依存症からの脱却9/目的と手段をはき違える社会病

煙草やパチンコ、食べ過ぎ依存症の原因である「目的と手段のはき違え」は

社会の事業や政治にも応用できる

事業目的とその手段としての金儲けをはき違え、

政治目的とその手段としての権力をはき違え、

それらは金儲け依存症。権力依存症として、本来の事業目的・政治目的から退化していく社会病である。

大企業が本来の事業目的を放棄し、金儲けに依存し、お金の実体である「借金」に隷属して、他企業に事業の目的である魂も体も売り渡してしまう昨今も、

政府が本来の国民の命を守る目的を放棄し、財界権力に隷従して、経済目的を最優先する旗をあげて突き進んでいる現在の状況も、

政治も事業も その本来の目的は国民の命を守ることであるが、その手段である権力、その権力の手段である金儲けを、目的化させ、「国民の命」を手段化させた、権力と金儲け依存症による社会病である。

それは「国民の命を守る」目的から、どんどん退化して、「国民の命を破壊する」方向へと進んでいく。危険な原発ゴミを生産し続け、他国の戦争に加担する戦争と武器輸出を合法化し、「国民の命を守る」目的の憲法そのものを権力で改正して、「国民全体の命を守るために、一部の国民の命の犠牲もあり」という矛盾、「平和のための戦争あり」という矛盾は、「平和のための戦争は手段にはなり得ない」ことを「あり得る」という錯覚である

こういう錯覚は「多数意見は正しく、少数意見は間違い」というものである。それは「全国民の命は少数国民の命の犠牲で成り立っている」というのも同じ錯覚である。

生きるのに必要のない依存症に部類にそれらの社会病・錯覚が入る平和のための戦争は必要ないし、全国民の命を守るために少数の命を犠牲にする必要もない。多数意見を正しくするために少数意見を間違いとする必要もない。

生きるに必要のないものを目的化した依存症は麻薬中毒のように、そこからの脱却には大きな勇気と努力が必要になる。大きな勇気も大きな努力も、一人一人の小さな勇気と努力を合わせて、同じ目的の方向に力を合わせれば、できるものである。

政治本来の「国民の命を守る目的」を

金儲けとその手段の「景気回復」に目的化させてしまった

社会病・経済依存症の泥滑にはまり込んだ安倍自民党であ

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依存症から脱却8/少しの努力

禁煙や禁パチンコが成功できた私だから、ダイエットも同じような努力をすればすぐ実現できると挑戦して、もう4年目だが、未だに成功するどころか、リバウンドでして退化しだしている。

それは食欲依存症は他の依存症とは根本的に違うから、同じ方法が通用しないどころか、同じ方法を試してしまうと、逆効果でリバウンドばかりではなく、より肥ってしまうのである。

食欲依存症と他の依存症の根本的違いは

煙草もギャンブルも、生きるのに必要のないものだが、食欲は生きるのに必要あるものである

煙草もギャンブルも、一本も吸わず、一度もしないという努力で、その依存症から脱出できるが、

肥満は一度も食べないでいれば、飢えて死んでしまう。断食を3日ばかりすればすぐ痩せるが、その努力の反動でより食べ過ぎてしまうため、逆により太ってしまうのである。ストレスはバネのようなもので、強いバネを圧するとより大きな反発力が生まれるからである。

肥満は食欲依存症というより、食べ過ぎ依存症と言い換えた方がより真実であろう。

食べ過ぎ依存症は相対的なバランスの問題であって、他の煙草やギャンブルは五次元の必要あるか、必要ないか、であり、それは0か1 であり、そして、1=All である。そのため、1本=数億本も同じであるから、それを認識してその依存症から脱出できる。

食べ過ぎ依存症は相反する力のバランスを 1 : 1にするのである。

食べたい欲求1:食べたくない欲求1 のバランスを調整する。いわば、筋肉の収縮1:弛緩1

自律神経の 交感神経1:副交感神経1 のバランスである。

これらの力のバランスは車のアクセルとブレーキに例えられる。

食べたい欲求はアクセル

食べたくない欲求はブレーキ

である。この両者の調整が食べ過ぎ依存症からの脱却である

 

