生まれかわる私への手紙

やっと子育てが終わった。

まるで、鮭のように生まれた川を遡って卵を産んで死んでいく親のようだ。

生死は時間からみれば、繰り返す波のよう

生死は空間からみてば、表裏が廻る点滅信号のよう

宇宙の星がきらきらと輝く姿が生死の点滅のきらめきのよう

あと、10年くらいで寿命がやってくる

死出の旅路を準備する年月になるが、

それを、この宇宙自然の摂理に合わせると

生まれかわる旅路の準備年月になってもくる。

そして、

肉体が消えても、すぐに新しい肉体が生じるのが真実である

肉体は自我であるから、自我も肉体の細胞のように新陳代謝する。

死んで永遠に眠り休むことなんかできないという寸法で、

生まれた瞬間から死んでいくように、

死んだ瞬間から生まれていくのが、どうあがいても真実である。

宇宙の星の一生のように、人間の命の一生も同じく、リンクしている

私も残された寿命の10年を この宇宙と命の摂理に合わせて

生まれる準備をしていこうと思う。

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生まれかわる準備

死んでいく自分が生まれかわる自分と一番関係深くできる設定をすると

二人の娘の子か、その孫として、生まれかわると想定しておけば、案外設計しやすくなる。

どの子やどの孫の一人になるかは想定しにくいので、次ぎの世代に生まれかわる準備

・環境を整える気持ちがいいだろう。

 

戦争や飢饉が起きても、負けずに生きていけるくらいの環境を整える。

最低でも、平和憲法を守れるように、また原発は一日でも早くやめて、自然エネルギーに変換できるように、

お金が無くなっても生きていけるような畑を作っておくようにしたい。

戦争と原発とギャンブル貨幣は自爆テロであり、それに巻きこまれないようにする環境と精神DNAを残すようにすることが必要だ。

昔の人の伝記や思想を読むと、その意志が伝わってくるように、

それが言葉であれ、モノであれ、行為であれ、次の世代へと生き抜く力としての意志を伝えることだ。

それは生まれかわる私あての手紙を書くという想定がいいかもしれない

 

 

もっとも、前世の記憶を死ぬ前にまとめておくのもいいかもしれない。

それはまれなので、生き抜く知恵を精神DNAとして残せるようにした方が役に立つだろう。

 

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なぜ戦争するのだろうか?ひょっとすると?

人類誕生から2050年までの世界人口の推移(推計値)グラフ

世界の人口の推移1

出典:国連人口基金東京事務所ホームページ

人口が多い主要国の推移予測をみると、ここ100年の人口は爆発的に増えたが、それも2050年にはピークを迎えるだろうと思われる。

戦後の各国人口推移1

日本やロシアやドイツは数年前より減少しだしている。

そして、

地球的規模で、人類の人口をみた場合、その増加率をみることで予測がしやすくなる

世界人口増加率1

世界の人口増加率をみると、1950年ころから減少し、2100年には、ゼロに近づく。

世界人口は、増加率に比べて、100年遅く2050年に減少すると思われる。

人口増加がピークに達したときは、第一次、第二次の世界大戦があった時である。

人類が平和を望む時に、人口は減少していくともいえるかもしれない。

人類が他の生物と同じようであり、人間の寿命のような生死があるとすると、

人類誕生から、人口増加減少する2050年をピークとして逆転させてみると、

世界人口単純自然予測1

3100年には世界人口は5億人にまた落ち着くことになるかもしれない。

世界の戦争と格差は2050年まで続くが、

2050年以降は平和と分かち合いの社会がやってくるかもしれない。

資本競争社会は自然共生時代へと変貌していくことが予想できる。

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いつか死ぬということ

人は死ぬと ”千の風になって吹き渡る”というが

その一吹きでも、本当に 亡くなった人の魂を感じられたことがあるだろうか?

人の魂は風ではなく、その人の想い出に感じられるものだ!

その人の想い出はいま生きている人たちだけが感じられる。

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数年前から ”腐るお金”を探求してきた結果、

”腐るお金”とは、税金のことだった!

