不思議な縁

自宅から眺める 棚山

tanayama01

自宅から歩いても4時間あれば気軽に登れる

この棚山を眺めていると マウンテンゴリラの生息山 ルアンダのキブ湖から眺めるガヒンガ山とムハビラ山の姿を思い出す

gahinga-muhabira1

30年前にゴリラ便をしているとき、野生のマウンテンゴリラに会いたくて、バスがなかったので、首都のキガリでマウンテンバイクを借りて 山に入った。そして 念願のマウンテンゴリラの子ども達と記念撮影(ボスのシルバーバックは用心深くとても近くによれない)した。

gorilla-deai01  今、棚山にマウンテンゴリラが生息しており、自分がそのゴリラと一緒に住んでいるような感覚がある。何かキングコングの映画のような 故郷の山に帰りたいキングコングのような心境にもなる。

棚山とゴリラの山の形が何か似ているのだ。棚山はラクダのコブのような背姿ではあるが、

マウンテンゴリラが生息する山は ルワンダ北西部のビルンガ火山帯であり、

ムハブラ (4,127m),ガヒンガ (6,474m)、サビーニョ (3,674m)、ビソケ (3,711m)、カリシンビ (4,507m)という五つの死火山の二山が重なった姿と私にはなぜかリンクしている。

そこに やく380頭のマウンテンゴリラが生息している。

絶滅が危惧される世界自然遺産ではあり、自分もマウンテンゴリラのような絶滅種のような感覚(老境)とも重なってきている。

住むところ 人との出会いなど 不思議な縁でどこか時や場所を遠く離れていても

いつもつながっている感じがする。

 

カテゴリー: 徒然草 | 不思議な縁 はコメントを受け付けていません

20年の私の終活

やっと草刈が終わった!

一か月も畑を放置していたら

雑草が我が物顔で稲や大豆より二倍三倍も伸びて

実り始めた稲穂をやっつけようとしていた

草刈り機 草刈カマ 手摘みで、4日かけて 草刈した。

我が墓より富士を望む2

畑の一番の高台にある、まるいテーブルのパラソルを差し込む真ん中の部分を外して そこの八重桜の苗木を植えた。

その桜こそ 私の樹木葬として 私の魂の置き場所にした

そこから 富士山も 畑も 自宅も見える。

もう20年前から 父母の墓探しをしてきた。

都内の多磨霊園に父母が祖父母の墓を造ったが 兄弟姉妹との遺産相続裁判で勝利したものの、母方の家の先祖であったため、長女の養子に墓を譲った。

母はよほど悔しかったのか、「住まいの近く 毎年の管理費が安い寺でなく公共の霊園に とにかくでっかい墓を造れ」と遺言された。

多磨霊園に父母の遺骨を5年預けて、大きな墓の空きを毎年抽選して待ったが落選してしまい、遺骨を自宅に戻した。

その墓探しをして、田舎暮らし、山村留学、そして現在の山梨の自宅になった。

その墓探しの20年で もっとも理想的な墓は海などに散骨する自然葬だと落ち着いてきた。先祖や家に縛られる人生よりも各自自由に生きられる一生がよいと思えるからである。

そして現在大きな仏壇の中に 父母の遺骨をトンカチで細かく砕いて瓶にいれ奉っている。散骨はしないで ちょうどヒンズー教における聖灰や神道のお清めのお塩のように、自分なりの方針を決めたり祈ったりする時の儀式に父母の聖灰を使わしてもらっている。母の聖灰は転移した肝臓癌で亡くなったせいか ピンク色をしているので 父母の聖灰はまさに紅白の応援歌のような おまじないである。

海に散骨する場合、散骨したところが墓である。樹木葬の場合、その前にあるネームプレートが墓である。ヒンズー教ではガンジス河などの聖なる川にダビして流すので 聖なる川が墓である。

自然葬において、一番の問題となるのが、散骨した場所よりも、死者の名前である

日本仏教なんかは死んだら修行僧としての戒名を与えるくらい重要な問題である

自分とは何か? と問い詰めたら、最後まで残るのは名前だけである。もし名前をとってしまったら、自分も その魂も 他人と区別できなくなるので 自分という意識さえ消えてしまうことになる

遺灰だって そこに名前がなければ 人間だけなく動物植物の遺灰と区別さえできなくなる。名前が無いことはその者の生死もあってもないものになる。

最終的に自由になるためには、無我つまり自分の名前を消すしか道がない。他人あっての自分存在だからである

どんな著作権だって いいとこ数十年がいいところだろう。死者が生者によき影響力を与えられるのも やはり同じ数十年がいいのではないだろうか。それを何百年何千年と神の名前で未来人を縛り上げるのは 洗脳的呪縛隷従になり、未来人を自由にさせず、信徒をその解釈で殺し合いの戦争させてしまう結果にもなりえる。

