健康は自律神経のバランスで決まる

耳石が身体筋肉のバランスだけでなく、自律神経のバランスまでしている。

それがどれほどの健康に影響あるのか?

その動画を見つけた

 

後悔しない生き方・・自律神経と腸内環境

******順天堂大学医学部教授の小林弘幸先生の講演***

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自律神経には車のアクセルの働きをする交感神経とブレーキの働きをする副交感神経がある。

そのバランスが健康をもたらすというものだ。

この中で、自律神経の働きを高める運動のDVDだけを紹介していたが、それが気になるのでどんな運動かと思って調べたら、

小林弘幸教授の自律神経を整えるトレーニングとCDというのがあった。

手首足首がポイントであとはラジオ体操と同じ

手首足首がポイントであとはラジオ体操と同じ

CDは

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普通の癒しの音楽で、自然が奏でる音楽に近いようだ

食事と運動と呼吸瞑想そして音楽 それが健康への切符かもしれない

 

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宇宙の自然瞑想

健康を保つ3条件は運動・好きなことをすることと瞑想である。

その瞑想で、意識を自由に宇宙を旅するにあたって、

その宇宙の真実に合わせて旅することがより自然なものになるだろう。

まず、地球の自転と公転をしっかり把握しよう。

地軸は公転面に直角から23.4度傾いている。それで、日本の四季があり、日の出日の入りの時刻が決まってくる。

北極真上からみて、自転公転とも左回転し、公転面の直角より23.4度傾く

北極真上からみて、自転公転とも左回転し、公転面の直角より23.4度傾く

月は自転公転とも左回転で、同じ27.32日周期であり、いつも同じ顔をしているように見える。

月軸は5度傾き、楕円公転などをするため、全体の59%だけいつも観える

月軸は5度傾き、楕円公転などをするため、全体の59%だけいつも観える

月が地球を公転するといっても、実際は月と地球の重力の中心が、地球中心から4600km離れたところを中心に地球と月が公転している。

太陽と地球と月の軌道と月の満ち欠けを一年を通じて感じられる動画がある

太陽も自転し、極は37日、赤道は惑星運動の影響で26日と早い

そのため、磁力線が歪み、北上方からみると、卍のようにみえる。

太陽から放射された巨大な磁気波や、コロナ質量放射などによって、地球の核は回転し、地殻移動が起こる。

それをポールシフトという。

太陽の磁力とコロナによって地殻が移動変動して地震などが発生する

太陽の磁力とコロナによって地殻が移動変動して地震などが発生する

こうした太陽系全体も銀河系を巡るので、宇宙における地球の奇跡は螺旋を描き、それは生命の遺伝子の配列にもリンクしてくるので、太陽系そのものが大きな命の細胞遺伝子にも観察できてくる。

銀河系から宇宙の果てまで どういう姿になっているのだろうか?

この宇宙の歴史を時間軸でみてみる

137億年前 宇宙の誕生

130億年前 銀河や星の誕生

46億年前 太陽と地球の誕生

40億年前 生命の誕生と進化

137億年前の宇宙誕生から40億年前の生命誕生進化

137億年前の宇宙誕生から40億年前の生命誕生進化

宇宙・銀河・太陽系・地球・生命・・・・・自我の肉体と意識が 螺旋を描きながら 絡み合い、

小さな命から大きな命、さらに大きな命、さらにさらに大きな大きな命へとつなぎ、

それが星の輝きのように一滴の命は生死をバトンしあいながら、輝いてみえてくる。

 

 

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子供はいったい誰のもの

なぜ母親が孤独と不安にかられるのか?

人類に一番近いチンパンジーは母が子につきっきりで5年間子育てをするが、孤独感に苦しむことはない

人類とチンパンジーが進化で分かれたのは700万年前、

アフリカ カネルーンのバカ族(森を移動する人)9家族55人は狩りをしたり、木の実を採取して太古の生活そのまま今も暮らし、沢山の子を毎年産む。

 

チンパンジーの子育てに費やす5年に一度しか出産できないが、人類は毎年産める進化をし、多くの子を産んで繁栄できるようになった。

しかし、育児をしながら次々と出産できる仕組みが必要になった。その育児スタイルは今のバカ族に残っている。

自分の子も他人の子も同じ家族として、預かったり、乳をあげたりして、共同養育する子育てをするのは人類だけである。

しかし現在日本の核家族率8割社会になると、その共同保育ができなくなり、母親一人で育てなければならなくなってきた。

そんなことは人間にできない。できるようには作られていない。

そうした傾向はここ100年であり、共同保育が難しい社会は人類の危機ともいえる。

 

