夢か現実か?

こんな夢を見た。

^-^-^-^-^-^

買ったばかりの自転車であるところに行き、

つい鍵をかけずにそこから離れて用事をすました。

もどって、自転車に乗ったが・・

どうも自分の自転車と違う。

性能はそこそこいいのだが、ふと後輪をみると

鍵が壊されている。

そこで自分の新品の自転車を盗まれたことに気付いた。

腹が立つのは盗んだやつのことだけではなく、

どうして鍵を閉めなかったのかと、自分を責めたこともある。

あまりに自分の不用心にいらだちが隠せなかったが・・・

よくよく考えてみれば・・

自分が新しい自転車を買ったのか?

ひょっとして これは夢ではないのか?

現実的にはどうして古い自転車と入れ替わるのか?

新しい自転車なのにどうして鍵をかけずにその場を離れたのか?

もし、これが夢だったらつじつまがあう。

よし、夢ならリセットできるので、これはなかったことにしよう。

そうすれば腹がたたないだろう。

すると

目が覚め、そのいらだちが夢の中の事件だったことを知った。

^-^-^-^-^-^-^

夢とは仮定の話である

 

大橋教授が、医学はみな

「仮定の仮定を繰り返しているだけだ」

つまり、そこに真実はないという意味だが・・

私が自転車を買って、鍵をかけ忘れたという夢も仮定の話であり、

それが現実(本当)のことと思って、自分を責めていらだつのは実にストレスがたまる。

こういう悪夢のような夢は「もしも 自分がこうだったら」という仮定から空想されて、その喜怒哀楽で右往左往するようなものである。

大橋教授のいう仮定の仮定の繰り返しとは

夢のまた夢、そのまた夢を見ているようなことであろう。

ー^-^-^-^

「無いものを有る」また「在るものを無い」

   という信心もまた仮定である。

 

神という絶対的存在が無いものを有ると仮定するのが

まさに宗教である。その仮定(神が事実存在するならば)が信じるということである。

「信じよ、さらば救われん」

その仮定を信じれば救われるが、その仮定を信じなければ救われないという意味である。

それはその夢を本当と信ずれば救われるが、その夢が本当でなければ救われない。

宗教を信じるものにとって、その信心の中で、喜怒哀楽、奇跡や悪魔までみるのはまさに夢の中で右往左往するようなものである、

私はいくつかの宗教を信じてきたが・・結局、私が救われたと感じたのはその宗教から脱却したときである。

つまり、仮定の夢から本当の現実に目覚めたときである。

ー^-^-^-^-^

トラウマもまた仮定の夢からくる悩みである

 

ずいぶん昔経験したことを、今はそれを経験していないのに

同じ経験をしているような仮定としての夢をみる。

その昔の仮定で、夢をみて悩むのである。

ー^-^-^-^

宝くじも仮定の夢の話である

 

もしも、宝くじが当たったらという仮定を空想し楽しむ自分ドラマである。

ほとんどの映画やドラマはみな仮定の仮定を繰り返す空想を楽しむようなものである。

ー^-^-^-^

医学が仮定の仮定をしているだけならそれは宗教と同じである。

 

免疫学の専門家の大橋教授は医学は現代の新興宗教であるとも言い切っている。

特にそれは癌について如実に現れるようだ。

検査技師が癌細胞を顕微鏡でみて、それがヘンテコな姿をした細胞ならは悪性の癌細胞、ヘンテコでない細胞なら癌細胞ではないと仮定し、その癌細胞を実際に、増殖するか、転移するか 実験検証せずに医者につけ、医者はそれを癌細胞と仮定して、患者に、

「このまま放置すれば何か月の命です」

と占う。

つまり、検査技師も、「ヘンテコな細胞」を検証なしに「悪性癌」として、信じ、その意志の言葉を信じた患者がまさに仮定の癌で、占いの数か月の命を信じる、まさに宗教的占いと抗がん剤・放射線・手術の高額医療詐欺を行うようなものである。

今の科学技術では

「ヘンテコな細胞」が増殖するか転移するか、ネズミのモルモットで実験検証しないとできないが、人間とネズミとは違う細胞なので、その実験検証はできない。

また、シャーレで、「ヘンテコな細胞」を培養しても、それはみな増殖しないので、確かめようがない。体内では悪性細胞も、良性細胞も、増殖するので、増殖するだけでは悪性か良性かは判断できない。