そのため、私の遺灰は名前をつけずに 仏壇に中に数十年間だけ置いて、何かの応援儀式にでも使ってもらい、無くなったら、子供たちを応援してくれる魂の人の遺灰でも入れておけばいいと思う。

この写真にある桜の木が墓であっても、そこに遺灰を播かず、名前も記さず、誰でもがそこで毎年花見をして楽しめる場所になってほしいと願う。

 

カテゴリー: 徒然草, 自然に生きる | 20年の私の終活 はコメントを受け付けていません

やっとリフォーム完成

東武東上線 上板橋から歩いて7分

9坪の木造二階建てアパート 岡部荘1F2F

壁はモンドリアン風にペイントした

北正面

syoumen1西右と南背面

migi-usiro

東側隣家から

nisi1

一階は押し入れを取り払ってワンルームにした

南側の居間六畳だったところ

石膏壁を外し 1センチのボードで壁外側に組み込む

壁はどこでも棚として 壁掛けとして 自由にデザイン加工できるようにした

minami-ima1

この居間からキッチン方向の元押し入れがあったところ

motoosiire1

キッチン

kithin1

風呂 自動 追い炊き キッチン湯にした

huro1

トイレは和式をウォシュレットの洋式に変えた

toire1F

二階

外階段は鉄骨で音がうるさいので セメントで石階段に変えた

また階段下に入れるように正面壁を打ち抜いて出入り収納できるようにし

外や屋根の排水も流れるように排水路を作った

kaidan1

6畳和室

tatami6jyou1

砂壁だったところを白ペンキで固め塗装し

畳は張替 窓に付いていたクーラーを冷暖房エアコンに新しくした

キッチンとダイニング

kichin2F

 

風呂とトイレ床から壁全部取り壊し 風呂内で沸かしていたものを外壁に追い炊き自動式に変えた 配管下水器具バスタブ設置をガス管設置以外全部自分でやったので 使えるかどうかが一番心配だった。特にリモコンの配線があっているのかが心配だったが、無事湯が出たときには大喜びした。

huri2f

トイレもそうだがセメントとタイルを破砕していくのが大変だった

和式を洋式にするには排水の位置が違うので それが合うようにし、二段になっているのを平たくして 上水の配管の位置も変更した。

塩ビの水道管を取り付ける際 オスとメスの両方に接着剤を付けないと漏れることを知らなかったので 片方だけつけてしまい、なんども水漏れし、ネットで原因検索し、五度目でやっと全上水道管が漏れずに流れるようになった。

toire2F

近くに にりん草公園がある

nirinsoukouen1リフォームをしながらダイエットのために近所を散歩する時は

この にりん草公園からスタートして帰ってきた

おかげで 19キロ減量できて まだやや内臓脂肪が過多ではあるが普通体重になって一年リバウンドとリダイエットを繰り返しながらなんとかキープしている

山梨の畑仕事やゴミ倉庫の処理の合間をぬって リフォームしたためか 二年半も時間がかかってしまった。総額150万円使った。

元の家はほとんどの柱が腐っていて まるで腐っていない押し入れの柱二本で支えられ、あとは空中に浮いていた感じだった。それを重量ブロックとセメントと鉄筋で補強し、腐った原因である水はけが悪かった外回りを排水路と配管でよくした。

床下の湿り気をおさえるために、ビニールシートをし、こわしたセメントガラと石膏ボードで敷き詰めた。外壁下はブロック壁を全面にして、水の浸入や柱の補強をした。

最近多い地震や大雨にも安心して住めるように、壁は柱で支えるのではなく 箱形面で支える工法を採用した。

なお

ここの地主は近くの延命寺である。

enmeiji1

家の前の道路が狭いため、新築はできず、リフォームだけできるところである。

駅近く、スーパーもスポーツ施設も病院もあり、車で来ても24時間最大800円の駐車場がけっこうあるのでけっこう便が良いところで住みよい場所である。

 

カテゴリー: 徒然草 | やっとリフォーム完成 はコメントを受け付けていません

因果は真実 応報は嘘八百

因果応報とは仏教からきた言葉で悪因悪果・善因善果の意味だが

これは古今東西 真実であろうか?

