デモ元年

秘密保護法反対2013,12.6
阪神大震災の時、多くの国民が自分のできることをしようとして、震災地に駆けつけた。その年をボランティア元年という。

昨日の秘密保護法に反対する人々が、国会前に数万人ツイッターで知って集まり、夜中の参議院決議を見守った。法案が通ったが、デモ隊国会に乱入することも、警官ともみあうこともせず、声をあげていた。そこには、トイレ地図や食事配布や暖をとる休憩場もツイッターで案内された。

しかも、テレビ放送も、マスコミ応援もなく、国会中継はネットライブ放送され、デモ隊の様子も逐次ライブ放送された。

法案が通っても、「まだ諦めるな!廃案できる手はある!」と参加者を勇気づける。

これは、国民が自ら政治活動すること意義と楽しみを得た瞬間に思えた。

こうしたデモは福島第一原発事故があった東日本大震災の2011年3月11日を契機に、脱原発運動が起きてからであり、この年をデモ元年と呼びたいと思う。

通産省前に継続的に座り込むデモは、市民の政治活動を日常の生活の一部にさえなり、それは文化生活にもなっている。

脱原発運動が元小泉首相の脱原発発言のマスコミ報道で、分裂しかかった時があった。しかし、元小泉首相の弟分である安倍現首相はまったく逆の推進にさらに進めた。最終処分場を選出、再稼働、原発輸出、原発ベース電力方針などである。

つまり、逆効果だったのだ。そこで、もっと大事なのが地道なデモ活動であり、脱原発運動する元小泉首相をそこに取り込むことが大きな力になる。

こうしたデモ活動には資金が必要である。そこで、脱原発して再生エネルギーに転換する企業の応援広告を募集すれば、資金とネームバリューと一石二鳥効果があるだろう。

デモもまた特殊の企業活動であり、NPO法人のように、継続して政治市民活動できる場であろう。

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倫理的であるということ

 遺伝子組み換え食品が日本に加工品として大量に出回っている。それを許可している理由というのが、食品検査の結果健康に問題なく安全であると判断したためである。

 ただ、その安全審査がラットで2ヶ月間の健康検査であって、ラットの一生涯の2年ではないということと、その一生涯の実験検査では癌になるラットがあるという結果報告を「世界で食べられなくなる日」の映画で指摘して、けして安全ではないとしている。

 日本には遺伝子組み換え食品は入ってくるが、その種は輸入されていない。遺伝区組み替え穀物の種は雑草よりも強く。日本の在来種を種をすべて絶滅させてしまうからである。

 遺伝子組み換えの品種を作るには放射線で、その遺伝子を切り、除草剤のランドアップに強い遺伝子を切った遺伝子に組み替えることで製造される。そして、その種を栽培する時にたくさんの雑草が繁茂しても、除草剤のランドアップを飛行機で空中散布すると、雑草だけが枯れ、遺伝子組み換えの穀物だけが生育する。

 日本では除草剤ランドアップを雑草だけに散布して、作物にかからないようにしている。この除草剤は地中に入ると微生物が食べて分解するとして、安全であるとしている。

 うちの畑の隣では大量にランドアップを散布して除草している。雑草が枯れるというより、触るとぐにゃりとして腐る感じで崩れてくる。そこには半年はけして雑草はえないので、土のままなので、他の雑草地に比べて異様な光景がする。

 穀物を生産する上で、雑草は穀物よりも繁茂が強く、そのままにしていると、穀物は全滅してしまう。そのため、雑草を刈るのだが、一週間もすると、また雑草ははえてきて、その手間ははかりしれない。しかし、この除草剤を使うと、穀物が育つ半年間も一度だけ噴霧するだけで、こうした苦労をしなくてすむので、農家にとってはとても便利な農薬である。

 こうした遺伝子組み換え作物を倫理的に考えるとどうなるだろうか?

 倫理的というのは、人道的であるということである。人道的であるという意味は現在ではもっと広範囲の生き物すべてにとっての道になってきている。それは地球環境・自然環境の維持が、人類の存続には必要不可欠であるという判断からである。

 遺伝子組み換えを放射線で遺伝子を切って組み替えるという行為そのものも、自然ではなく、人為的である。その人為は雑草だけを殺して穀物だけを生かすということであり、それは人間が食べる作物だけを生かし、食べない雑草のすべてを殺すという行為である。

 この地球上に人類だけ生きて、その他の生き物は死んでもかまわないという行為であり、それはまさに自然破壊・環境破壊の行為である。それは長い意味で、一時は人口爆発させるが、絶滅するという意味である。それはあらゆる生き物は共存しており、一種の生き物だけが生きられるようにはできていないからである。

 倫理的というのは、人と人が平等であり、互いに尊重しあう心が始まりである。それが、他の生き物もまた、同じ地球上に生きている仲間であり、平等に生き、互いに尊重されるべきであるというように拡がったといっていい。

 社会の倫理においては、自分や自国だけが得をし、他人や他国が損をしてもかまわないという心は悪にあたる。自他ともに平等に違いに尊敬しあうのが倫理的善である。

 かように、倫理的ということはもっと広く、もっと全体的に物事をみて、調和共存できる道を探るということであろう。

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弁証法に対する小説法

 1ヶ月後の自分に、名前を付けて 対話しようと思ったら、ふと気が付いた。

 これは小説の設定と同じだと。話したい人物をモデルとして、その想像上の名前を付ける。モデルが仏陀でも、キリストでも、アッラーでもかまわない。実際と神仏ではないから、自分が想像する神仏として名前を付けて、話させるのである。