問題はそれが転移するかどうかである。

どの転移が、その「ヘンテコな細胞」を切り取ったり、放射線を当てたり、抗がん剤を塗ったりしたら、転移しないか? というのではなく、むしろ、転移を増長させることにもなるかはまた不明である。

しかし、

アレルギーや虫刺さされで、発疹したところを掻けば掻くほど、それが化膿したり、広がったりすることはよく経験することでもある。

まして、

「ヘンテコな細胞」が良性だったら、そうした手術・放射線・抗がん剤によって、いじりすぎて、よけい化膿、転移、免疫力をなくしてしまうことだってありえる。

つまり、

今の癌治療は

「ヘンテコな細胞」を悪性癌として仮定夢で、なんとか治そうと必死になってあがいているようなものだともいえる。

だが、

その「ヘンテコな細胞」が悪性癌でなく、良性癌で、自然に消えるか転移しないものが現実である可能性はある。

だからこそ、

検査技師と医者の仮定を信じるか、信じないかで、そのドラマは大きく変わる。

だからこそ、

検査技師や医者のような他人のいうことをそのまま信じないで、

そのヘンテコな細胞が悪性か良性かの判断基準が検証できないことをまず知ることは夢から現実に目覚めることでもある。

そして、

自分が納得いくような道を自然の姿に照らし合わせて、他人の悪夢や占い医者に迷わされないで、自分の健康を守るようにしていきたいものである。

ー^-^-^-^

その仮定である夢に迷わされず、

しっかりと

この現実を味わいながら生きていきたいものである。

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 夢か現実か? はコメントを受け付けていません

奇跡とは自分らしく生きること

奇跡を求めるということ

奇跡はそれを求めて得られるというものではない。

疑問に思うことがあると、

その答えを見出した時に、

それが奇跡だと気づく。

それは

この世の奇跡に気づくことが

求めるということである。

それが知るということである。

つまり

奇跡に気付くことが知るということだ。

0-^0-^0-^

奇跡詐欺商法

少年のころは

サンタクロースの話を本当だと信じてしまう。

そうした奇跡的な話を求めたり、信じてしまうのは少年少女の特徴だろう。

また、

祖父から地獄の話とその絵を見て、それが本当だとつい信じ込んでしまい、

怖くてたまらなかったこともそうだろう。

最近、オーム真理教の教祖とその信徒13名が死刑になったが、

この教祖の麻原は私よりも5歳下である。

私が中学高校時代には奇跡や悟りを求める風潮があった。

麻原が空中浮遊というジャンプした写真トリックを奇跡として

あたかも、麻原が神か仏のような力と悟りを得た者のように信じ込ませる

宗教詐欺に青年たちはコロッと騙されて入信し、金を分捕られてしまう。

超能力とか超常現象とかに興味津々で、それが起こせる人を神か仏として、

あがめ、その人のいいなりになってしまい、けして教祖を疑おうとはしない。

こうした詐欺は言葉をうまくあやつることで、

相手に信用させ、お金をまきあげる詐欺商法のオレオレ詐欺と同類でもある。

投資で、簡単に儲かる話にひっかかるのも、これまた人が奇跡的な物事を求める特徴があるからだろう。

こうした奇跡詐欺を信じ込みやすいのは少年少女だけでなく、

オレオレ詐欺のように愛情が強い年寄りにもいえそうで、年齢的なことより、むしろ奇跡的なことをどうとらえるか?で、騙されるか、騙されないか?の道が分かれそうである。

ー^-^-^-^^

 

奇跡も事実も確率的事象

奇跡とは確率的に非常に少ないことの総称であろう。

ギャンブルというのも確率でもっともシンプルななのは丁半の確率50%で。

科学的事実というのは100&ではない、95%あればほぼ確実として通るようなものである。

では地味な仕事はどうか?