そもそも善悪そのものがはっきりとはしないし、善悪がはっきりと感じるのは人が決めた法律を犯すのが悪で、犯さなければ善であるというだけである。

その法律がそもそも悪法であることも、その解釈が悪ということだってある。

世の中に起こる病気や事故災害や飢餓戦争がみな悪因悪果だとはとてもいえないし、因果応報は真実ではなく、法や道義を守らせるための戒めであろう。

しかしながら どんな結果にも原因がある因果は真実である。応報だけが努力や評価が必要な人為的な行為であり、確かなことではなく、真実ではない。

洋式トイレに立小便する時 小便が二又に分かれて どうにも便器から漏れてしまう。漏れないように毎回工夫をするが完璧にはできないでいた。

NHKのためしてがってんの番組で 立小便して汚さない方法は12センチ以内にチンチンを便器に近づけなければ 便器も便器外の床も壁にしぶきが跳ねるという実験結果をみた。

洋式トイレでは面倒でも座ってチンチンを押し下げて小便するしか完璧に汚さない方法であることを知った。

トイレを汚すことは悪果であるとしたら、立小便は悪因になるが、立小便は法的にも道義的にも悪行ではなく、日常的普通の行為であり、また男らしさからいえば善い行為とも言えさえする。

立小便ひとつにとっても 因果は真実だが 応報は真実ではなく、そこに法律や道義や技術があっても無駄な努力行為である。

原発稼働させるだけで数百万年も有害な放射性廃棄物を作り出し、それを無害化させる技術も 保管したり捨てることもできない現状はまさに悪因悪果であり、原発させることがそもそも100万年も続く人的事故なのである。

原発稼働させることは法的には悪くはないし、温暖化を防ぐCO2を出さずに電気を生産できるのは善行にもなりえる。だが100%安全な原発はありえないし、単に津波対策したくらいでは 世界のテロや戦争また隕石が落ちたり地震火山などの自然災害の危険さえもある。

原発事故を完全に防ぐ方法は原発を廃炉にするしかない。さらにいままでの悪因である原発稼働による放射性廃棄物の無害化や事故処理も何世代もかけて取り組まなければならない。

どんな病気も事故も その原因を取り除かなければ延々と続くことになる。

世界の金融恐慌は借りた金銭を返済できない状況が原因であり、世界の飢餓貧困はそもそもカネが最初からないのが原因である。借りたカネは利息を付けて返すという信用経済で成り立つ金銭システムは100%安全であろうか? ましてカネが無ければ生きていけない世界は健全な経済また自然なことであろうか? 人類以外の生物はカネがなくても生きていけるのは真実ではないか?!

飢餓貧困や金融不安の原因は金銭システムが借りたカネを努力して返すという不確かな信用で成り立っているからである。もし借りたカネを100%返せる金銭システムにすれば世界の飢餓貧困はなくなることだろう。

因果は真実であるが、応報は真実ではなく 嘘八百 洗脳である。

 

 

 

カテゴリー: お金って何だ, 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 因果は真実 応報は嘘八百 はコメントを受け付けていません

お金って何だ!?

そもそもお金って何だ?と疑問をもったのが6年前に money as debtという動画を観てびっくりした時からだ

money as debt を’借金としてのお金’では意味があまり解らないので

the actual money is debt  ’実際上のお金とは借金である’ と言った方が解りやすい。

貨幣を製造する中央銀行だって 事実上の借金である 国債・株券や外貨を売買して貨幣流通調整せざるをえないことからしても 貨幣そのものよりも借金(債券)の方がより実際上のお金となっていると言えよう。

上記のmoney as debtの動画は市中銀行は中央銀行から安く借りて高く貸すことで金儲けしているという意味だ。

そもそも物的流通させる商いは安く商品を仕入れてその商品を高く売ることである。それは外貨や債券や株券でも同じで 安く金融商品を仕入れて高く売ることで利益を得る。

モノやサービスの生産であっても、安い材料と労賃などの経費で高いモノやサービスを売り上げることであり、流通と本質的に同じ構造のものである。

4人で麻雀をしているときに必要な点数棒は6万点であるが、勝敗して使われる点数はその何十倍の60万点以上にもなるだろう。中央銀行で発行された貨幣は一定の点数棒であるが、麻雀で勝敗して使われ流通する点数はいわば債券である。

貨幣は流通してこそ意味をもつが 流通しなければ何の意味のない形だけのものである。

エンデの遺言の動画もまた衝撃的にお金って何だ?という疑問を投げかけた


この腐るお金(減価するお金)の発想はシルビオ・ゲゼルの『自然的経済秩序

』である。

日本にお金がなかった時代 米がその代わりになっていた。お金=米ならば 米はそのままにしておけばいずれ腐って価値は無くなるのだから、お金だって自然に価値が減っていくのは当然であり、自然であるとした。その減価する貨幣を元にした経済システムを構築すべきとしたが、実際に過去世界の一部で発行流通したが 数ヶ月で廃止された。

貨幣の歴史をみると、石 金銀銅アルミ等から紙幣と変遷し、現在では電子マネーになっており、それらの貨幣価値は売買貸し借り流通することで 日々数分毎に増えたり減ったりしているのが現状であり、それが自然の流れにもなっている。

一体お金って何だろう?

お金の価値が数分ごとに増減するのだから 人類の普遍的価値にはなりえないものである。

生きる上での道具になりえても それは生きる目的にはなりえないものであることは確かである。

 

カテゴリー: お金って何だ | お金って何だ!? はコメントを受け付けていません