依存症からの脱却4

昨日、峠道から胄山を登ってきた。山頂から岩場道へと、少し下山する時、行き止まりになり、道に迷ってしまった。

山道の案内のピンクリボンが周囲にあるのに、そこには道がない。なんとか道を探そうと急斜面を昇り降りするが、見つからない。

そこで、山頂に戻って、下山道があっているか確かめることにした。

そこに標識があったのだが・・

山頂の標識をずっと眺めていたら、道が二つしかないように見えたが、もう一つあることに気付いた。それば下山道で、行き止まりだったのは展望台への道だった。以前二度も登ったことがあるのに三度目に迷うとはいささか不思議だった。

山で迷ったら、尾根に登れとか、元の道を引き返せという鉄則は合っていたことになる。登山入口で地図があったが、山頂に三つの道があるとは気が付かなかった。それは登り道と下山道しかないという思い込みが迷わせた原因でもある。

迷い道からの脱出は依存症からの脱却に応用できる

登山の時、山頂は目的であり、そこに至る道は手段である。下山の時、我が家は目的であり、山頂からの下山道は手段である。

私は我が家への下山道を迷ったことになる。その迷いから抜け出すために、迷い道という手段をリセットして戻り、別な下山道という手段を選んでことで、無事我が家という目的に到着した。

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

目的を変えず、手段も変えないと絶滅(遭難)となり、

目的を変えず、手段を変えると進化(無事)となる。

そして、手段を変える場合は、迷った手段をリセットするために、その出発点まで戻らないと別な手段は見つからない。それが初心に帰って見つめ直すことで開路を見出すというのだろう。

私のダイエットはここ一年で徐々にリバウンドする迷い道にいる。このリバウンドはどうやらダイエット目的は変わらないが、ダイエット手段も変えないでいるために起きていると思える。リバウンドしない手段に切り替える必要がある。

そのためには、今までのダイエット法はリセットして、初心に帰り、新たなダイエット手段を見出してみることで、その開路を見出すことができそうである。

 

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依存症からの脱却3

数十年前に、問題解決学という方法がけっこう流行った。

有名だったのが川喜多二郎の頭文字をとったKJ法だったが、もう一つ名前は忘れたが、その方法が実にユニークだった。

ある問題があるとすると、

「それは何の為にするのか?」

答えると、また

「それは何の為にするのか?」

と、その目的をどこまでも追及していく。

そういう問いかけをしていくうちに、最初の問題は自然と解決されていくというものだ。

気になったのは最終目的はどうなるのか?

その本には書いてなかったが、今の私には答えられる。

「生きる」のように、その目的とその手段が同じ「生きる」になった時にその問いかけは終わる。

目的と手段はスポーツ競技のトーナメントで金メダルをとる姿に似ている

目的と手段を、変えたり、取り違えたりすることで、人類の進化と退化が決まってくる

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

この「何の為に?」という目的追及は、「それは何故?」という原因究明にも応用できる

「それは何故?」を繰り返し問い、「その原因とその結果が同じ」になった時で、問いかけが終わる。「生きる(命)」のように、その原因とその結果が同じになった時が探求は終わる

「目的」→「原因」に、 「手段」→「結果」にして、深く掘り下げるトーナメント協議に似てくる。

「命」のように原因結果が同じになった時で探求が終わる

「原因と結果」が「確か」か「不確か」で、自然と依存、健康と病気になる

これらの「目的」と「手段」、「原因」と「結果」をラベルに記入して、このようなトーナメント表を作ると、問題解決のガイド図になると思える。

 

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依存症からの脱却2

体の健康が自律神経のバランスだが

交感神経力は加齢の変化、男女差がほとんどないが、副交感神経力の急激な低下が、男は30過ぎから、女は40過ぎから起きるというデータから、

緩和の副交感神経力を意識してあげることが、実際的には重要になる

交感神経レベルは加齢による変化も男女差もないが、副交感神経だけが大きく変化する

体と同じように、心の健康は自立心にあり、その自立心は自力と他力のバランスにある。

心の場合、自他のバランスは、他力の状況によって、自力を上げるか下げるかでバランス調整するのが重要になる

心の病気で最も多く、厄介なのが依存症である。依存症は他力がほぼ100%になり、自力はわずかになった状態である。

心の健康は依存症からの脱却をどのようにするかが一番のポイントになってくる。

そのポイントは「目的」と「手段」を明確化させることである。

この目的と手段は、原因と結果、因縁(間接原因とその結果)、主幹と枝葉、重要と子細のような現象にもなってくる。それらの特徴は、

一目的には多くの手段、一原因には多くの結果、一主幹には多くの枝葉、一要には多くの子細がある。

依存症が世界的な問題になっているのが神依存症と金銭依存症である。

私の場合は数十年に及ぶ神様依存症に苦しんできたので、神様依存症を例にして、その脱却方法を考察し、現在患っている食欲依存症に応用して試してみたい。

私が初めて神様依存症になったのは高校1年生の時である。

一つの疑問「何のために生きるのか?」にひっかかり、それを追及して一年たち、はっきりと答えてくれたのが、ヨガ(ヒンズー教からきた一宗教)で、「神のため」だった。それは「神になるため」という意味になっていった。