それも100%の推測通りのお金が入るとは限らない。

この世あの世にも絶対的な100%の事象はありえないし、それは絶対的な神仏は存在しないともいえ、すべてを知る悟りなども到達できないことも、そういえる。

ー^-^-^-^-^

生まれた自我こそ奇跡

この世に生まれ(=あの世から生まれ)

この世の事象を見る自我は

この世の世界の窓ともいえるもので、

その自我こそ、確率的には奇跡以上の超奇跡みたいな存在である。

その超奇跡的な自我を持つ故に、

人は奇跡的なことを信じ、奇跡的なことを求めていくのだろう。

その特質は奇跡的な命をもらった自我にはけして変えられないだろう。

けれど 人は他人に

なんども騙され、なんども信じては裏切られていくと、

すぐ信じ込まないで、まず疑ってかかる用意周到な知恵を持つ。

そして

どんな物事も自分が納得いくまで確かめてから決断して行動するようになってくる。

その検証と決行を繰り返ししていくとあることに気付かされる。

それは

リセットのようなもので、

常に振り出しに戻されて、自分自身の姿をその奇跡的な存在を改めて気づかされる。

それは疑問に思っていたことが解るということは

追い求めていたものが自分自身の中、自分自身の姿に気付かされること。

奇跡も、悟りも、この自我の姿・自我の中にあることだ。

例えば

陸稲を8年も自然栽培しようとあれやこれや実験してきたが

陸稲栽培は自分の畑では不自然で不向きであるとして諦めた。

そして、

主食という稲という常識的観念から抜け出て、自分が本当に望んでいた畑の姿が、

自然栽培で、いろいろな野菜や穀物を作ることであったことを知る。

イネだけではなかったのだ。

それを知ったのは、稲というものを追いかけて、自分の本当の欲望に気付かされたからだ。

自我という命は生物多様性と人間多種性に支えられていることを気付かされる。

それまで求め続けていた自給自足、主食の自然農法という妄想から脱却できたということである。

ー^-^-^-^-^

つまり

 

奇跡とは自分らしく生きることである

 

 

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | 奇跡とは自分らしく生きること はコメントを受け付けていません

ダイエットは終わりなき旅

ダイエットを志してもう4年になる。

なんどもリバウンドとリダイエットを繰り返す日々であるが・・

昨年、偶然にも楽にリダイエットできた。

一日だけ断食して、それでダイエットする意欲を強め、その流れで体重計を眺めながら

減ったら、そのままの運動と食事を続け、減らなかったら半分に食事を減らすというようなことをしたら、目標体重まであっさりと1か月で5キロ痩せられた。

だが、それもリバウンドまでは1か月後にもとの体重に戻る。

それから、同じような方法や、モノを買わない方法を試したが、体重はほとんど変化なし。

そこで、二か月前から、月初めには断食dayを設けて、二度ばかりリダイエットを挑戦したが、やはり体重は変化なし。

三度めの8月1日に、断食dayを設けたが、完璧にはできず、未だに体重も体脂肪も変化なし。

でも、

ダイエットの挑戦を一生涯かけてやっていくと決めていたので、

むしろ、ダイエットを挑戦するときに、いろいろな考えが生まれてくるのがけっこう楽しいものである。

今回はこんなダイエット考である。

0-0^-0-^0-^0

食事は薬、食べ過ぎると毒になる。

甘いもの、美味しいもの、刺激性のあるものは習慣性を持ち、

煙草や酒と同じ中毒にもなりやすく、刺激を受けないと我慢できなくなる。

いわば

刺激依存症になり、麻薬と同じで、肥満から多種な病気になり、寿命を縮める。

麻薬中毒を治すのと同じで、ある期間、その刺激を与えなければ、その中毒から解放される。

断食も同じで、最初はつらいけども、続けると食べなくても楽になってくる。

だが、

麻薬と食事の違いは

麻薬がなくても生きられるが、食事をしないと生きられない。

断食しても、そう永くは続けられない。

私はそのストレスが大きくなり、蕁麻疹やアレルギーがでてこまり中止することが二回ほどあった。

麻薬から解放されても、また麻薬に手を出したら、もっとひどい麻薬中毒患者になる。

それは飲まなくても生きられる煙草でも酒でも、ギャンブルでも同じである。

食事は食べなくては生きられない。

そのため、ダイエットに成功しても、以前と同じ好きな食べ物を一口でも食べてしまったら、リバウンドをしてしまう。

反動ストレスで、以前よりももっと肥満になってしまう。

この麻薬ジレンマから抜け出すにはどうしたらいいのだろうか?

