルネオやアマゾンのジャングルでも同じで、

毎年、自然と前の年と同じ状態に植物動物が生きられるようにしておく配慮が

この地球の王として君臨する人類の持続する農業・社会の築き方であろう。

 

 

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時空を超えて今僕はここに居る・その7

自経理灯明 法目的灯明

 

ようやく いつもの自分一人の生活が始まった。

携帯電話も一日一本もないが それが今日3月26日の午後9時に起きた一時停止違反の件で

警察の担当者とは別の交通課から電話があった。

「どうしてサインしなかったのですか?」

「安全性を考えて、口頭による注意勧告が妥当であると判断し、サインして文書に残す必要がないと判断した」

「なるほど(納得したようす)」

そして、不思議な質問がきた。

「一時停止しましたか?」

「それが記憶にない。左右確認して車が来ないことを確認したことは確かだが・・

警察官が二人とも一時亭しなかったというので、たぶんそうなのだろうが・・

そんなこと、パトカーのビデオカメラの撮影チェックすればわかることじゃあないの?」

「はい、それは確認しました」

で、終わったのだが、何が確認できたのか? ひょっとして、自分が一時停止したかもしれない・・ビデオ判定ではかなり微妙な判断をせめられたのかもしれない。だから、それを確かめに私に聞いたのかも???

妙な疑問が残ったが、

「わかりました。(納得了解しました)」と電話は終わった。

「女性土俵下りて」不適切だった 突然で動揺

命優先せず、しきたりの「女人禁制」を優先した不祥事があったが、

この警察官も「道路交通法違反のしきたり」を「市民の交通安全」よりも優先したためにおきた不祥事でもある。

そのシキタリや法律や教義そして慣習道徳は

「なんのために成立したか?」

これは この世を 生き抜くためには どうしても その目的を考えて 今の状況を的確に判断する必要があるということである。

「そういう法律があるから」では問題解決にはならなく、より問題を複雑化させてしまう。

「その法律はなんのためにあるのか」から問題解決がケイスバイケイスで即断できるのである。

 

自灯明・法灯明 <涅槃経>

自らを灯とし 法を灯とせよ

釈迦が入滅する最後の教えであるが、ここでいう法灯明とは釈迦の説く法律・しきたり・教義である。

だが、こう訂正する方が安全に生きられる

「法の目的とするところを灯とせよ」

自らを灯というのも こう訂正する必要がある

「自らの経験と理性を灯とし」である。偉い人がああいったとか、いうのではなく、自分できちんと物事を考えて、判断していくことだ。

まとめると

 

「自らの経験と理性を灯とし、

法の目的とする灯と照らし合わせて

 判断し 安全に確かに生きよ」

 

 

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時空を超えて今僕はここに居る・その6

April Fool

「春の馬鹿」

嘘のようなポカポカ陽気 バカ騒ぎもしたくなる

権威あるもの、権威を求めるもの 権威に屈するもの

そんな人物に多く出逢っていると 「知らないのに知っている」「何の確証もないのに信じ込んでいる」「その答えがないのに答えを断定せざるをえない」「まわりから信頼されているので大丈夫のふりをする」「回りからおだれられるのでそうだと信じ込んでしまう」「自信がないのに自信があるようにせざるをえない」

知識人 賢人 でないと 自分の立場が保てなくなる。

馬鹿になってはいけない バカであってはいけない としきりに そう自分に言い聞かせている。

だがなあ・・

そんなつまらぬ枷をはずして、エイプリールフールの 一年に一度でいいから 正直の自分の馬鹿さを解放しようではないか

自分が馬鹿であることはいわば

自分の丸裸の姿を世間に公表するようなものだ

そして、自分の正直な気持ちを 全部言い放すようなものだ。

それは とにかく恥ずかしい 醜い無様な姿だ

どんなに 偉かろう人物も ただの凡くらだ

過去のどんなイエス マホメット 釈迦 ソクラテス アインシュタインだろうと

ただの 我らと少しも変わらぬ バカ者だ

ただ 信じ込んだ賢さ 知識 悟り 真実 で、自分を覆い隠しているだけだ

この春のポカポカ陽気の温泉にはいった気分で、そんな知識の覆いを脱ぎ去ろうではないか!