赤ん坊の夜泣きが一番母親を苦しめるが、

夜泣きは胎児のころ、起きて活動するときに、たくさんの酸素を使うために、

昼活動する母親に負担をかけないよう 夜間に目を覚まして酸素をとりいれる。

それが生まれてからも、残っているために夜泣きをする。

夜泣きするのは人間だけ、700万年前人類が二足歩行をしてから、骨盤が狭くなり、頭も体の小さいときに産むようになった。

そして、主産後も10年もかけて成長していくようになった。

それが、夜泣きなどの不可解な行動がおこされるようになってきた。

 

2歳から始まるイヤイヤ期は、自分の欲求を我慢できずに、暴れたり、大泣きしたりする。

我慢できる抑制機能は脳の前頭前野にあり、欲求は脳の中心分野で生まれる。

まだ前頭前野の脳が発達しないと、自分を抑制できないので、イヤイヤが起こる。

前頭前野の発達は思春期までかかると知れば、どう子と対処していいかが解る。

母性は経験の中でゆっくりと育ってくるもので、本来あるものではない。

 

妻が夫にイラつく理由がある。

出産時、子宮を収縮させたり、産後授乳のため乳腺を収縮させるため、

脳下垂体からでるホルモン オキシトシン は筋肉を収縮させる作用がある。

オキシトシンは我が子やパートナーねの愛情を深める作用と同時に、攻撃を強くする作用もある。

オキシトシンは愛情や絆を邪魔する相手に対しては攻撃性を強める働きをする。

たとえ、夫でも育児に非協力的だと攻撃の対象になり、夫婦関係の破たんを招くことがある。

それは自分の子供を守るための戦略でもある。

 

人類は進化して、本能的に共同保育で繁栄してきたが、

現代日本の母親環境はその進化を退化させているために大きな事件や事故が起きている。

 

一体子供は誰のものだろうか?

それが母親や夫婦もものではなく、まわりの社会全体のものという人類進化の意識があったなら

金持ちの子と貧乏の子の区別も、正妻の子も、愛人の子の区別もないし、

まして父母による児童虐待も、待機児童問題もないだろう。

母親が不安と孤独に陥るのは、人間らしい、共同保育への導きであるともいえよう。

 

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健康にはバランスが不可欠

なんだかんだと、人生最後のテーマは「健康と自然」に落ち着いてきた。

少年の頃の「なぜ生きるのか?」というのが最大のテーマだった。

その答えは・・「カッコに入れて(Xに代入)」、先ず生きてみて、得たのが「生きる目的は生きる事」だった。

さらに、「ただ生きるより戦って死ね」なのか、「戦って死ぬよりただ生きる」のか?の選択に

迷わされて、選んだ道は「戦って死ぬよりただ生きる」であった。

それは「魂よりも自分の肉体」であり、「他の命より自分の命」であり、「短く生きるより長く生きる」ことである。

そして、それはどんな人間にも当てはまることができるので、「他人を殺して自分が生き残る」という選択はありえなく、「自分も他人もより長く生きられる」という選択だけが残され、それが健康と自然である。

自分や他人を生かすも殺すも自然のなすことで、その中で、自分も他人もより長く生きられる道を生きるのが健康ということである。

では、あのロープでつないだ二人が崖から落ちて、そのロープが二人しか支えきれないと想定した場合は上下となった二人はどういう判断をするかというのが、昔からの「愛かエゴか」という選択になる。その選択は、線路に落ちた人を助けようとした時とか、救急隊にも判断せざるをえないことがある。

その場合、二人とも長く生きられるようにギリギリまで選択、実行し、それ以外の選択は自然に任すことである。崖から落ちた二人ができることは二人が同時に助かる道だけを考え、それ以外の行動(どちらかのロープを自分で切るような)はしないで、そのロープが二人を支え切れるか、支えきれないかを決めるのは自然であり、それを想定する人間ではないということである。

それは自分を殺してでも、他人を助ける行為とか、他人を殺して自分が生き残るという行為というのは、愛であり、エゴではあるが、どちらも健康的な人間ではないと判断できるということでもある。

 

宇宙への旅の目的も、誰でもが長生きできる健康が最大のテーマになっている。

テレビ番組ガッテンも 不老長寿を追いかける

無重力で生活すると、1.筋力低下 2.骨密度低下 3.循環機能低下 4.免疫力低下 5.代謝異常(脂質・糖)が起き

重力がある地上より10倍の速さで老化する。

宇宙飛行士が、一日3時間運動をしても、その老化は避けられない。

それは運動よりももっと重要なことが重力を感知するのが耳石である。

耳石は重力の動きによって、前後左右高低を知覚する。

耳石は体全体の筋肉と繋がって(信号が伝わる)おり、無重力状態では浮いてしまい、体の一部の筋肉を鍛えても、全体の筋肉としては他っていられないほど低下する。

これは個々の筋肉を鍛えるスポーツよりも、古武道のような重心(丹田)を中心にした全体の筋肉バランスがより重要な健康法であるともいえる。

座り続けると耳石が動かず、1時間座り続けると22分老化が進む。

糖尿病や心臓病のリスクが高まり、がんのリスク増加、遺伝子異常で早死に、認知機能の低下、骨密度の減少、免疫力低下、血しょう量減少、反射の異常、倦怠感、むくみ、インスリン代謝異常、ホルモンの減少、関節痛、尿失禁、背中が曲がる、脂質代謝の異常、失神、睡眠障害、抑うつ、血圧調節の乱れ、持久力の低下が起こる。