それが刺激性依存症が麻薬でも食事でもいえることで、薬物依存症である。

肥満は刺激依存症

 

食事の中で、刺激性のあるもの、旨すぎて食べ過ぎてしまうもの、つい癖になりやすいもの

中毒性になりやすい食物と飲料を摂取しないで、ちょっと食べて満足できる食物だけを選んで食べ、

それを好きになればいい。

いわば、好きな食物を変えればいい。甘いものが好きだったら、甘くないものや甘すぎないものを好きになるようにすればいい。

どうしても毎日食べたくなる飲みたくなるものは控えて、それらがなくても食事が楽しめる食事に変更していけばいいのではないか。

刺激旨いもの依存症からの解放を目指して次のダイエットに挑戦してみたいと思う。

麻薬からの解放が大変のように、そうした大変さは覚悟してかからないと挫折してしまうだろう。

さてさて、

ダイエットは一生もの、挑戦も楽しみながらやっていこう。

失敗の原因をなんども追及していけばいつしか健康的な生活を楽しめるようになれそうだ。

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる | ダイエットは終わりなき旅 はコメントを受け付けていません

人が考えられることはあり得るが・・

4月初めに麦間に陸稲の蕎麦の種を播き、

7月に麦を収穫せずに、

陸稲と蕎麦が芽を出し、

雑草のように自然交代することを理想として試みた。

だが、麦間には雑草だけが生えたので、それを一度は抜き、

陸稲と蕎麦の芽が出ることを期待したが・・

3週間後は麦間の雑草は1mにもなっていた。

その雑草を抜き立った後に、200坪の麦畑に播いた20キロの陸稲のうち3粒の種が芽を出していた。

2018.8.3

2018.8.3

100万分の1の確率で理想論が実現していたことになる。

だが、その奇跡的な理想論も、1mの雑草を抜き取り、水揚げし、また生える雑草を抜きとらない限り、消えゆく運命である。

50坪の畑に4月初めに蕎麦と陸稲の種を播いたものは、

6月には陸稲は光が入る部分には10センチほど伸びたが、8月初めにはその陸稲の芽は蕎麦が実りきらずに、ほとんど消え去っていった。わずか一万分の1の確率で、陸稲の芽が生きているのを発見した。

蕎麦の下に残る陸稲の芽

万が一の確率で陸稲の芽が残るが生き残れるか??

その蕎麦下の陸稲の芽も消え去る日は近いだろう。

もし、生き残らせるには周りの蕎麦と雑草を刈り、毎日水やりをすればなんとか生き残れるだろうが・・それだけの手間と犠牲をするだけの価値がそこにあるだろうか?

0-0-0-0-0-

多くの理想論がそうだが・・・

あのマルクスの資本主義を修正しようとした共産思想にもいえるだろうが・・・

およそ人が論理的に考えられることはあり得るが、それが実現できる確率は奇跡的な一兆分の1にすぎないことが多いのではないだろうか。

その奇跡的な確率で、突然変異した理想論の稲をなんとか実現させようと必死になっているのが、品種改良であり、遺伝子組み換えであり、ゲノム編集であろう。

共産主義から生まれた国も資本主義の容認する品種改良しながら共産党理想を残しているのもそうだろう。

また、

そうした理想論を必死で追いかけることは

生まれる前にダウン症などの病気が解った時点で流産させるという行為にもつながってくる。

それは二年前に起きた障碍者殺傷事件は意志の疎通ができない障碍者は殺した方が良いという考え方にもつながってくる理想論である。

こうした理想論の根拠になっているのは

その人類の、その人間の、その社会の、その個人の・・エゴからくるものではないかを

問い直してみる必要がある。

その理想を実現するために、

理想的な稲の芽を伸ばすために、多くの蕎麦と雑草の命を、人の労力と金と情熱を犠牲にしていいのか?

また、多くの今の障害者の命を犠牲にしてまで、障害者のいない社会を築こうとしていいのか?

共産主義革命で、どれだけの多くの人が犠牲になったか? そんな犠牲にしてまで共産革命に意味があるのか?

あのオーム真理教もそうだが、理想の国家を築こうと、誰構わず大量に殺していいのか?

