縄文の多様性が現代人をうならせる

松形恭知陶工から

日展トークインで話していた縄文早期の土器の写真を送ってきた。

宮崎市田野町で出土した縄文早期の貝文方形土器

彼曰く

「縄文土器というとすぐに火焔土器を思い浮かべますが、

実際には一口に縄文土器と言っても、本当に多様なものではないかと感じます。
縄文時代は約1万年続きますから、その時期によって、
そして、今にようなグローバルな時代ではありませんので、その地域によって、
縄文土器の様式は大きく異なります。
南九州の縄文土器は、縄目模様より、貝殻で文様をつけたものが多く、
貝文土器といった方がよいかもしれません。
そんな多様性が、縄文土器の特色でもあると同時に、
現代人をもうならせる普遍的な力を持つような気がします。」
この貝文方形縄文土器の存在は、上野の縄文展には一つも展示されていなかった。
主に、北方に出土したものが中心で、火焔土器が中心だった。
シベリアから樺太をとおって日本に来た縄文人と、台湾から沖縄から九州に来た南貝文人の二種あってそれらがその土地土地で、独自に発展し、多様な文化を形成したという発見は
どうして縄貝文人は一万年の文化文明を築いたのが?
その多様性を認めた文化だからこそだと、松形陶工の美の視点からの指摘で分かってきた。

遺跡で見る宮崎の歩み(旧石器~弥生)

でみると、火山の噴火と貝塚の生活が基本になっているように思える。

縄貝文土器はみな底が小さく安定性が悪いし、中には底が尖った土器さえある、

貝がらのふちを押)しつけて文様をつけた尖底深鉢形土器
/ 函館市中野A遺跡

こうした縄貝文人は、海水を煮だして塩をとるために、砂浜に土器を埋め、その周りで薪を燃やしたのだろうと思える。

いわば縄文製塩土器だ

宮城県里浜貝塚出土製塩土器2500年前

では、塩を煮だしたり、また貝を煮たりしたとき、

それを杓子で取り出しときは丸い形がいいが、

もし、貝のスープなどをたくさんの人の茶碗に配るなら、方形の取り出し口が急須型がいい、

前原遺跡出土土器~鹿児島県の国重要文化財~

貝殻文角筒土器

レモン型土器

上野原遺跡では

上野原遺跡9500年前

鹿児島県歴史資料センター黎明館

 

こうした貝文方形土器は縄文火焔土器より、より現代的なセンスがあるように思える。

縄文土器の方が多数派で、貝文土器は少数派だったのだろうが、

過去の少数派は現代の多数派になることが歴史上多くある。

縄文時代の少数派の文化をみないと、一万年も続いた文化を理解できなかった気がする。

多様性が文化を 文明を 永く繁栄させるというのは

現代の政治でも、なんでも多数決で決めてしまう。

それは多数の横暴であり、集団暴力であろう。

多数決で決まられないものがある。

それは命であり、美であり、幸せでもある。

それは新しいものがよいとか、進歩した方がいいとかは一概にいえないことが多様性として柔軟で平和的な生活があるように思える。

 

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稲思考から自他共存生活に

陸稲栽培を8年模索してきたが、

蕎麦と陸稲による実験を契機に諦めた。

5年目には水稲と同じように苗を育て、マルチシートで雑草対策をして、植えるときには水をたっぷり与え、梅雨時に植え付けを完了させて成功した。

陸稲5年目にマルチと苗植えで成功した

だが、苗作り、苗植え、水揚げがかなりの手間が必要であり、マルチシートのコストも高く、毎年行うのは老人1人では無理である。また、自然に育てる農法とはいいがたい。

苗を作らず、直播で、しかも、マルチシートの代わりに蕎麦を播くという方法を試したが、今年失敗した。

稲は光と水がたくさん必要で、蕎麦の下では育ちにくいので、光が入る端でしか芽がでない。

また、稲は元来水辺に生えるもので、いくら品種改良して畑でも栽培できる陸稲の種を作っても、雨水だけでは生育できないことが、今回の実験でよくわかった。

それに、蕎麦の下に生えるのは、雑草も同じで、しかも雑草は雨水だけで十分大きく育つので、10センチくらい6月にのびた陸稲も、もっと大きく育つ7月の雑草に殺されてしまう。

