自由と社会、どちらがより大切か?

娘が新入社員となり、なかなか営業成績があげられず、

日曜となると、明日仕事に出かける月曜が重荷になるという。

よほどの重荷だったのだろう、ストレスが大きな原因と思われる

胃に1センチの穴があく胃潰瘍になり、一週間入院した。

同じ同期社員がどんどん成果をあげるが、娘は3か月もたっても一つも成果をあげられなく

その劣等感にもさいなやまれていた。

 

仕事が苦痛になるか? 楽しくなるか?

これは どう仕事をするかに大きくかかわってくる。

それはまた

自由と社会、どちらが大切か? という問題でもある。

 

陸稲を昨年は穴の開いたマルチシートに苗を植えることでうまくいったが、

その作業が大変だったので、今年は苗ではなく、種をマルチの穴に播くことにした。

7センチの一つの穴に掘って30粒くらい適当に播いていたが、どうしても穴から零れ落ちてしまうが、

気にせず、どんどん進めていった。

昨年は麦刈り後、苗植えを2か月ばかりかかったが、

今年は半月で、やり遂げた。

だが、10分の9の種は生育せず、あわてて用意していた苗を植えたが、

その苗も二度も失敗し、種籾もなくなり、あわてて、小粒大豆種を農協から取り寄せ

死滅した種や苗のマルチの穴に播くようにした。購入できた種が4キロしかなかったので、

一つの穴に2粒多くて3粒播き、しかも一つ一つの穴にしっかりと水あげながら、

一粒もこぼさないように、時間も仕事量も気にせず、丁寧に丁寧に播いた。

それはとてつもなく時間も労力もかかったが、きれいな仕上がりにすることが楽しくなっていた。

そして、三日もすると、2粒の小粒大豆は芽を出して、その姿は可憐で恋をしてしまうほどだった。

しかも、90%は成長している感じがした。

もし、陸稲の種籾も、一つの穴に、3粒~5粒ほど、丁寧に水あげしながら行っていたら、三度も大きな失敗をしなくてすみ、結果的にも、大きな成果をあげたのではないだろうか。

一粒一粒愛情をこめ丁寧に播けば、仕事は楽しく、種もそれに応えてくれる

一粒一粒愛情をこめ丁寧に播けば、仕事は楽しく、種もそれに応えてくれる

昔からの根本問題になっているのが、

家庭と仕事、どちらが大切か?

自分と家庭、どちらが大切か?

政治も教育も

1人と多人数、どちらが大切か?

という問題でもある。

 

世界が自由主義と社会共産主義と二分された結果、

どちらが歴史的結果で、勝利しただろうか?

それは社会主義ではなく、自由主義であった。

それは社会よりも自由の方がより大切であるということでもある。

しかも

社会的経済的効果を比較しても、

自由を重視した方が、社会を重視するより、はるかに多くの成果をあげるということだ。

これは人助けにもいえるだろう。

多くの命を救うより、一人の命を救う方が、大切であり、

結果的にも、1人の命を救おうとした方が多くの命を救い、

多くの命を救おうとした方が多くの命を奪うという矛盾めいたものになるということだ。

 

個人無くして社会は存在せず、

社会無くしても個人は存在する。

社会は個人が集まったものにすぎないからでもある。

社会という人は存在しない、単に集まりという空想的理念でしかないからである。

 

あるホームレスが生活保護をうけずに、自由に生活することを選び、

牢獄にいた者が、死んでも飢えても、自由になることを選ぶことがある。

それは命よりも自由が重要だという矛盾さえ感じるが、

命は個人しかなく、社会には命はなく、命の繋がりしかないという意味でもある。

一粒一粒の種も、一人一人の個人も、同じであろう。

1人1人の命を、多人数の命よりも大切にすることが自由であり、

それが結果的にも、多人数の命・社会を快適なものになるということでもある。

 