耳石は目とつながり、また

全身の内臓や血管の働きをコントロールする自律神経ともつながっている。

耳石が動くと、自律神経が火パpつになり、心臓の働きや血流がよくなる。細胞の働きもよくなり、脂肪やコレステロールがたくさん消費され、

NASAが一日に座って立つ回数が32回が一番健康的とわかり、起きている時間16時間を32回で割ると、30分に一回が起きるのがいいとのこと。

これを一週間続けると、中性脂肪15%減、悪玉コレステロール5%減、善玉コレステロール11%増というガッテン実験が得られた。

 

こうした人っを健康へと導く重力バランスを保とうとする耳石は、社会を維持する金銭にもいえて、金銭の支出と収入のバランスを保つ動きが活発になるほど、健全な経済社会を保てるということだろう。経済格差が拡大すると、それは社会全体が病気して崩壊してしまう聴講ともいえるのである。石川五右衛門のような金持ちから貧乏人に金銭が流れていくようなバランス耳石金融システムがあってこそ、強くて快適な生活環境が保てることになる。

 

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無とは何か?

一体 死んだらどうなるのだろうか?

なにもかも無くなってしまうのだろうか?

人は死んで焼かれても、それは灰と水と二酸化炭素など、地球上の土水火空気に変化するともいえる。空気なんかは見えないが、窒素酸素二酸化炭素など存在している。それは風が吹くことによって感じ捉えることができる。

人間も物質ではあるから、それは質量を含めたエネルギー保存の法則が成り立つともいえるので、人は死んでも何もかも無くなるのではなく、別なモノの変貌するといえるだろう。

では、存在と無と対比した場合、無とは何であろうか?

平面に縦横の栓を引くと、その始まりと終わりは書き手の人間が勝手に決めているが、直線を無限に延長したら、実際はどうなるのだろうか?

地球は丸く、経度と緯度の線となり、始まりと終わりは結ばれ、同じ位置になる。しかも、経度線と緯度線の始まりと終わりは北極と南極では結ばれ、同じ地点になる。

つまり、どんな直線も無限に伸ばすと円となって、起点と終点が同じになる。

それを立体的な縦と横線に、高さ線を追加し、その三線が円として起点終点が同じ地点になるという形を作ってみる。

縦横高さの起点終点が同じ点になる三つのドーナツ状体

縦横高さの起点終点が同じ点になる三つのドーナツ状体

もし、時間軸を入れた四次元で同じ地点で交わるには ドーナツを四つ合わせてみれば可能である。

宇宙の姿をみると、

月は地球を回るドーナツであり、地球や他の惑星は太陽を廻るドーナツであり、太陽は銀河系を巡り、銀河系は小宇宙を、小宇宙は大宇宙を巡ると想定でき、宇宙の始まりと終わりも結びつき、同一点になるともいえる。

無限とは直線が円として結びつく知覚であるといえる、

そして、

無は何もないのではなく、それおれの起点であり、終点でもある基点だといえる。

例えば、ここに「そのコップが存在する」と、

「そのコップが無い」とは「そのコップがその地点から移動する」か、また「そのコップが壊れて別なカケラ形になる」というだけで、そのコップという概念も素材もまったく無くなったわけではない。

人が死んでも、それが灰に変化し、その想い出が残るのもそのためである。

ある者は死んでも、ある者は生まれてくる。地球上の生物が全滅しても、新たな生物が生まれてくるのも、地球の数億年の歴史でもある。星は爆発して死んでも、また星は誕生する。

この世界宇宙のどこにも「まったく何も無い」状態はなく、その「無の状態」というのは数字でいう基点となる「0 、ゼロ」のことである。また無限も「0+0=∞」であり、それはやはり起点と終点となる基点にすぎない。

この宇宙世界に絶対的存在はありえないように、絶対無などはなく、それがあるといえるのは、「存在する始めと終わり」と基点として仮定できるということである。

絶対的存在を神と仮定できるように、絶対的無も基点終点としての基点として仮定できるというもので、どちらも実際に実存また実無しているわけではない。

 

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