今日も山登りをしてきた。

下山が苦手で、滑らないようにゆっくり下山するのだが、ブレーキをかけすぎて、軽快に降りられなく、また、急斜面は大きなブレーキをかけるので、足先と靴がぶつかりこすれて、指にすぐ靴擦れを起して痛くなり、その痛みを抑えるとさらにブレーキをかけるので、より苦痛が多くなる。

今日は靴擦れを起さないように地下足袋をし、下山をするときはなぜか軽快だった。いつもはブレーキを大きくかけて、できるだけゆっくり降りるのだが、今日は飛ぶように降りていくのはまるで鹿と同じような動きだった。

いつもと違うのは、重力だけに軽いブレーキをかけていたことだ。車でいえばエンジンブレーキであり、いつもはフットブレーキばかり使って下山していたことに気が付いた。

雪道でも、強いフットブレーキはよけい滑るので、エンジンブレーキの方が滑らない、また滑った場合、滑った方向にハンドルを向けるとブレーキがかかる。

これは下山する足のブレーキと同じで、エンジンブレーキのように、重力に対しての反発するだけの軽いブレーキ(体を支えるだけ)をかけ、しかも、足の回転を止めないで、滑りそうな方向にもう片方を足を運ばせてしまうと、もし、すべった場合、尻もちつかずに、前に進んだ足の方向に体重はいく、それも滑るとしても、もう片方の足は先に進んでいる。

まさに、雪道のエンジンブレーキと滑ったときのハンドル裁きと同じ下山方法なのである。

食べ過ぎにブレーキをかけるのも同じで、少しの努力(ストレス)のブレーキをかけて、けして大きな努力ストレスのブレーキをかけないことである。そして、食べる先の内容の方向に意識を飛ばしてしまい、目の前の食べ過ぎ内容にこだわらないことである。

 

エンジンブレーキに相対するのが、ゆっくり加速するアクセルである。急発進急ブレーキは事故の元といわれるように、ゆっくり加速すると、エンストのように失速しない。また、アクセルを踏まなくても、慣性また惰性で、動き続ける力に任せると、余分な筋力や心力を使わなくてすむ。

この動き続ける慣性力を使うのがエンジンブレーキの相対する。それを引き起こすのが少しの加速力(努力・ストレス)である。

慣性と惰性は物体の動き続ける、止まり続ける、同じ状態を保ちつづける力であるが、ほとんど差がないので、私は今後ややこしいので、次のように使うことにする。

慣性は動き続ける力

惰性は止まり続ける力

慣惰性は同じ状態を保ち続ける力

の三つの使用法とする。

エンジンブレーキは惰性力、エンジンアクセル(回転力)は慣性力となり、

自然力は慣惰性力と表現できる。

 

食べ過ぎ依存症からの脱出法

 

これは食べる時は少量をゆっくりと食べるのがエンジンアクセル

ダイエットは毎日少量だけ、長い日数をかけて減らすのがエンジンブレーキ

そのエンジンブレーキに切り替える少しの努力(ストレス)と

エンジンアクセルに切り替える少しの努力(健康意識力)で

食べ過ぎないように方向調整(ハンドル)していく。

これを少しの努力ダイエット法とでも名付けてみよう。

この「少しの努力法」は病気回復や予防法、体力作りにも応用できそうである。

肥満は病気の一種であるように、病気も必要以上また必要以下になってしまった慣惰性で凝り固まった血行不良の状態ともいえるので、その状態に少しの努力(ストレス)を繰り返すことで、血行回復、血行良好維持ができる。

もし、大きな努力したり、全く努力しない時は、その慣惰性で、凝り固まった状態を保とうとする力で依存症(わかっちゃいるけどやめられない/やればできると思うけどやらないでできない)となり、病気のまま脱却できなくなる。