蕎麦下の雑草と陸稲は半々で芽生えている

まして、

古代麦が枯れて、陸稲の芽が伸びるという理想で、麦と麦の間に、蕎麦をばらまき、陸稲を線播きしたが、蕎麦は5%くらいのびたが、陸稲は100% 7月には芽が出ない。

結局、麦と麦の間は雑草が大きく繁茂してしまったのである。

4月初めに播いた蕎麦10キロと稲20キロはほとんど無駄だったことになる。

麦間に雑草だけが大きくそだってきた7月

雑草抜きをすれば、陸稲が芽をでるかと思い、二度きれいに雑草を根っこから引き抜いたが、ほとんど陸稲は芽を出さなかった。蕎麦だけがいくらか芽をだしていた。

そこで、雑草を抜き取ると同時に、夏に種まく作物を手あたり次第播いて、雑草に負けない作物を探すことにした。

ともあれ、陸稲は8年で終止符を打った。

稲の原産地

イネは、中国南部の雲南(うんなん)~ラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれた

暖かい地域の山岳地帯で、雪解け水が豊富で、昼と夜の寒暖の差が大きいことがよく実を結ぶようだ。

その理由

なぜ、「昼と夜の温度差が大きい地方では、良い作物が採れる」の?

昼と夜の温度差(寒暖差)が大きい地方では、果実にしろ穀物にしろ、美味しいものが採れる。
その理由は、光合成と呼吸の関係に由来している。

昼間、光合成によって炭水化物が作られる。
夜になると光合成はできない。
その夜でも、植物は炭水化物を分化して糖を作り、それを使って呼吸活動をしている。
夜に気温がぐっと下がると、呼吸活動が抑えられる。
つまり、炭水化物の消耗が抑えられるのだ。
すると、作物体内の炭水化物蓄積量が温存される。
要するに、「夜が寒いと、炭水化物の損失が少なくなるため、作物全体の成育および果実に回る栄養が損なわれない」ということだ。
昼間、どんなに好天でたくさん光合成をしたとしても、夜が暑ければ、そのほとんどを消耗してしまうのだ。

熱帯性の植物である米がなぜ日本の北で大量生産されているんでしょうか

イネの栽培種にはアフリカイネ とアジアイネ があり、アジアイネはさらに生態型によってインディカおよびジャポニカに分類される。ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ)に分けられる。

コメの世界の生産量消費量は?

日本はかなり少ない

日本の国内では?

熱帯のジャポニカの栽培で、最もすばらしいのは 生産量が中国インドにつぐ三番目のインドネシアの

稲の二毛作また三毛作できる棚田がバリの山岳地にある

 

うちは棚田ではなく、水がなく、水はけがいいので、棚畑である。

その土地と気候にあった作物を選ぶことが、まず自然農法の一番の基本であろう。

それはまた、持続可能な農業の基本でもあろう。

やたら、稲作りにこだわりすぎたのは自給自足ということを目標にし、

主食がコメであるというのがあったからだろう。

自給自足は人間の生活だけでなく、植物でもそういえるもので、その土地と気候にあった生き方をすることで、そこで生きられる力を得るということであろう。

そこの土地でしかない特産物があってこそ、他ではできないからこそ、価値がある生き方農業であり、それが他地域の特産と交易することができるというのが、自給自足というより、自他共存できる生活ということであろう。

それは自他が平等に交流しあう関係こそ、ともに生きられる環境づくりといえるのだろう。

 

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縄文人が師匠

新宿高校のクラスの友人の松形恭知陶工の縄文の見識が私と同じであることをハガキで教えてもらった。

彼が1万年前の縄文土器を友人に見せたとき、

「随分作風がモダンになったな」と言われたそうで、そこから、縄文の工芸が少しも進化していないどころか、むしろ縄文の方が進化していたと感じて、縄文人が自分の師匠だと言う。

彼が住む宮崎県東諸県郡国富町は縄文土器が出土した

松元遺跡、井手口遺跡、塚原遺跡

であり、そうした1万年もの縁を感じている。

彼が国展のトークインで見せたものが宮崎で出土したものかな?

