命に終わりなど無い

命に終わり無し
終わりは次の段階に
進むということ

欲望にも
知識 悟りにも
感情 心にも
終わりはなく
ただ変化するということ

畑仕事も
家の掃除片付けも
雑事も
食欲性欲物欲が尽きない様に
終わりはなし

つまり
命は続いてこその
命なのだ

自我も 魂も 霊も 神仏も
命あっての存在だ
段階と変化ある命以上の
絶対的存在にはなり得ない

絶対的に観じるのは
こだわり 信心 執着するからだ
それらは麻薬 煙草 酒 ギャンブルの様に
それなしでは生きられないと
思い違い 錯覚 幻聴幻覚妄想に過ぎない
依存症として心的病いを引き起こす

そういうこだわりは捨てにくいもの
解っちゃいるけど止められない
だが 
命の段階変化する真実を
瞑想していけば
自ずと 自然と 
そんなこだわりは消え去って行く
真実を超えるどんな力もないからだ

こだわり 信心するのは
真実だけにしたほうが無難であろう

とはいえ
問題は次から次へと吹き出して来る
何故かといえば
生きているからだ
引き起こされる問題を
一つひとつ
焦らずのんびりと
先後の段階を決めて確かに
解決してゆく
それが
生きているてえ ことだ
失敗を成功に
苦しさを楽しさに
止揚していく
生きる醍醐味であろう

間引きした小松菜と晩秋にも実がなるトマト

晩秋にも熟れるトマト

定番のホース付けは392エンゲルス ねじ回し要らず水道管も潰さない楽ロック蛇口492円 進化している

長ネギを分化 生育区域を広げる

 

カテゴリー: 徒然草 | 命に終わりなど無い はコメントを受け付けていません

素人力

70歳になって

いろいろな気付きが沸き起こってきた

70年を振り返ると

どんな問題も まず自分で解決しようと試みたことが

その道の専門家にも負けない知識を得ることができたと思える、

この「まず自分でなんとかするという素人力」で次々と奇跡が起きた。

その奇跡は悟り・解決・夢実現というようなものではなく、

小さな気付きのようなものであり、独特な感性、凡人でなければできない技を得た。

これを玄人力に対して素人力と命名しよう!

三年前に、50年ぶりに尺八を吹き始めた。

15歳から始めた尺八を1年続けたが、自分の音楽才能の限界に悩み

師匠に

「音楽は才能ですか?」と聞いたら

「そりゃあそうだよ!」とあっさり言われ

子供の時から音痴だったこともあり、二度と尺八を吹くことはなくなった。

だが、50年後仕事から解放され自分の時間が持てた時

(音楽は才能ではないのではないか、好きだけで十分ではないのか?)

上手くなる必要はない

才能なんかなくていい

人に聴かせる必要もない

好きだけで十分だし

自分だけ納得させる練習だけでいい

3年毎日30分くらい続けていたら、ドレミを尺八で吹けるようになっていた

これは自分にとっては とうてい無理だと思い込んでいた奇跡力だった。

玄人には簡単なことも、素人には難題なことなのだ!

最高の玄人は生まれたときから才能を持つ神であり、

最低の素人は生まれたときから障害を持つ馬鹿である。

この差は何か?

例えば パリまで旅をするとしよう。

飛行機で半日でパリに旅するのと、歩いて70年かかってパリに旅するという差である。

どちらも、旅を楽しむのは同じである。旅の楽しみ方が違うだけである。

つまり

神と馬鹿の差は、その目的に向かって早く着くか、遅く着くかである。

そのスピードを決めるのは自分の好み、自分の決断、自分自身の自分らしさである。

人生の目的は何か?

何のために生きるのか?

人生の目的は人それぞれであるが、

共通の目的は生きるということだけである。

人生は旅とも言われるように、

人生の目的と手段は同じ旅、その旅を楽しむことである。

生き急ぐのも人生、のんびり生きるのもまた人生、

神も馬鹿も、同じ人生であり、違う人生の楽しみである。

 

感謝の言葉の「ありがとう」は「在り難し」が由来であり、

「在り難し」はそのまま「奇跡なこと」の意である。

 

どんな人もこの世に生まれる確率からすれば奇跡な人である。

どんな人生も在り難い最高の幸せを与えてくれる命の姿である。

神仏を讃え、玄人著名人を誉れることに対し、

私は馬鹿で、素人の生き方を賞賛するのを好み、選ぶ。

素人力は奇跡力であり、最高の人生の楽しみ方である。

 

 

 

 

カテゴリー: 徒然草 | 素人力 はコメントを受け付けていません

命は続いてこそなんぼや

古希になり

どう命を繋ぐか?

これが最大のテーマになった!

日が昇り起きて、

日が暮れ食事し眠る

一日の姿が一生の

朝生まれ 夜死ぬ 一生の繰り返しの姿に映る。

一日と一生の違いは自分の記憶内容と量だと観じる

一生は遺伝子情報の記憶のみで、一日は経験・知識・信念等も記憶が含まれる。

人間の経験・知識・信念は細胞の新陳代謝や科学的知識の更新のように古きものから新しきものへと移り変わる。

命とは一生涯のことで、前世 今生 来世が信じられる

転生思想も含めて とらえた方が太陽と地球にあい自然である。

つまり

命は続いてこそなんぼや

人は一人では生きていけないように、

命も続いてこその意味があり、

命を繋ぐ絆あっての 輪廻転生あっての 存在である。

人と人またこの世とあの世の繋がりとコミュニケーション

あっての命であり、生死を含めて大きくとらえてこその存在価値だ。

ー^-^-^-^-^-^

命という漢字の由来は

口+令からなり、神意をひざまづいて聞く人が由来である。

では神という漢字は

神とは

いにしえ(古き)の人の命を捧げて、新しき人の命を与える存在が由来である。

つまり

人の命は古き命を捧げて新しき命を自然から頂いてこそ

の存在があり、そこに真実と価値が見いだせる。

 