みんな馬鹿なら、どこに劣等感や どこに驕りがあるというのか

そこに 共通の居所がある ともに生きている実感が沸き起こる

 

馬鹿とは もうどうでもいい知識や常識や見識や信条を 洗い落とすことであろう。

 

今日のエイプリールフールくらい みんなで馬鹿になりきろうではないか

そこから 明日の平和 健康 コミュニケーション 仕事 学問 生活 がリセットされ 新しく更新されて進みだす。

 

そう、馬鹿になりきることは 生活のリセットなのだ

 

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時空を超えて今僕はここに居る・その5

二人のヤングフレンド

奇跡のヤングフレンド

初めて恋をしたときから

今の67歳になるまで ず~と解らなかったことがあった。

モンゴルの旅で奇跡的に出会った二人のヤングフレンドにそれを教えてもらった。

もちろん、

19歳のヤングフレンドたちは 自分たちが一体何を67歳の老人に教えたのか ?????であろう。

それは恋愛・結婚・子育ての長い経験がないと まったく????で、

たとえ、言葉による理解でも 一向に??????であろう。

また、死ぬほどの恋に苦しんだことがないと やはり?????であろう。

 

釈迦が断食と瞑想の長年の荒修行の末、息絶え絶えに山から下りてきて、

やせ細り、今にも死にそうな釈迦の姿をみて、若き娘子が

一杯のミルク粥を差し出し、それをいただき 忽然と悟るようなものである。

 

ヤングフレンドは ただ正直に本音で語り、答えてくれただけである。

だが、67年間の片思いの修行者に その本音が ミルク粥をなにげなく与えるように、

奇跡の悟りを忽然ともたらせてくれたのだ。

 

片思いは本質的にエゴである。

無償の愛は理論的には可能であるが、実際的には不可能であり、

どんなに努力修行しても、幾分有償の愛が混じってしまう。

100%の無償の愛は いわば 仏陀の悟りであるが・・

不悟の悟、不知の知 無知の知 を知って、

そうした絶対的境地や仏陀の悟りのようなものは単なる幻想や

終わりのない目標地点としてとらえた方がより自然的またより人間的な自遊な生き方ができる。

 

恋愛は感謝とのバランスで成り立つ。

そのバランスは五分五分で、

自分のことを考えるのを 5 対して 他人のことを考えるのを 5

この半々のバランスが一番人間関係でも、社会の健康度にも、恋愛と感謝でも 丁度いい。

 

相愛はたぶん、恋愛と感謝のバランスが うまくとれた時の状態であり、

そのバランスが欠けると 別れがやってくるが、バランスが満ちると また出逢いがやってくる。

それは 生と死が 波間のように 打ち寄せては、去っていくようなものであろう。

 

 

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時空を超えて今僕はここに居る・その4

今僕は50年前の自分と50年後の自分とそして今の自分の三者が一同に会して話し合っている。

そんな不思議な世界にはまり込んだのは・・

今回のモンゴルの旅における出逢い、そして50年前のオランダにの国際ワーキンぐキャンプ、

今生で、最高の面白さがあり、友情も、恋愛も、理解も、 大きな喜怒哀楽を通じて、これほどの幸せを感じることがあるのか!

そして、50年後の再生しても、やはり同じ体験があるだろうことを十分信じられる出来事であった。

モンゴルの旅では、老若男女、国人種宗教を超えて 理解と友愛が実現できたことで、

天国のような空想と幻想のような世界より、はるかに この現実がキラキラの輝き、最高の幸せを感じられる世界をあることを 実際に嫌と思わせるくらいの充実感、幸福感、感動を与えてくれている。一か月半も続き、今もなお持続している。このまま50年間、そんな幸せ感が続くのではないかというぐらいの 桜咲く春のようなポカポカ気分なのである。

どうして、こんな奇跡的な出来事が次々連続して起こり、そして、幸せ感が持続できるのか、分析してみたくなった。

その原点は 約50年前の オランダの国際ワーキングキャンプの二週間にある。

みんなでヒッチハイクしてアムステルダムで合流した瞬間

国際ワーキング・キャンプは

CCIVS (Coordnating Committee for International Voluntary Service)

起源
国際ボランティアサービス(IVS)運動は1920年に生まれました。
最初のプロジェクトはフランスのヴェルダン近くで開催され、ヨーロッパのボランティアのグループが荒廃した村の再建を手伝っていました。

 