歴史的にみても

理想論は人類の、国も、社会の、個人のエゴから実現させようとしていることが多い、

0-^0-^0-^^

理想とか夢とか追い求める前に

その欲望らが、

生物多様性の自然において・・自然の倫理に合っているか?

 

 

自然と欲望を照らし合わせて・・

その理想という欲望をよくよく吟味して

それがエゴなら「諦めが肝心」であり、

けして、「ネバーギブアップ」するなである。

だが、その理想・欲望・夢が自然に合致するなら、

「Never give up」であろうし、「夢は必ず叶う」し、

それに対して努力しても、しなくても、

自然が味方するのだから、その理想は実現するといえるだろう。

0--^0-^0-^

いろいろな考え方がある

それらは考えられる限りあり得るだろう。

「火がないところには煙が立たぬ」

という一面だってあることだから。

しかし、

我々の思考は宇宙の果てでも、何億年前でも後でも飛ばすことができるように

それが実現するということは一瞬で一部ありえるだろうか・・そう永く実現できるものでもない。

縄文時代のように、

その生活がより自然にあっていれば一万年も持続可能であろうし、

その生活が不自然であれば、現代生活は数百年で終わりを告げるだろうと思える。

 

余談・・

 

 

二日後

蕎麦を押しのけるように生えた引っ付き虫(コモセンダン草)が繁茂していたのを根っ子ごと引き抜いたら、そこに線播きした陸稲が7センチほど芽を出していた。

この場所は雑草地で、石ころだらけで、耕耘していない荒地である。

だが、畑よりはるかに雑草地の方が稲が芽を出したとはびっくりした。

しかも、蕎麦下よりも、引っ付き虫の下の方がよく芽を伸ばしていたのである。

それから推測すると

日当たりがよい場所なので、稲は水分よりも太陽の光を必要とする。

また、蕎麦よりも、引っ付き虫の種類の方が稲との相性がいいのだろう。

もちろん、

引っ付き虫を抜き取らねば、稲は消え去る運命ではあるが・・・

 

カテゴリー: お金って何だ, 社会問題, 自然に生きる | 人が考えられることはあり得るが・・ はコメントを受け付けていません

多数決という集団暴力

多数決で決められないことがある。

それは命に関することである。

人の命を人が決めることはできない。

その人が自己であれ、他人であれ、

人が創った国であれ、国連であれ、

法であれ、神であれ、人の命を決められない。

命の問題を唯一決められるのは

自然だけである。

 

自然は神ではない。

人間の求める宗教の神や悟りではない。

人間の命は自然に創られた存在であるからだ。

創られた命が同じ創られた命を決定し、

その人の生死の判断を決定していいのだろうか?

それができるのは人の命が創りまた壊すことができる自然だけであろう。

それを創られた者同士がその命を創り壊そうとすることは

単なるエゴのオゴリによる妄想であり、不自然なことをしようとするから迷う

迷って、止む無く多数決で決めようとする。

それは単なる多数の暴力でしかない。

 

民主主義は国民が主人であるのに、国という多数決集団が主人である国民を支配し、その命を決定しようとするのは似非民主主義であろう。

一個の国民も、一個の国も同じ命の重さをもった存在であるというのが民主主義である。

それを多数の国民が、少数の国民の命を支配し、その生死を決定していいのだろうか?

それは集団暴力となんら変わりがない。

 

そうした自然から作られた人の命として判断すると

戦争による殺人、死刑も 人間のオゴリであり、

それは殺人、自殺、自爆テロと変わりない行為であろう。

自分が創造主のような神や悟った仏になったような教祖や信徒や政治家が

その人を救うという名目で、殺しを正当化する事件は後を絶たない。

 

もし、創られた人が多数決でも人の命を決定してはならないという自然法が

世界で承認され、一人1人の意識に働きかけたなら、世界はもっと平和になり、

自然にあった生活ができるように思える。

 

この地球自然を人類だけが支配し、他の生物の命を決定することさえも、

人類のオゴリであり、不自然である。

人類の命も生物の多様性の一歯車にすぎないことを自然は証明している。

 

弱肉強食という一様にみるのではなく生物共存と多様にみるのが自然

 

カテゴリー: お金って何だ, 社会問題, 自然に生きる | 多数決という集団暴力 はコメントを受け付けていません