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作物と雑草、人間と自然

昨年の陸稲の籾を精米すると10分の1の白米しかならないので、

食べずに、実験的にそのまま播いてみようとした。

来年の堆肥を作ろうとする庭に、

残った麦わらや剪定した枯れ葉を敷き詰め、

その上に、牛糞(剪定枝と牛糞を混ぜて3年間発酵させたもの・1トン1万円で購入)

をまき、足で軽く混ぜ、三角ホーで、藁や枯れ葉をかき分け、溝を作り、

浸水させない種籾をそのまま播いて、水揚げした。

雀とハトが種籾を狙って、うるさく群れをなして食べてしまうので

ブルーシートを被せておいた。

雨が降るとシートをはずし、止むとシートを被せた

二週間もすると稲種も、紛れ込んでいた大豆小豆も芽を出してきた。

芽を出した種は鳥は食べないので、ブルーシートをはずして、

毎日水やりしたら、まるで芝生のように、雑草は生えないでさらに生長してきた。

不耕起で、陸稲が雑草のように育ってきた2016.7.16

不耕起で、陸稲が雑草のように育ってきた2016.7.16

昨年は雑草対策に、耕うんし、穴あきマルチシートで覆い、4月から作っておいた苗を植えこんだ。

今年はその手間が大変なので、穴あきマルチシートに種籾をまいて、土をかぶせ、鳥が食べないように麦わらで覆った。

だが、芽を出した稲は10分の1で、慌てて、失敗した時の苗を牛糞堆肥と一緒に植えたが、それが逆効果で、99%の苗は枯れて死滅してしまった。急きょ、最後に残った1キロくらいの種籾で、牛糞と土半々で混ぜた苗床で、鳥よけしながら。作り、再度苗を植えたが、とても足りないので、小粒の大豆(小鈴)を4.8キロ(18000円農協)を購入して、失敗した穴に播くことにした。

二度目の苗は昨年と同じように、水ホースと三角ホーで、穴を開け、苗を植え、購入した培養土(25L300円バーゲン価格)で覆ってしっかりと固定したら、昨年と同じように枯れずに生長してきた。

耕うんもせず、マルチシートも使わず、苗も造らず、実験的に庭に播いた種籾の方が、苦労して耕うん、雑草対策、苗植えをした種籾よりも、はるかに生長していることにびっくりした。

考えてみれば、どんな雑草も、耕うんもせず、肥料もあげず、種播きもせず、毎年季節ごとに交代して、に三種一杯に生える。雑草はいくら刈っても刈っても同じく生えてくる。種も播かず、耕うんもせず、肥料も水をあげなくても、季節ごとに違った雑草が生えるのだ。

どうして作物だけが、苦労に苦労を重ねても、やっとできるかどうかなんて、可笑しいではないか。

自然の雑草に合わせた農法で作物を作っていった方が、楽に働けるのではないだろうか?

人は嘘の上塗りのように、失敗に失敗を重ねて上塗りして、わざわざ苦労して生きてきているように思える。

それは原発電気を造って、事故がひとたび起きると、そこにもう二度と住めないようになるほどの徒労を重ねていることと、リンクしてくる。

戦争だって、そうだ、仲良くすれば平和的共存できるのに、殺し合って自滅していくことを選ぶのも、徒労に徒労を重ねて、生きづらくしている。

奪い合えば足らぬ・分け合えば余る

奪い合えば足らぬ・分け合えば余る

人は一時の欲望や感情で、苦労を重ねてしまう。

自然に、人間だけでなく生き物すべての思いに合わせた働きをすれば

苦労しないで生きられる雑草のようになれるかもしれない。

 

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Let it be

この Let it be は 日本では自然に生きていこうという時に語られる

「あるがままに・なすがままに・なんとかなるさ・なんくるないさ・なるようになるさ・・」

歌詞にもあるように、

人が苦境に立たされ、どうしていいか解らないなってしまった時に、

この言葉を繰り返して口ずさんでみると

スーッと苦しみが消え、生きる勇気が湧いてくる。

 

自然に生きるということも、そうで

どんな状況であれ、例え自分が死んでしまう切羽詰まった時であれ、

それをすべて快く受け入れていくことで、幸せな気持ちに切り替える

それが天災だけでなく、人災であっても、受け入れる、感謝して受け入れる

自然のそのままを自他の生死を問わず、受け入れる。

 

歌詞では

“Then Mary said, ‘Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.’ And the angel departed from her.”