神が目的、人が手段。神になる目的の手段が、自分の修行(瞑想・ポーズ)になり、それが自分の生きる目的になった。

ここに大きな誤信が二つある。

1.「生きる目的は神ではなく、生きるそのものが目的である」

2.「神のためは、神になるためではない」

「何のために生きるのか?」

「生きる」ことは「生きる目的」であり、「生きる手段」でもあり、目的と手段が同一のもので、すでに完結した問いと答えである

「何のために生きるのか?」という問い自身の中に答えがあり、こういう問いは「迷宮入り問題」であり、次のように言い換えなければ、正しい問いにはならない。

「私はいかに生きるべきか?」

神のような抽象的な不可思議なものでなく、具体性が必要になり、またそれは「生き方」「生き模様」になってこないと、答えにくいだけでなく、答えられない。

大人が子供に

「あなたは将来何になりたいですか?」

という問いに変換しないと、答えが出てこない。それが職業であったり、尊敬する人だったりすると、自分も他人にも分かりやすい。

「あなたは一番どんな人が好きですか?」

「あなたが尊敬する一番の人は誰ですか?」

という問いに変換して具体的な答えが出るようにすることである。

私の神様依存症は「生きる目的も手段も生きることであるのに、生きる目的を神様に、生きる手段を神になる修行してしまった」ことが始まりであった。

目的と手段には、太い幹からは太い枝が何本か出てくるように、大目的、中目的、小目的というようにあり、それぞれの目的にはたくさんの枝葉がつくように多くの手段がある。

大目的=生きる 中目的=高校卒業 小目的=期末テスト

もし、当時の私だったら、他の高校生と同じような3つの目的になっていて、神様依存症にはならなかったと思える。

 

この反省を食欲依存症に応用してみよう。

「何のために食べるの?」

「お腹が減っているから」「美味しいから」「美味しそうだから」「大好物だから」

といろいろ答えるが、

1.栄養補給 2.美味しさ 3.好き

美味しさと好きは食欲依存症へなりやすいが、栄養補給は健康へとつながってくる。

つまり、

目的が健康としたら、

大目的は健康 中目的は栄養補給 小目的は美味しさ好き関係なく腹八分で胃腸保護

と意識していけば、きっとほんの少しが本当に美味しく感じ、謙虚で礼節ある食事態度になってくるだろう。

食欲依存症の脱却は煙草や酒や宗教やギャンブルのように、それらが無くても十分楽しく生きられるが、飲食の場合は、それが無いと生きられなく、それが適度の少々であれば生きられ、多すぎれば死んでしまうというという、薬のようなものであるから、バランス感覚が必要であり、断食すれば脱却できるというものではない。

自律神経バランスのように、健康と食欲のバランスが必要な依存症脱却法である。

 

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依存症からの脱却は目的と手段の確認から

食欲依存症からの脱却が最新の私の目的である。

そのために、身体的な健康について学ぶことが多いが、過去数十年は心の健康として、宗教依存症からの脱却が目的であった。

高校の親友は身体の健康の医者になり、私は心の健康の宗教家になり、半世紀の音信不通を経て、今「健康と自然の会」で目的を共有する。友人は身体の健康のプロ、私は心の健康のプロと言いたいところだが、プロではなく、心の病気患い50年者で、自分の心の健康だけで精一杯であって、他人の心のケアなどまったくできないし、したこともない。友人は先生で私はその生徒である。

身体は自律神経のアクセル・ブレーキの効き具合とバランスで健康にする。

心は自立心の自他の力とバランスで健康にする。

依存症は目的とその手段とを逆にした勘違いから起きる

例えば、アルコール依存症は健康目的とその酒手段が逆になり、酒が目的で、健康が手段になる。「酒を飲むのではなく、酒に飲まれる」状態である。

だから、健康が目的で、酒は手段であるという確認とその決断と実行をすればアルコール依存症から抜け出ることができる。

食欲依存症は健康が目的、食欲はその手段として、確認決断実行をすれば脱却できる。

例えば、玄米か白米か といった場合、旨さで選ぶか、健康で選ぶか の選択である。

旨さは食欲で、旨さを目的にしたら、白米になるが、旨さではなく健康目的にしたら玄米になる。旨いものは食べ過ぎ、マズイものは食べ過ぎない。食を薬とすれば、「良薬口に苦し」である。健康目的のダイエットならば玄米という選択にする。