と思ったら

出土で近いものは

松元遺跡、井手口遺跡、塚原遺跡

彼が示した縄文前期の土器でネットで調べたが・・それに近いの

 

 

販売価格が18万円というのだから、ひょっとして彼はそれを自分で所蔵しているのかもしれない。

激しい火炎土器だと縄文とわかってしまうが、このくらい優しい火炎風土器だと確かにモダンである。

漆をぬれば、さらにモダンになる。

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縄文人のルーツを遺伝子から調べている人がいた。

日本人の遺伝子とイネの遺伝子を解析する(序論)

縄文人は陸続きだったシベリアから、また、台湾から沖縄から九州に船で渡ってきた様子がこの遺伝子解析や土器の分布からもわかる。

私が住む山梨でも多くの縄文土器が発見されているので、そういった関心が高いことも、縄文人のハートを受け継いでいるのかもしれない。

こうなると、超モダンな縄文土器になる。

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縄文の15000年前から現代まで進化したのではなく、退化しているのではないか??

科学技術の発展をもって進化しているか?といえるのだろうか。

人の心が平和的になってくるのを進化とすれば・・退化しているのもいえるのでないか?

縄文の後期に

祈る埴輪が登場する。たぶん、戦争が絶えなかったのだろう。平和を願う祈りがあったのだろう。

戦争が激しくなって縄文時代は終わったのではないかと想像できたりする。

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アーミッシュ(英語: Amish[2]、ドイツ語: Amische[3])は、

アメリカ合衆国のペンシルベニア州・中西部などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民(ペンシルベニア・ダッチも含まれる)の宗教集団である。

移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる。原郷はスイス、アルザス、シュワーベンなど。人口は20万人以上いるとされている。

進化も進歩も

過ぎたるは及ばざるが如し

といえるのではないか?

ほどほどに

欲をかくことなく、明日を生きるのではなく、今を生きるということで、

1万円も続いた縄文前期の時代の生活にリセットして、

そこから、平和な心でこの現代を見つめなおすことの方がほんとうの意味での進歩っていえるのではないだろうか?

 

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その事実より、どう捉え、どう生きるかが重要

物事を判断する上で、

特に科学においては、事実を組み立てていく知識であるし、

裁判でも、証拠としての事実が最も大きな基本となる。

社会において、こうした事実は

物事の結果として捉えられる。

だが、その結果の原因を追究することも大事であるが、

その追及そのものがほとんど中途で終わって結果だけをみて判断されてしまう。

平成28年7月26日の障碍者施設でその看護人が入所者46人が刺され、障碍者19人が亡くなった事件で、

逮捕された元職員が語った。

「障碍者は不幸を作ることしかできません」

彼もまた「障碍者を事実としての結果」で判断している。

妹の障碍者亜由美の看護ドキュメンタリーを撮影するNHK青森でディレクターもまた

「障碍者を事実としての結果」として「障碍者は幸福を作ることができる」とそれを証明している。

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障碍者という事実に対して

それが最も大事であるとしたら・・

どうして人によって、その事実から「不幸」とか「幸福」という正反対な考え方が出てくるのだろう?

そこから見えてくるのは

事実としての結果ではなく

その事実をどうとらえるか?

ということの方がより重要ではないか?