第二次世界大戦後、戦後復興とボランティア組織の増加に直面して、ボランティア活動の調整と奨励方法についてユネスコで議論が行われました。

1948年4月、国際ワークキャンプ組織会議が開催され、パリのユネスコ本部に設置され、国際キャンプのための調整委員会が設立されました。

1950年代から、ボランティア組織の数は、軍縮から健康と人権に至るまで、脱植民地主義から平和へと異なるテーマに触れ、世界中で増加しました。

1960年代初頭、CCIVSは当時の東欧の社会主義諸国の若者団体との接触を開始し、1970年代と1980年代には東西のボランティア青年交流を組織化する重要な中立基盤となった。1971年、CCIVSは国連ボランティアの創設にも関連していました。

1980年代、「鉄のカーテン」を横切る東西プロジェクトの数が増加した。

1987年、CCIVSはペレス・デ・クエラーの国連事務総長より「平和のメッセンジャー」という称号を授与されました。

1990年代初めには、南北関係とアジア・ヨーロッパ関係がますます重要になった。

それ以来、CCIVSは、国際的なボランタリーサービスの動きの発展に関する議論や交流のための品質基準の改善の場として知られていました。

CCIVSメンバーは、国際ボランタリー・サービスに関連するインパクト、認知、政策に関する動きを反映して、異文化間対話、持続可能な発展、世界遺産、健康と紛争の5つの主要トピックについて今日働いています。」

最近は

World Heritage Volunteers Initiative 世界遺産ボランティア活動に力を入れている。

日本のNGO団体のNICEが CCIVSと

NVDA(アジア・ボランティア発展ネットワーク)と

ALLIANCE(欧州ボランティア活動団体同盟)とも合わせて活動している。

私が24歳のとき、オランダの田舎の一軒家(知足庵のような)に 24人、13か国が集まり、日本人は私一人で、とくに、この時期、ベルリンの壁があったため、東欧に若者が半数近くいて、英語が話せない人も多く、まだドイツ人によるユダヤ人虐殺の痛手があった時代である。

そして、常時近くの茂みに隠れ、オランダ警察パトカーがきて、時々パスポートを東欧の者だけチェックしていた。

 

トレーラに全員のり、オランダのサイクリングロードを作っていく土方の仕事である。オランダでは車道自転車道歩道が緑でしっかりと分けられ、それを作ったのは 国際ボランティア集団も一躍担っているのである。

お世話役はオランダ人の若者がやり、食事を作るのは各国持ち回りである。

私はカレーライスを作ったが、英語がよくわからなかったため、ベジタリアンが3名いたので、えらく「岡部は友達じゃあない」とえらく恨まれた。肉をとっただけではだめなので、やむなくサラダだけ三人に与えた。

寝床は床に 男女の差をつけることなく、入り混じって寝ていた。大体男女隣りあわせになることが多い。

さりとて、なんの問題もおきなく、また、アムステルダムのゲストハウスも同じような感じで、いわば日本の山小屋風というようなものである。そのゲストハウスの寝床手続きは簡単で、腕にインクでスタンプをつけるだけだった。私は牛の焼き印を思い出し、逃げようとしたら、マリリーンが腹を抱えて笑ったのをよく覚えている。

ボランティアよりも、一緒に遊ぶことを重視していて、ボール遊び、離島の旅、ヒッチハイクの旅、ダンスなど、それぞれが今日は何をして遊ぶか アイデアをだし、翌日には実行される。

そして 別れがやってくると みな燃焼しつくして感動した。

 

 

 

 

 

私は最後に、パリで買った38cc原付自転車で 去った。

夢のような青春の思い出として その後50年たっても、彼らに会いたいと思うくらい燃え尽きた日々であった。

 

いかに、国際間の友愛が感動と幸せを与えるか、それを知った50年前である、

それがまたモンゴルの旅で、それは国際間だけの友愛だけでなく、老若男女を超えた友愛もまた大きな感動と幸せをうむかも味わわせていただいた。

遠く、離れて、理解が難しい同士が、互いに向き合い、そして、理解 友愛する それはどれほど、世界の理解と平和がこの世で なによりもの宝物であるかを教えてもらう。

戦争の悲惨さ、残酷さの 逆だと想像すれば、平和と理解がいかに大切なものであるか、この体験でしっかりと心身に刻むことができたと思える。

 

 

 

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