少しの努力は少しの勇気を奮い起こして目覚める。

必要性のある依存症は少しの勇気と努力を

必要性のない依存症は大きな勇気と努力をすることで脱却できる。

 

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依存症からの脱却7/勝っても負けても

パチンコの泥沼に入り込んだ時の心境は

勝てば嬉しくて またやり、負ければ悔しいので、またやる。

結局、パチンコ屋に儲けさせるだけで、その分損するのは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

勝てばもっと儲けられると、負ければその分取り戻さねば気が済まないので

またやる。欲望は得られればもっと欲しくなり、得られなければまた挑戦しようとする

足るを知って、そんな欲望を捨ててしまえば楽になるのは

「わかちゃいるけど、捨てられぬ」

延々と続く、終わることのない欲望の連鎖は「終わる」ことを赦さない。

ヘビースモーカーになった時もそうだ

始めて煙草を吸った時は、その苦さと不味さで、吐き出した。

でも、周りでは美味しそうに吸っているのをみると、

本当に美味しいのか? 試したくなる。

二度目もマズイと思ったが、最初ほどの苦みは感じない。頭がくらくらするが、

なぜか、また吸って試したくなる。その繰り返しをすると、いつのまにか、

吸えば心地よく、吸わないといらいらする。だが、吸い過ぎると胃がムカムカし、気分がおかしくなる。でも、吸わないとイライラする。イライラを止めようとして吸い、吸っているときだけ安心して気持ちよくなる。

24時間吸っていないと、イライラは止まらなくなる。寝ていても、煙草を吸いたくなるので、吸っては眠り、起きてはまた吸う。

禁煙すればまた喫煙前の元の状態に戻れることは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

どうしたら禁煙できるのか考えようとして

一服してから考えようとする。イライラしていたら、考えもまとめられないからだ。

何か物事に集中しようとすると、吸っていない状態のイライラは雑念である。吸うとイライラは消えるのでまた吸って考える。

イライラは吸えば吸うほど、吸わない時のイライラが強くなることは

解っちゃいるけど、吸わずにイライラは抑えられない。

3日禁煙したが失敗、1か月禁煙したが失敗、1年禁煙したがまたまた失敗

禁煙に挑戦し、失敗を重ねるほど、いつのまにか、一日3箱60本のヘビースモーカーの泥沼にはまり込んでしまう。

パチンコも喫煙も、そうして20年泥沼にはまり込んでいった。

 

そこから抜け出ることができた魔法の呪文は

「一本でも吸ってしまえば、一生涯吸わなければならなくなる」

「一度でもパチンコすれば、一生涯パチンコせざるをえなくなる」

たった一本、たった一度だけ のココロの緩みは一生涯の苦しみを選択することである。

一日一生だけでなく

煙草は 一本一生の苦しみ

ギャンブルは 一度一生の苦しみ

喫煙もギャンブルも、その泥沼に入りこみやすい性格と、入り込みにくい性格があり、

その個人差が相当大きい。私の性格はなんでもハマり込みやすい性格であり、特に煙草やパチンコは父親の影響があったと思うが、健康的な少々の煙草も、少々の遊び的なパチンコもできないタイプで、やるかやらないかの二者択一でしか、選べない性格である。

酒は両親とも飲めなかった影響もあり、酒はどんなに飲んでも美味しいとは感じないし、ハマり込めない種類である。

依存症になりやすいものの、その個人差は大きく、特に、生まれた時の家族環境も大きく影響しているように思える。

10数年前、子供が韓国ドラマ 「宮廷女官チャングムの誓い」を観ていたので、つい私も観てしまったら、その面白さにはまり込んでしまった。次の展開が気になってしようがないので、毎週それを観ないと気が済まなくなってしまった。