 また、実際の友人や知人や著名人をモデルにしても、名前を付けて、いろいろと登場させて、何かし、何かを話すようにする。

 そして、登場人物に語らせ、行動させて 問題解決する。会話だけでなく、世界のどこでもいけるし、その登場人物は人間だけでなく、動物でも植物でもかまわない。

 これを弁証法(対話法)に対して、小説法ということにしよう。

 寅さんは実際にはいないが、まるで、柴又に生きていたかのような伝説をつくるようなものである。こうした寅さんの映画のような思索法は難しい理論よりも、楽しくその問題を受け止められるようになる。

 小説や映画はそうした意味でも、問題解決法を示唆するように思える。

 というように想像すると、

 未来の自分の名は ありがたや権兵衛 過去の自分の名は さち みつる 
と、過去使っていたニックネームに決定した。

 その他は、登場人物の設定で いろいろな名前をつけたいと思う。主人公はもちろん 未来の自分なので ありがたや権兵衛 である。未来といっても、今の自分より年寄りではなく、理想な年齢に設定する。寅さんのようにけして歳とらないようにしてもかまわない、とにかく自由に生きさせるのである。

 未来の自分がモデルだとしても、そういう自分にならねばならないという努力は必要ない、ただ夢みるだけでいい。とてもなれない自分でいいのだ。また、その人物は超能力があっても、なくても、ダメ人間でもいい。

 おもしろい映画をみているような気分になればいいだけだ。それが問題解決にもならなくてもいい。ただ理想を自由に想像するだけで十分なのだ。どんな文学も問題提起をするが、答えはでないが、現実の自分になにかしらの示唆をさせればいいであろう。

 

  

 

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物事をシンプルにみる

 原発事故以降、原子力の勉強をしたくなったが、残された時間が足りない。お金の問題もおうだったが。経済学を大学で1から始めたいという思いを断念したのもそのためだ。

 結局。残された時間の少なさと、生きてきた時間の多さをうまく編み込むと、経済や原発の問題を自分の得意とする宗教哲学のような視点で、その解決の提案ができそうに思えた。

 経済とか原発の姿を、まったく違った分野の宗教哲学からみると、意外にシンプルにみえる。宗教哲学ともいわずとも、身近で経験したことをそこにシンプルに当てはめることができるような気がする。

 沖縄の基地移転の問題だって、沖縄にたくさんの米軍基地があるのだから、移転などせず、基地撤去して、日米中朝鮮韓国ロシア友好公園でもつくり、そこで、6カ国平和会議を毎月開き、貿易、スポーツ、資源開発など共同で行えるようにすればいいと思える。

 それは未知の原子部落にいって、武器を捨て、「私たちはあなたたちの敵ではない。友人になりたいとやってきた」というようなことをする方がはるかに防衛手段にもなる。

 尖閣諸島だって、そこはちょうど沖縄と台湾の中間だから、中国には遠慮してもらって、沖縄と台湾の共同漁業基地にしたらどうかと思える。竹島もまた、日本と韓国の真ん中にあるのだから、日韓友好の地として、いろいろなイベントをすればいいように思える。

 北方領土は地図からみても、日本の領土に入ると思えるので、そういう視点で、ロシアに変換を求めるのではなく、国連や国際裁判所などに訴えていく方向に集中させればいいように思える。

 あんまり、自国の土地というように凝り固まらず。どの土地も友好の地というような形でもっていくと、シンプルに問題解決できる。

一国一国がみな一人の隣人として、一緒に地球に生きているという感じで、物事をみていけば、やたら、問題をややっこしくしなくてすむ。

 原発は電気を造るのではない。猛毒のサリンより何万倍も危険な放射性生成物を造るということも言えるので、即刻停止し、それが使用されることがないように、安全に保管し、将来中和、無害化できるように研究していくという方向がでてくる。

 専門になるとやたら難しくなって、理解がしにくくなる。もっと全体的に日常的にシンプルに眺めると、簡単な解決策がみえてくるように思える。

 

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神仏より1ヶ月後の理想の自分を信じよう

永いこと信じていた神仏を捨て去ってから、もう10年以上たつ。時々、神仏に替わる何かに甘えたくなるときがある。もちろん、神仏を捨てれば自然だけがそこに在る。自然は甘えられる存在ではなく、無心とか、無我とか、自然との一体感を楽しめるものである。

 甘えられるものは人間であり、それが生きていようと、死んでいようと関係なしに心をゆだねることができる。ただ、生きている人間に甘えようとすると、相手に迷惑がかかることがあり、逆に無視されることもあるので、いつでも甘えられる存在ではない。

 では死んでいる人間に甘えられるかというと、自分の想像する姿でしか、甘えられないので、自分の想像力が乏しい場合は空しくなる。つまらないドラマを見ているようなもので、すぐ飽きてくるし、よけい自分をひ弱にしてしまう。

 そこで、唯一甘えられる存在は自分自身だけであると発見できる。甘える自分と甘えられる自分と二種類存在しないとそれはできない。はたして、自分という存在は一人だけであろうか? 体の細胞は1ヶ月もすれば全部新陳代謝することを知れば、自分自身は1ヶ月ごとに生まれ変わっている存在であり、1ヶ月前の自分と今の自分、そして、1ヶ月後の自分は似てはいるが生死の差ほど違っているといえるではないか。

 すると、今甘えることができる自分は1ヶ月後の自分自身ということになる。この1ヶ月後の自分が今の理想の自分であることを信じることが、自信を持つということである。この1ヶ月後の自信こそ、神仏よりも、偉人よりも、先祖よりも、家族よりも、友人よりも、もっと確かな甘えられる存在である。

 自己実現の技術は理想的な自分をまず思い浮かべることである。その理想的な自分を信じて、毎日鍛錬するのがスポーツ、ダイエット、学問。芸術、仕事に通じてもいえることであろう。

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