私のお金が公のお金になることが、お金が腐るということ。

公がお金を発行、私に貸し出して、税として公に回収し戻して、またそれを貸し出す

その公私の繰り返しが、お金が廻るということである。

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お金のように魂は死なないで不変である。

お金が公私の繰り返しのように、

魂は生死の繰り返しを、公私のように廻るともいえる。

公の魂とは小さくはその家族であり、大きくは地域、国、そして人類全体にまで広げることができる。

私の魂とは一個人の肉体の一生を指す。

人の魂は一個に肉体に宿って生まれ、一生を終えて死ぬと、

魂は家族や友人、地域や国や人類の想い出として、残るというより、生まれ変わるといっていい。

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”千の風になって” を ”千の想い出になって” の替え歌にすると・・・

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません、眠ってなんかいません
千の想い出に
千の想い出になって
この大きな世界を
ずっと生きています
秋には笑み一杯で、柿を頬張り
冬は雪かけあい はしゃぎまわる
朝は大声で おはよう!と目覚めさせる
夜はやさしい小声で お休みと囁く
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の想い出に
千の想い出になって
この大きな世界を
ずっと生きています
千の想い出に
千の想い出になって
この大きな世界を
ずっと生きています
この大きな世界を
ずっと生きています

想い出は細胞のDNAとして、遺伝し、また学習・適応されて、配列が置き換えられえる。

人類を導くのは想い出であり、魂である。

想い出は魂として、次の人類に引き継がれ、学習され、生き抜く力となる。

その人の死は、その人の生まれ変わりであり、人類へのバトンタッチという儀式でもあろう。

 

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死んでいるということ

”生きているということ”の反対は”死んでいるということ”だが、

元の谷川俊太郎の詩を 反対のタイトルを”死ぬ”にしてみれば・・・

 生きる <谷川俊太郎>
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと
生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
 死ぬ<谷川俊太郎ではない>
死んでいるということ
いま死んでいるということ
それはのどがかわかないということ
木漏れ日がまぶしくないということ
ふっと或るメロディを思い出さないということ
くしゃみをしないこと
あなたと手をつながないこと
死んでいるということ
いま死んでいるということ
それはミニスカートでない
それはプラネタリウムでない
それはヨハン・シュトラウスでない
それはピカソでない
それはアルプスでない
すべての美しいものに出会わないということ
そして
かくされた悪を注意深くこばわないこと
死んでいるということ
いま死んでいるということ
泣けないということ
笑えないということ
怒れないということ
自由でないということ
死んでいるということ
いま死んでいるということ
いま遠くで犬が吠えないということ
いま地球が廻っていないということ
いまどこかで産声があがらないということ
いまどこかで兵士が傷つかないということ
いまぶらんこがゆれていないということ
いまいまがすぎてゆかないこと
死んでいるということ
いま死んでいるということ
鳥ははばたかないということ
海はとどろかないということ
かたつむりははわないということ
人は愛さないということ
あなたの手のつめたさ
いのちがないということ

左右交互に朗読してみても、けして可笑しくない詩である

そして 最後にこう付け加えれば この詩は治まる

あなたが いま 死んでいるということ

それは

あなたが いまいま 生きていないということ

もし、あなたがいま過去にとらわれていたら、あなたはすでに死んでいるということ

もし、あなたがいま未来を憂えていたら、あなたはすでに死んでいるということ

いのち とは

生きていることも、死んでいることも、両方含まれており、

生と死は表裏一体で存在し、それらは片方を否定することで、表裏が入れ替わる。

また、現実には

生きているというのは今でしか確認できない

過去はすでに無く、未来はまだ無いので

いま生きていないのであれば、いま死んでいる状態だともいえる

理論はそうだが、何か納得がいかないのは

これは言葉と心だけの想像であり、現実の肉体のことが想定されていないためである。

次に 現実のこの肉体について 考察してみよう。

 