チャングムは終わりまでが長く、その鑑賞時間に自分の生活の多くが奪われてしまった。

それから韓国ドラマにはまり込んでしまったが、そのしつっこさ、日本の昔のメロドラマを思い起こすような、これでもか、これでもかと執拗に主人公を苛め抜き、そのイジメにまけずに立ち上がるというストリーが多いことに気が付いた。観終わった時は何かスッキリしない、重々しさが残る。

日本のドラマ1時間のストリーが、韓国では100時間のストリーになるようなものである。

韓国ドラマは中毒性が強く、時間も長く奪われてしまうので、もし第一回を観てしまったら、最後まで観なければ気が済まなくなり、多くの時間がそれに奪われてしまう覚悟をしなければならないとして、注意して、とにかく観ないようにしていた。

ところが、テレビで、韓国ドラマが多く放送されているので、つい第一回のドラマ ホジュン 伝説の心医をBSで観てしまったら、月から金まで毎朝1時間やっており、それを観なくては気が済まなくなった。42回になり、いったい終わるまで何日何時間捕らわれてしまうのだろうか、心配になってきた。しかも、このホジュンを観る1時間が生活の中心になってきて、まさに、韓国ドラマ依存症生活になるという警告が自分の経験から発せられた。

やはり、中毒も、依存症も

一回一生 のハマり込み生活である

早く自分に韓国ドラマを禁止しないと、自分の生活もココロも奪われてしまう。

ネットで、このホジュンのドラマの最終回まで一気に観られるか探してみたら、あった。

なんと、最終回は1話30分135話であり、BSでは1時間1話で、役者が違うだけの違いだった。

一気に、43回以降のストリーを観たら、なんと三日徹夜(仮寝数時間)してしまった。それ以外の予定はみなキャンセルしたのだった。

最終回はやはりなんかスッキリしなかった。いわば鍼灸と漢方で治す医療の英雄を描いた人生であるが、今の時代には自己犠牲する英雄は望まれていないし、現代の多くの問題解決への道も、そこにはなく、医療もゴッドハンドを期待する技重視では解けない問題も多い。

そして、やっと韓国ドラマ中毒から解放されて、もう二度と韓国の連続ドラマは観ないことを決意し、もし、どうしても見たくなったら、ネットで最終回まで一気に観られるものだけに絞ることにした。思うに、ドラマも映画のように、2時間で一完結するのが、丁度いいと思える。

 

前回に、「迷ったら初心に戻れ」というように、

依存症や中毒になったら、

初心にもどって、

一本一生、一度一生、一回一生 

油断一秒、怪我一生

という、現実を十分に把握することである。

それを前向きな生き方にするなら

今日一日の充実、一生涯の幸福

もまた、依存症から脱却できた時のご褒美であろう。

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依存症からの脱却6/科学って

ダイエットに関する科学的見解は実にころころ変わる

最近は、ロカボ糖質制限によるダイエットが主流で、過去のカロリーダイエットは一掃された感じさえする。

科学的と言われただけで、何かそれが真実であるかのような空気感が漂う。

だが、科学的と言われた結果の歴史をみると、まったく見解が逆になったことがけっこうある。それに科学者によっても、一人一人違い、その多数決のようなものが、その時の科学的見地の主流になってくる。

科学というのは真実を探るための一つの方法・手段であり、その手段が真実ではない。真実に至る道は科学的手段だけでなく、他の手段でもたくさんある。

これは目的と手段の図からいくと、

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

真実を探る目的は変わらないが、科学的手段を変えないと、人類は絶滅するということでもある。科学の前は宗教であった。真実に至る道を宗教的手段を変えて、科学的手段にした。だが、その科学的手段も変えていかないと、真実への道は遠のいてしまう。より真実を探る手段を発見すれば宗教的世界から科学的世界に変ったような大変革が起き、絶滅から救われ、進化へと方向転換できるように思える。

TDKのCMのジャズピアニスト上原ひとみスベシャルインタヴュー(動画6分から)

