稲の種播きが終わって

昨年は麦刈り後、マルチに稲の苗を植えたが

今年は昨年のマルチを使って穴に稲種を播いた。

見事に芽を出した。

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6.1に麦刈り後稲種播き芽を出した6.30撮影

麦刈りした後に、稲の種を播いて成長するかどうかを今年は試した。

それで成長することが解り、麦と稲の自然な二毛作は可能であると証明できたようだ。

稲種は4月初めに浸水させて、苗を作り、その苗を麦刈り後に植えるので、

麦が実り、稲が芽を出すようにする自然二毛作はできないと思っていたが、それが可能であると解った。

ただ、雀とハトがたくさんやってきて、播いた種籾をみな食べてしまうので、その対策をしない成長できないと解った。それは来年に鳥対策した直播方法を試すようにしたい。

直播する稲種は浸水させなくても、そのまま播いても同じように成長することも解った。陸稲は種を浸水させる必要がない。種播き後水をあげればすむことである。

昨年採れた稲は実が少なくて、成長できないと思って、同じトヨカモチを20キロ購入したが、その心配は無用で十分、実が小さい稲でも十分生長できることもわかった。

稲の種の成長には鳥対策だけでなく、土に肥料を十分にあげておかないと成長しないようだ。

麦も稲も、その種も、肥料を十分にあげておかないと、成長も、実も小さくなってしまうことも解った。

鶏糞や藁だけではまだ土が肥えないようで、牛糞を十分にまいて、土を改良させて試すことにした。

鳥や肥料対策をしておかないで、稲の直播で成長できるのは10分の1くらいであった。

そうした失敗をしたときのため、苗をたくさん作っておいたが、それも足りないくらいだったため、

ビニールシートで、鳥対策して、播いた種がたくさん成長したものを、苗として他に広く移動させた。昨年の種籾はみな使ってしまい、新たに苗を作れなかったためである。

その苗を植えるさい、牛糞を使うことにした。

梅雨に入っても、曇りばかりで、ほとんど雨が降らないので水揚げも必要になってきた。

なにかと、自然農法は生き残る確率が低いというか、

かなりの試練をうけて、成長できた作物だともいえるかもしれない。

 

 

 

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生きるそれ自体が最終目的である

物事の意味を問うたりする時

「それは何のために?」するのかと、繰り返し問いかけることが

その物事を整理して考えることができる。

例えば、

稲の種籾を撒くとすると、

それは何のために?

お金を得る為!

それは何のために?

食べるため!

それは何のために?

生きるため!

それは何のために?

生きるそれ以上の目的はない!

生きることが最終目的である!

そして、物事の意味と価値の重要度は最終目的に近いほど大きくなる。
麦が実った

中学生で自我に目覚めた時

「何のために生きるの?」

と、悩み続けたことがある。

それは生まれ出ずる悩みのように

その答えが出ずに、ノイローゼになり、精神病院に数ヶ月入院したことがある。

当時、数学が得意だったので、問題をとくコツを答えが出ない数字をXとして代入して、数式を書き、それを計算していくと、最終的にxが何かが解ることを応用した。

「何のために生きるの?」

という答えをXに代入したのだ。

「とにかく今生きていれば、いつか必ずその答えが解るはずだ!」

それから半世紀生きてきて、

そのX・・・「何の為に生きるのか?」

が解った!

「生きること自体が目的であり、それが最終目的である」

と!

「何の為に?」という問い自体が成立しない、問題提起そのものが間違っていたと判明した。

では

「何の為に死ぬのか?」という問いは成立するだろうか?

上記の写真は麦が実り、枯れていくーつまりー死んでいく姿である。

麦はこう答えるだろう!

「また多く生まれ変わるためだ!」

と。同じ命を持つ人も同じ答えを見出すだろう。

「また生きるため! 」

それが最終目的であり、死ぬ目的とはまた生きる為なのである。

 

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小さな幸せ 見~つけた

ほんの小さな嫌なことがあると それがいつまでも気になって 一日が最悪になるときがある。

逆に、ほんの小さな嬉しいことがあると それがいつまでも余韻となって その一日が最高の日になることがある。

どちらの内容も、他人にとっては 興味もなく、つまらぬことではあるが・・・・

そのほんの小さな出来事で、その人が一喜一憂していることには、大いに共感し、同じような気持になることがある。それがドラマをみる聴衆にもみられるのだ。

「小さい秋見つけた」の唄は、

紅葉の葉が赤くなって秋がきたんだという喜びを歌にしたものだ。

紅葉が赤くなるのは毎年のことだし、珍しいことではない、

桜が咲くのだってそうだが、人はこんな珍しくもない些細なことに大きな幸せを感じる。

私たちの一生だって、ほんの小さなことを成し遂げただけでも、その人生全体が大きな幸せになれる。

それはつまり

大きな目的を成し遂げなくても

ほんの小さな目標を成し遂げただけでも、

同じ大きな幸せを感じることができるということではないだろうか。

幸せというのは個人個人みな違うというが、

それはきっと、小さなことにどれだけの喜びを見出すか?ってことではないだろうか!