旨いから食べるのは依存症、健康のために食べるのが健康である。

食べ過ぎは依存症、腹八分目が健康というように、常に、食欲を手段、健康を目的として何事も確認しながら、決断していくことで、その選択意識が、無意識選択になって、自然治癒すると思われる。

その他の依存症もまたそうである。

ニコチン依存症 喫煙と健康と対比させた場合、健康が目的だが、喫煙(ニコチン

摂取)はその手段とはならない。手段となるのは一服として、深呼吸またゆっくりと息を吸うことで、副交感神経を刺激することである。

健康を目的にするなら、 その手段は喫煙ではなく、深呼吸である。

アルコール依存症 健康を目的にするなら、アルコールは少々また一切飲まないで、ノンアルコール飲料・甘味料が少ない、緑茶やコーヒーになる。

ギャンブル依存症 健全な(社会に役立つ)事業が目的ならば 金儲けは手段である。

健全な社会生活が目的ならば、自他生活に支障がなくくらいの少しの遊びならば手段になる。また、健全な社会生活にまったく遊びとしてのギャンブルを手段にしなくても、旅行とか趣味とか他の遊びはたくさんある。

宗教依存症 目的が人間らしい生活で、神への信仰はその手段が健全である。宗教依存症は神を目的、人を手段とした勘違い思い込みが原因である。神話とか聖典とかはドラマや映画と同じで、本当のことではなく、想像を楽しむことで、豊かな文化生活が送れる。

いろいろな神を讃える祭りがあるが、その主役は参加者の健康で、豊かな文化生活であって、神様はそのダシ(山車)に過ぎないことを確認していく。政府か国民かといった場合、国民が目的で、政府が手段であるように、人が目的で、神が手段である。

また、神や仏を手段にしなくても、健康で豊かな文化生活目的の手段には科学、スポーツ、芸能、園芸などたくさんある。

目的が一つでも、その手段はたくさんあるのは、木の幹は一つでも、そこからでる枝葉はたくさんあるようなものである。目的と手段は主幹か枝葉かという判断でもある。

 

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何故自殺できるのか?

自殺は犯罪か? といったら、法によって禁止されていないし、自殺して罰せられることもないので、他殺と違って犯罪ではない。

6年位前、ある会合で「自殺を自分の自由の権利として合法化したい」という青年がいた。当時、びっくりとして、その数十年前だったか、あるテレビ番組で、ある青年が、「どうして人を殺してはいけないの?」という質問をした時は、もっとびっくりしたことを思い出した。

なんと、「命」に対しての見解が時代で大きく変遷してくるのか! とそういう驚きも重なってきた。

毎日五次元瞑想していると、「命のやりとりが良いの悪いのという問題」は消えてしまう。五次元では命が在るか、無いかの二者択一の繰り返し(点滅)があるだけで、そこに善悪の判断はないからである。

四次元以下になってくると、善悪のような相対的判断が出てくる。

しかし、自殺の善悪判断は難しい、むしろ、それは別の問題であろう。

大事なのは

人は自らの意志で、「自殺できる」ということである

これは、意志が身体よりも優位にあるということである。

病気で死んだ場合は、身体が意志より優位にあるということである。

はたして、「意志と身体」どちらが優位なのか? まさに矛盾する命題である

矛盾解決には第三者が「その意志とその身体で殺しあったらどうなる?」と問いかければいい。

その第三者こそ、「自然(現象)」である。

具体的な意志と身体で、殺し合いさせるとする。

「あと1か月の余命の癌患者が家族に迷惑かけたくないとして、明日自殺しようとした」

明日自殺は可能であるので、

「意志は身体よりも優位に立つ」が真実である。

動物はみな意志で身体を動かすことができるので、当然ではある。

だが、明日自殺する前に、今日大地震が起きて、死んでしまったら、何が優位だっただろうか?

「身体よりも優位である意志よりも自然の方が優位に立つ」がまた真実である。

つまり

身体<意志<自然

の順で優位にあるというのが真実である。

この何気ない真実には、ピンチをチャンスに、困難絶望を乗り越える力が隠されている

後一か月の癌患者の意志がその身体よりも優位であることは真実なのだから、

その人は「不治の病といわれる癌を克服して、もっと生きられる力がある」という真実なる証拠でもある。

実際に、そう宣告されても、自然治癒して長生きできている人もいることからもいえる。

 

自らの意志と身体との闘いにおいても、

「諦めた時が負けた時である」

それは

「諦めなければ勝つ」のが自然の掟であるともいえる。

 

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