未来とは

未来とは・・今現在何をしているかによって変わるもの。何年後どうなっているかは誰にもわからないと思うのですけれど、私の場合、ピアノを弾いていたいという気持ちが強くあるので、できれば今よりももっといろいろなものを表現したいし、もっといろいろなものを弾けるようになりたいし、自分の未来に対していつも期待していたい。そのためには やっぱり今何をすべきかってことを常に考えてコツコツ頑張る

 

GENERATION

これをしたら絶対うまくいくって道はないです。なんか、それがあったら逆に知りたいというか、ただ探し当てたいという気持ち、自分がドキドキしていたい。何度も何度も同じ実験を繰り返して ちょっとずつ分量を変えたりして、なんかずっと作りたかったものが何かの偶然の一致でできたとか、ゴールを決めたいといった気持ちがあって、それでも外してしまうときも何度もあって。でもタイミングでバーと入ったとかそういうのと同じで、探し当てたいという気持ちはずーとあって、それがかなう瞬間がご褒美。自分が今やっていることはすべて自分にかえってくるということ。毎日の積み重ねが自分の財産になるし、それは毎日の小さな努力だったり、いろいろな経験だったり、そういった一つ一つが自分の血となり肉となって、自分を作っていくので。毎日出会う物事や人やそういったものすべてが、この先の自分に返ってくると思います。

努力コツコツとやること、ジャンプ台みたいなものっていうのは存在しなくて、本当に一段一段こつこつと地道に上っていくと、ときどきなんかご褒美みたいもみえるものが、目の前に広がっていて、それでまたコツコツと上るっていう。

自分がこれがやりたいっていうものが、見つけられたということっていうのは、本当にそれだけですごくラッキーなことで、やっぱそのラッキーにちゃんと感謝することというのは、その幸運を無駄遣いにしないように、ちゃんといま自分がやりたいって出会えたものに対して、ちゃんと真摯な気持ちで向き合っていくこと。そうしたら絶対10年後はもっと楽しいです。

科学も音楽も同じで、「これをしたら絶対うまくいく道はない」。

その目的に対して、その絶対的な一つの道というのはなく、たくさん道がある。

もし、手段を絶対的な一つとしてしまうと、その手段が目的にかわり、本当の目的と手段が入れ替わり、依存症に落ち込むことになる。

 

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依存症からの脱却5/意識の自由

意識は五次元、時間空間を自由に飛び越えていける。

だが、現実は4次元で、時間空間さらに知識経験権力などに縛られている

あなたが心の中で何を考えようと誰もそれを賛否はできないが、

一度口にしたとたん、その考え方に他人は賛否してしまう。

つまり、心の中の意識はどこまでも自由であり、現実の言動はあらゆるものに縛られている。

この自由な意識(5次元)と束縛の現実(4次元)は自然な特性である。

依存症は本来自由である意識を束縛された意識だと勘違い盲信してしまう病状である。

「わかっちゃいるけどやめられない」

「食べ過ぎれば苦しくなるのはわかっちゃいるけど、もっと食べることはやめられない」

この時、本来自由である意識はどうなっているだろうか?

「(止めることは)できない」という意識で満たされている。

「できない」という束縛された意識のまま凝り固まっている。筋肉の固い凝りと同じである。

だが、次に続く言葉で、依存症から抜け出られるかどうかが決まってしまう。

「ずーと、(できない)俺さ!」

「いつかは、(できる)俺さ!」

意識が「できない=不可能」に向くか?

意識が「できる=可能」に向くか?

で、病気になるか、健康になるかが決定される

科学は事実の積み重ねである。

人の意識は時間空間また生死さえも超えて想像することができるほどなんでもでき、自由である。それは自然な事実である。物語や映画ドラマは楽しく感じられるのはそれが自由な意識で語られ、また聴衆も自由な意識があるからである。

ダイエットの神が舞い降りる!

これは「できない自分」意識が「できる自分」意識に代わる瞬間である。

依存症から脱却させる神は

「できない自分」意識から「できる自分」意識に「やる気スイッチ」を点火させる。

「やればできる」という言葉がそれを凝縮している。

 

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