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祈りの科学

白鳥哲の映画は「不食の時代」で衝撃を受けたことがあり、昨年では「蘇生」が発表されている。

蘇生の予告に、「琉球大学の比嘉照夫教授が微生物で放射性セシウムが75%も減った」とあり、本当かどうかネットで調べてみたが、どうも怪しい。

不食を実際10日間行ったが、とても持続できるものでなく、失敗した経験がある白鳥哲監督の祈りの実験が本当かどうかは怪しいことは想像がつく。

祈りそのものが、実証できないので、それが科学とは言いにくい。

「祈りの科学」というより「祈りの似非科学」と言った方が正確であろう。

だが、「嘘も方便」というくらいだから、その使い方によっては、「事実より行動させる力があり」、その結果が良否あるが、有効であることは間違いないであろう。

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「自分には祈ることしかできない」

「最後の神頼み」

という言葉があるように、為すすべがなくなってしまったときに、最後の最後にかける渾身の力が祈りとなることは真実であろう。

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祈りとは何か?

漢字の語源から考えると・・

祈り・祷り・禱り

「示」へん+「斤」「寿(寿)」つくり

  示1  上の「一」はものを、下部はものを乗せる高杯の象であり

高杯にものを乗せて「示す」というのが、現在最も有力な説

他説に、「示」は「光」の変字だとするものがある

不3 」は高杯の上にものが無いので「あらず」の意とされる

(但し、「不」は甲骨文などから「つぼみ」の象形とする説が有る

斤・斧(己)

斧1 名詞は木を叩き切ったり割ったりする道具の斧

代名詞は「己」で、一人称

その人またはそのもの自身のことをさす

寿・壽

寿1 (老人)」+音符「??(トウ、「口」は後に挿入、神器の意とも)」

「?」は長く続くあぜ道で「」の原字。老人が長く生きる

長生きであること。長生きの祝い。めでたいこと

(長く声を出して祈る)」などにその意が残る

 祈りの語源から推察すると

「己の長い一生の意志を示す」

という意味になるだろう。

古語日本語の「いのる」の語源は「」(斎) + 「のる」(宣る)であり、

斎・斉

斉1 形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形

(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(「祖先神」の

意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や

行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する 

宣る・告る

 宣る  告げ知らせる。述べる。口に出して言う

本来は、神や天皇が重大な事実を宣言する、

また、みだりに言うべきでないことを表明する意で

後世は「名のる」に残存する

「神様に捧げる」「神様に誓う」「神様に感謝する」などになるが、

「祈り」の意味からすれば、むしろ

「い・・」は意志の「意」であり、それは己(自分)の意志のことであり、

「・・のり」は 「法 規 憲 則 典」であり、誓いや信条に当たる。

「・・・のる」は「乗る 載る」で、自分の意志に乗る(従う)という意味になり、

祈り=意則 祈る=意載る 

という感じになるだろう。

通常 祈りとは神さまへの願いの意味ではあるが、

その神さまというのは「自分の一生を支える意志(信条)」のことであり、

神さまへの願いというのは、「自分の一生の意志に従って生きる力(技・言葉・法)」であるといえよう。

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最近、洋式トイレをどうしても汚してしまう「立ち小便」を止めて、大小便とも、座って行う習慣が慣れてきたら、トイレの悪臭は無くなり、快適になってきた。

これは「トイレを常に清潔に保つ」という自分の意志に従った習慣行為によって快適な一生ということである。

「トイレを常に清潔にしたい」というのが「祈り」であり、その祈りを叶える習慣の変化が「祈りの技・力・知」といえよう。

 

これはダイエットにもいえる。

「一生健康な体でいたい」というのは祈りであり、

この祈りを叶える習慣・技がダイエットである。

「美味しいものをたくさん食べたい」ことは一時の願いであり、「健康な体で一生いたい」は一生の祈りであるので、似ても否成るものである。

「神様」を「一生」という言葉に代えた方が「願い」から「祈り」となって、強い力がでて、それを実現しやすくなる。

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祈りを神様ではなく、一生に換えてみると、

信じる神様や思想や国や民族の違いがあって戦争になったとしても、

お互いの一生の祈りが「平和」であることが多く、

もし共通していれば、

神様や国や民族の違いを乗り越えて、

戦争をせずに、お互いの平和を実現しやすくなる。

それは

敵味方の共通の永い平和への祈りがあれば、必ず一時の戦争をやめ、永い平和を実現することができる

ということである。

 

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