ほんの小さな幸せも、とても大きな幸せも、本人の気持ち次第で同じ幸せを感じるってことだろう。

 

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生まれ変わりを信じる者は救われん

10代の頃、近くの教会の信徒になろうとした時、パブテスマ(洗礼)を受けるにあたって、信仰告白をしなくてはならなかった。

洗礼をヨハネから受けるイエス2

その信仰告白の内容は

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、
教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、
救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、
三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために
人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、
我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。
この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、
その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。
教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。
教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、
バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、
全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、
永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。

「イエスが蘇った」ということだ。科学教育を受けた者にとって、人間が死んでまた生き返ることも、永遠に生き続けることができるということも信じることはできない。だが、どうしても信じることができなかったことが

そのため、キリスト教信徒になることはあきらめた。

それから50年後の今、また、この蘇りの問題が起きた。

イエスは私たちと同じ人間であり、イエスだけ蘇るということは信じられないが、どんな人間もみな蘇ることができるということは 毎年麦の芽が出て、花を咲かせ、実り、そして枯れて種を残し、翌年また芽を出すという姿を見るかぎり、人間も植物と同じ命の産物であるのだから、素直に信じられることである。

ただ、問題はイエスか私か、その他何十億の人間の自己が完全に蘇るかというと、時間を戻せないように、昨年の麦の種と今年の麦の種の微妙な差こそあれ、まったく同じ種は生まれ得ないことは確かだ。

だが、そんな自己の極微の差など、問題視するほどのことではなく、そっくりそのままで、生まれかわった自己として承認してもいいのではないか、また、生まれかわると信じてもいいのではないだろうか。その差が微妙だから、むしろ、生まれかわらないと信じるよりははるかに真実に近いといえる。

基本的人権はすべての人間に必要であるとする法律のように、自己の生まれ変わりを信じた方がより人間らしい判断ができる社会生活を営むことができるだろう。

「イエス・キリストを信ずれば救われん」ではなく、

「自分を信ずれば救われん」であり、

自信を持って生きることが救われることになるといえるだろう。

 

いろいろな宗教があり、それらの言葉や経典を信じても、逆に迷信と盲信により、殺し合いにまで発展するほどの苦悩と悲惨に巻きこまれることが古今東西で証明される事実でもある。

大事なことは「何を信ずれば救われるのか?」である。

賛美歌424番

「ただ信ぜよ、ただ進ぜよ 信じる者は誰も皆救われん」

信ずべきはイエスでも、神でも、仏でもなく、

「人は誰も皆自己を持って生まれかわっていく」

「愛する人を失ってしまっても、また生まれてこの世に帰ってくることを」

「自分が死んでも、また、すぐに生まれかわって、赤子からやり直しことができることを」

「どんなに失敗し、命を失ったとしても、また成功するために、蘇ってくることを」

信じて、けして疑わなければ、

必ずその人は救われて、幸せな生活を過ごすことができるだろう。

 

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矛盾からのシンプルな脱却方

ここ一年、成功したダイエットがリバウンドしないように毎日挑戦してきた。

だが、結果は努力すればするほど、7キロもリバウンドした。

一昨年はダイエットの挑戦して、19.5キロも痩せたのに、

どうして同じ努力をしているつもりなのに、逆に太っていくのか?

この矛盾がどうにも不可思議だった。

「挑戦すれば必ず成功する」と信じて、一昨年は成功し、昨年は失敗した。

はたと、気がついた!

身体は嘘をつかないが、心は嘘をつく。

昨年は挑戦していたつもりでも、実際は挑戦していなかった。

私の心(=意識=言葉)は身体に対して、痩せる挑戦をしたと嘘をついたのである。

「糖分と炭水化物を今日は摂らなかったが痩せずに太った」というように、食事量を食事内容に置き換えて嘘をつき、あたかも挑戦し努力したのに、失敗したかのような、言い訳、それは嘘の嘘の上塗りみたいになり、それがストレスとなって、さらに、嘘をついて、自己弁護してきた。

挑戦したというのは、食事の量を減らし、運動を増やしたという行為であって、そうしたいという希望が挑戦ではないのだ。実際の行為が、食事の量が増え、運動が減れば、挑戦したのではなく、挑戦から逃げたのである。

「心技体」という武道がある。

心と体を一致させ、その一致させる知識が技である。

ダイエットしたい心と健康な身体を一致させるのがダイエット知識・技である。

心は身体に従い、身体は心に従う。両者は同格にして、上下なし。

心と体が上下関係になったり、離れたりすると、両者は一致しようと働きかける。

身体が病気すると、心が健康へと働きかけ、

心が病気すると、身体が健康へと働きかける。

両者が健康に一致した時に、充実した幸せが生まれる。

心の核心は神仏であり、身体の核心が自我である。

神我一体という心境は、心身が一致した状態であるともいえる、

自然や社会は自分の心にあたり、個人は自分の身体にあたる。

自然と社会の心がそのまま自分の身体に受け入れられ、

自分の身体が、そのまま自然や社会に受け入れられる環境が健全であり、

最高な幸せな生活であるといえよう。

知識を得ようとすることが重要ではなく、自分の身体を自然や社会の心と合わすことが真の知識・技術・悟りであり、それが重要なのである。自分が自然や社会の上でも下でもなく、離れて存在するのではなく、常に同格であり、一致しようと言う「動きが知ることであり、生きること死ぬことであるということだ。

矛盾や苦悩が起きるのは心と体、自然と人間、神仏と自我、社会と個人の関係が、上下になったり、離れ離れになたりするからである。

物事は実にシンプルであり、心と体、自然と人間、神仏と自我、社会と個人が一致しようとする行為が生活するということであろう。

 

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