『マリアは言った。「主よこの召使いを見よ!あなたのお言葉通りなすがままに。」そして天の使いガブリエルは彼女の元を去っていった』

聖書のルカ1章38節

イエスの母となる聖母マリアが天使ガブリエルから、神がマリアの胎内に子を宿させたことを告げたシーンです。告知を受けてマリアはひどく戸惑うのですが、ガブリエルに神の意志を語られ、Let it beを口にします

男性とセックスなしに妊娠するのは自然ではないが、奇跡的な不自然に思われることもそのまま受け入れてみるのも、神様にすべてまかす、すべて自然にまかすことが、自然に生きて死ぬことでもあるのだろう。

それが 生き抜く叡知でもある。

燕のカップルが部屋に入ってきた

燕のカップルが部屋に入ってきた

窓から二羽の燕が入ってきて、また外に出ようとするが、できなかった。

その一羽が窓から飛び出たが、もう一羽がその出口窓が見つからないで部屋中を飛び回る。

すると

外に飛び去った燕がまた部屋に入ってきて、カップルの燕に寄り添う。

そして、出口を知っている燕が外に飛び去るが、カップルの燕はやはり出る窓が解らない。

二度三度目に外から部屋にもどってきて、やっともう一羽で自分ひとりで外に出られた。

家は自然に囲まれているので

家に小鹿もやってきた

家の畑に小鹿がやってきた

家の畑に小鹿がやってきた

小鹿のせいか、近寄ってもちっとも逃げない。

せっかく芽が出た陸稲を食べそうになったので、威嚇して追い出した。

燕が部屋に、家の畑に鹿がやってくるのはめったにないことだ。

それは確率的に不自然であろうが、なぜか、人間である自分も鳥や鹿の仲間入りをした感じで暮らしていることが楽しくなってきた。

神や自然にとって、

人間も鳥も動物も そう大して変わりがない生き物であろう。

そうした あるがままに見ていく、あるがままに受け入れていくことが

Let it be であり、在るがままに 生き死んでいくことであろう。

いわば、自然と一体化、神仏とともに生きることなのであろう。

 

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WhatとHowは優劣なく重要だ

麦刈り後に陸稲を直播して育つかどうか?

今年はそれを試した。

結果、播いた種の十分の一は育ったが、残りは死に絶えた。

そこで、失敗した時の容易した苗を植えたが、

その苗もほとんど枯れ果ててしまった。

急きょ、少し残しておいた稲種籾で苗を作り、

昨年成功した方法で、苗を植えたら、

なんとか枯れずに、育ち始めた。

二度目の稲苗植え7月11日2016年

二度目の稲苗植え7月11日2016年

種、そして苗、やり方変えて再度苗と三度目の挑戦である。

稲種が育つには、稲種そのものも重要だが、

その稲種をどう育てるかも同じく重要だと気が付かされた。

それは稲種が命、そして、種の育て方が生き方としても、そう言える!

人間にとって、この世で最も大事なものは人の命であるとずっと思っていた。

命とは肉体のことである。だが、肉体より魂を大事にする人もいる。

それは唯物論と唯心論の違いみたいなものであるが、

肉体の命と同じくらい重要視される魂だが、それは心と同じでまことにとらえにくいものであるが、

ひょっとして、

生き方を魂とすればはっきりととらえることができる。

命と同じく、その生き方も大事であり、宝であると言えるのではないだろうか!