ということである。

障碍者の亜由美と双子の学生もまた別なとらえ方をしている。

障碍者はその家族より社会が責任をもって看護すべきとして

障碍者は「幸でも不幸でもなく、社会的病人」としてみている。

18分のところで、女房が語る

「主人が何をしたのが大事ではなく、何のためにそうしたかが大事である。でくの坊には判らないと思いますが」

つまり、

その結果としての事実よりも、その原因となる事実の方がより重要だととらえる。

障碍者は一種の病気としてとらえることもできるが・・

病気も、健康も、一時の結果としての事実としてとらえることができる。

だが、その事実としての結果になる原因が何か探ることは難しい。

そうした結果よりも原因の方が大事としても、それを判明させるのが至難の技なのである。

となれば・・・

簡単にわかる結果としての事実、

その事実の原因がわかる難しさ・・

それからいえることは?

その結果としての病気や健康という事実を人それぞれがどうとらえるか?

それが最も大事ではないか!

ということになる。

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どんな結果も原因としての事実も、一瞬の出来事である。それが絶対的に持続することはありえない。

生々流転の事実と現実からすれば、

その事実としての結果も原因も重要ではなく、

その事実を人一人がどうとらえるか?!が重要であり、

それは「どんなことをしたか?」

というよりも、

「どう生きたか?」

という過程が重要であって、「結果や原因としての事実」ではない。

健康や病気や障害は一時の流れゆく事実であり、

大事なのはそれらの事実の前の生き方過程にある。

健康者でも、病人でも、健康であろうと努力していく生き方が重要である。

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ダイエットは目標体重がクリアしたら終了ではない。

ダイエットは一生涯 健康であろうとする意識と努力が重要であり、その結果が健康であろうと病気であろうと、障碍者であろうとそれは問題ではない。

 

その事実より

その事実をどう捉え

自分がどう生きるか?!

が重要である!

 

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人間的な組織とはピラミッドではなく地球型

組織の参照単位は家族で

その構成は平均的に祖父祖母・父母・兄弟姉妹で、6人

それが家長のような1人が絶対的権力を持っていると

家族の接待権力者がいる6人家族構造

人間の骨組みは固い骨と、柔らかい筋肉で、柔軟に動くようにできている。

固い骨に伸びる筋肉と縮み筋肉がついて自由に動ける

人間の眼は左右の2つ、耳、足も2つで、左右のバランスをとるように感じ動く。

人間関係も、そのコミュニケーションにおいては矛盾する正反の談話で進み決断されていく。

6人家族の団らんする平等な構造は

6人家族で平等な団らんは地球型構造

もし、6人家族が5組の30人社会組織を作ろうとした場合、

絶対的権力構造のピラミッド組織では6人×4組=24人になり、6人1組は外れてしまう。

6人家族4組の24人組織になり、もし12体12となった場合絶対権力者が決められる

1組の6人家族は省かれ、社会の一員とはなれなくなる。

それは4組だと組織絶対決定人が2対2になり、民主的決定はできないので、絶対的権力者1人に決定権があって初めて治められる。

しかし、

6人家族5組30人の柔軟な地球型組織の場合

6人家族5組30人の地球型受難組織はどのメンバーにも決定権がある

しかも、6人家族はそれぞれ別な家族とのつながりがあり、家族の内外において平等であり、それぞれが決定でき、その時々で自由に動け柔軟組織である。

どの家族も、どのメンバーも、その組織から省かれることもない。

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現代の世の中はお金が法的に絶対的権力を握っているが

そのお金の仕組みが中央銀行発行から市中銀行への貸金から始まり、ピラミッド構造になっている。

お金を多く持つ人が持たない人を支配している。

だが、

ビッドコインなどの仮想通貨は

ブロックチェーンで、中央銀行を必要としない、平等構造を持つ地球型である。

今の仮想通貨は投資して金儲けするためのお金であるが、

中央銀行がその支店のような市中銀行に貸し出すシステムではなく、

仮想通貨の発行者が全国民にまず貸し出すシステムにすれば、まちがいなく地球型で平等なお金の循環が血液のように行われるだろう。

その組織が人間味あふれるかどうかは、その構造が柔軟な地球型か、

また、生活の基盤となるお金が平等にまず配られるかどうかで判断できるものである。

 

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