一つの命は繋がり続いてこそなんぼ 意味があるってもんだ

 

カテゴリー: 徒然草 | 命は続いてこそなんぼや はコメントを受け付けていません

自由と尊重

娘が古希70歳の誕生日に洋服をプレゼントしてくれた。

デザインは好きだったが、Sサイズで、Mサイズの私には着れなかった。

その時、買ったところでMサイズに変更してもらうよう頼んだ時、その言い方が問題あったようで、

「ありがとう」の一言もないということで、怒り出し 言い合いになった。

数時間して、ライン電話で、お互いに言い過ぎたことをわびて仲直りした。

こうした

子が親に対して何か良いことをしようとするときには、こういういざこざが繰り返される。

 数か月前にも、

嫁いだ娘が、玄関の雑草取りと部屋の掃除に来ると言ったが、私は断った。

玄関の雑草は食べられる雑草を育てており、その区別は難しいこと、へやの掃除片付けも、私がいろいろととアート作品を作るようにしてやっているので、娘の趣向でめちゃめちゃにしてほしくないからだ。

 それを納得させるために、

「自分の家とモノだけは自分の自由にさせてくれ。お前のモノだけを整理することは大歓迎だ」

 その言い方にも娘はムカッとくるようで、せっかく父親のために良いことをしようとしているのにという気持ちが強かったせいである。

こうした親子のなにげない些細な喧嘩には、

多くのコミュニケーションの大事な心と技術が隠されている。

友人・知人・隣人そして大きくは国際関係のコミニケションのマナーと技術にも応用できる。

喧嘩や戦争はお互いの信念の違いから起きる。

それが古今東西最も顕著なのが、宗教と民族闘争である。

その民族がどんな信念を持ち、どんな生活を営んでいるか? 

その違いを尊重せずに、他の民族に、自民族の宗教と生活を武力強要するときに、残忍な戦争が起きる。

親子喧嘩も 親子それぞれの信念と生活を尊重せずに、相手に言葉と感情で強要するときに起こる。

生活は信念から形成されるので、喧嘩が起こるのはお互いの信念の強要が原因である。

命ある人に絶対的な真実を求めることはできても、悟ることはできない。

そのため 信念を頼りに生きていくしかできない。

喧嘩は、自分の信念を絶対視して 他に無意識であっても、強要させてしまうときに起きる。

こういう喧嘩せずに平和に生きるコツはこの信念の絶対視を避けることである。

自由とは自分の信念を自分の生活に活かすことである。

自分の自由を守るためには、他人の自由をも認め尊重する必要がある。

他人の自由を尊重するということは

他人のその信念と生活を尊重するということである。

自分の自由を楽しむためには、

自分の信念と生活を他人に荒れさせず、自分の心に正直に生きることである。

平和な生活を営むには

自他の心の尊重と自由をまず優先して

自分の言葉と行為を推敲し、自他の信念を絶対視せずに、真実を求めていくように生活することだろう。

アルメニアとアゼル、民間人攻撃を相互非難 NATO停戦呼び掛け

 

 

カテゴリー: 徒然草 | 自由と尊重 はコメントを受け付けていません

天国と地獄

一瞬の判断ミスで

東京の友人と

私は高齢者の山梨市の特権で、150円で入湯できる温泉に行った。

いざ、入湯しようとすると、

高齢者用150円入湯カードが2019年で、古くて使えなった。

2020年の入湯カードを間違えてしまったのだ。

山梨市民は入湯が300円であり、たった150円の差であるから、そのまま入湯しようとした。

すると、

一つ上の友人が、カードを取りに帰ろうという。

「このまま高く入湯しても気分がよくないだろう!」

「帰っても、2020年のカードはすでに間違って燃やしてしまった記憶があるので

探しても、無駄だし、たった150円のために、車で往復1時間は無駄な時間tと手間になるので、そのまま入湯しよう」

この一瞬の判断が天国と地獄の差を生み出すことに気が付いた。

コロナ騒動で、温泉は入浴者制限をしており、予約制だった。

夕方6時であり、予約していない私たち二人ともう一人の三人のみ入浴できることを知った。

もし、たった150円のために、帰宅し、

その高齢者カードが見つからず、再度温泉に向かっても、

7時になり、予約制の入湯にはできない可能性が高かった。

そこで、1時間待たされるか、入湯できずに帰宅するかだったことを知った。

つまり、

150円を安くするかの判断ミスで、天国と地獄の状況が生まれることに気が付いた。

この天国と地獄の状況の差が生まれる原因は

目的が入湯することか、お金目的かという優先順位にあった。

人類や他生物がこの地球で生き抜くためには、環境に適応する判断が常に必要になる。

それがその生物種にとっての判断ミスのよる地獄か、判断正解による天国かが生まれると気が付いた。

今回のコロナ騒動の対策は

PCR検査による新型コロナ判定ミスから、地獄演出がどんどん続いており、

それは判断ミスがさらなる判断ミスにつながり、経済社会崩壊までも引き起こしそうな地獄を見せつけている。

それは、

かたき討ちのような復讐という判断ミスが悪循環を生み出すというのに似ている。

戦争と平和、地獄と天国 この流れを切り返すためには、当初の判断ミスを繰り返さないことである。

コロナ崩壊社会を食い止めるためには、PCR検査による新型コロナ感染という判断ミスを一刻も早く辞めることである。

カテゴリー: 徒然草 | 天国と地獄 はコメントを受け付けていません