 

私が10代の頃、精神病院に入院するくらい悩まされた問題は

「何のために生きるのか?」だった。

その問題を

「いかに生きるべきか?」

に替えて、この人生を60代の今日まで乗り切った。

つまり、What is Life? ではなく、How to live?

命はWhat . 生き方はHowである。WhatもHowも優劣なく重要だというであり、

いわば、命Whatとその生き方Howは車の両輪みたいなものである。

 

「平和のための戦争」という論理は正当だろうか?

「目的のためには手段を選らず」という論理もそうだ!

目的はWhat 手段はHowである。

目的と手段は、優劣なく同等に大事であり、両者は車の両輪であるように。

ならば、

「平和のための戦争」は自己矛盾に陥り、それは「戦争のための戦争」になる。

「平和のための平和的手段」しか、正当な判断はないのである。

これは

その手段をみれば、その目的が解るともいえる。

平和聖戦のための自爆テロは自己矛盾で、戦争テロのための自爆テロでしかない。

また、目的と手段が異なっていれば、それは無意味か危険な行為である。

 

 

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罪を憎んで人を憎まず

「罪を憎んで人を憎まず」という意味は

故事ことわざ辞典

出典は

1.『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「

「古之聴訟者、悪其意、不悪其人」

(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」から。
「憎む」は「悪む」とも書く。

 

2.聖書(ヨハネ福音書8章)にも「罪を憎んでも人を憎まず」という言葉があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈される。

 

孔子から探っていくと

「子日、伯夷・叔斉、不念旧悪。怨用是希也」

(子(し) 日(のたま)わく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、旧悪(きゅうあく)を念(おも)わず。怨(うらみ)是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり)

(孔子いわく、「伯夷と叔斉は、人の過去の罪を憎んでも人を憎むような人ではなかった。このため人から怨まれたりするようなことは殆どありませんでした」)

「罪を憎んで人を憎まず」というのは、孔子においては、「二度と罪を犯さないようにする裁判をする」ということが重要という意味になるだろう。

一方、イエスにおいては

人を憎まず罪を憎め(ヨハネ第8章)

人を憎まず罪を憎め(ヨハネ第8章)

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この不倫した女に石を投げなさい」

人はすべて罪人であり、罪の全くない神様のように人を裁くことはできないから、その罪を赦してあげなさいという意味合いが強いが、イエスは最後に不倫した女に

「もう二度と罪を犯してはならない」とくぎを刺すので、孔子と同じ意味合いになってくる。

さて、ここからが本題だが、

「正当防衛」は本当に正しい裁きなのか?

二度と殺人という罪を起させない裁きなのか?

 

自分を殺そうとする人を殺しても良い(個人的自衛権)

また最近、憲法解釈を曲げて法制化した

私の友人を殺そうとする人を私は殺しても良いのか?(集団的自衛権)

 

どんな理由があるにせよ、殺人という行為は最大の罪であることは世界共通の認識である。

自分の命を守ろうとして、自分も殺人者という犯罪者にもなっていいのか?

また、自分を殺そうとする人を殺して、本当に自分の命を守り切れるのか?

 

古今東西を検証してみたら、正当防衛が「恨みの連鎖」となって、それ逆効果になっているといる。

正当防衛はけして防衛にはならず逆効果であることが解る。

では、

「自分を 友人を殺されそうになったら、最も安全に守るにはどうしたらいいのか?」

「殺す行為を止めても、けしてその人を殺してはならない」

「殺人という罪を憎んでも、けして その人を憎んではならない」

これが、本当の正当防衛になる行為であり、最も安全な防衛である。

将棋の駒のように、反省した罪人は良き味方となって守ってくれるというのも

個人東西には多くみられる事実でもある。

 

正当防衛という誤解と誤信は善意を悪意に替えてしまう。

それはイスラム教の聖戦を自爆テロに替えてしまうようなものである。

 

 

 

 

 

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