夏草や兵どもの競い合い

夏草や兵どもが夢の跡

芭蕉の句の意味とは違うのだが

夏草がまさに兵どもなのである。

それは夏草は兵どものように繁茂力と競争力が大きく、多種多様な植物が競って大きく育つ。

一方冬草は種類が少なく、植物動物において冬眠するので、競争力が少ない。

こうした自然傾向は畑にもいえるのであって、

夏草を陸稲一つに絞った農法は自然ではなく人為的で失敗する定めだったように思う。

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今年の関東は梅雨明けが22日も早く、雨も少なかったので、

急遽、水やりを毎夕していたが梅雨明けになっても、麦の間の陸稲の種から芽がほとんど出なかった。

芽が出たのは夏草の雑草ばかりである。もっとも、麦の間の陸稲とともに播いた蕎麦は芽を10%出したのは水分が少なくても育つ雑草力があったためだろう。

まさに、焼け石の水の徒労に終わった。

古代麦の間は蕎麦と雑草だけが芽生え陸稲は一切芽が出ない

この失敗から、夏草は一種類を育てるのではなく、競争して多種多様な作物を育てることが自然であるとわかった。

熱帯の森はまさに多種多様な植物動物が競い合って生き抜いている。

それに反して、寒帯の草原は一種類また小種類の牧草が競わずに生き抜いている。それらを食べて生き抜く動物もジャングルに比べ極端に少ない。

熱帯のボルネオジャングル

寒帯のモンゴルの草原

日本は温帯であり、春夏秋冬の四季があい、また、その土地にあった作物を育てることが自然に合った農法であろう。

今まで自然農法というのは農薬などを使わない農法だと思い込んでいたが、自然農法は自然に合った育て方をする農法というとらえかをしたた方が、より研究また生育しやすいように思える。

夏草は多種多様な作物をその土地に合わせた作物の中で競争させながら、育てていくのが自然農法というものだろう。

 

 

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モノでなく心を売れ

マレーシアで長年銀行屋さんだったタメに、ボルネオ学会で発表するプレゼンのタイトルのことを相談した。

アブラヤシを売るよりジャングルを売れ(Sell jungle from oil palm)

ところが、ジャングルを売るという意味を逆の意味のジャングルを開発すると勘違いして、

ジャングルの環境保護とは逆にとらえた。

そこで、環境保護する観光事業の意味だと言ったら納得してもらった。

この発想は

麦を売るより麦の風景を売れ!

という視点の転換を応用したものだ。

時代屋の女房という映画の始まりに

ふらっと骨董品屋に立ち寄った女が

「商品を売るのではなく時代を売る時代屋さんね」

「いろいろな時代を売る時代屋かあ・・・」

こういう発想は意外と理解しにくいみたいで、

タメの陶芸品を買うとき、

その陶芸の芸術的美を判断して買おうとするタメが多かったが、

私はこう答えた。

「陶芸品を買うのではなく、タメの心を買うのだよ。

タメが教師をやめて、陶芸の道に老後を生きるその姿に元気づけられるだろう。

その陶芸の価値がどうのこうのではなく、タメがその陶芸を作ったことに意義と価値がある」

モノを買うのではなく、その心を買うのではある。」

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私が営業マンまた小売店をしていたとき、

「商品を売るのではなく自分を売れ」

というのが、私のモットーだった。

それは寅さんの露天商と同じで、

どんなガラクタであっても、そこにストリーと語りを入れて、面白おかしく売り切ってしまう。

お客は

ガラクタを買うのはなく、寅さんの口上のストリーと寅さんの人格を買う

のである。

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今時代はモノから心の時代へと変貌している。

それは

経済社会から環境社会への変換でもあり、

お金から命への価値転換の時代でもある。

それは

贅沢よち質素な生活に価値が出てくる時代でもある。

新しくなるモノより変わらない心に価値が転換している。

それは

縄文と現代の心が変わらないモノの価値を探すようなものである。

八頭身の美より健康と個性美への転換でもある。

それは

肉体という常に変化し、現れては消えゆくモノに迷わされず

心という数万年前から今後のまた人類の変わらない心に焦点をあてて生きていく、

選んでいく、判断していく・・・そんな時代が来たということだ。

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その欲望は自然に合っているか?

とうとう麦・蕎麦・陸稲の実験結果が出た。

例年だったら、梅雨明け頃であるが、今年は22日も早く梅雨明けがあったせいか、毎夕水やりをして、陸稲の芽が出ることを祈り続けた。

1、蕎麦と陸稲の種を4月初めに播いた結果

陽が当たる通路側は線播きした陸稲は10センチくらい芽がでた。

だが、90%は蕎麦や雑草に負けて芽が出なかった。

三度、雑草を抜いたが、やはり、蕎麦と雑草負けして5センチくらい芽が出ていた陸稲は消えていった。

 

陸稲は日当たりのよいところしか芽がでない

2.古代麦と蕎麦と陸稲

4月初めに、古代麦が10センチ芽生えているとき、その麦の間に、陸稲を線播き、蕎麦をばら撒きした結果は・・・

100%近く陸稲の芽は一切出なかった。

5%くらい蕎麦だけが平均20センチくらい芽が出た。

例年の雑草の4種類くらいが平均15センチくらい芽生えた。

それが95%であり、一度根っこから引き抜いても、二週間後はもっと大きくなり、

平均30センチほどの繁茂した。

古代麦の間は蕎麦と雑草だけが芽生え陸稲は一切芽が出ない

古代麦も蕎麦も、ほとんど人が何もしないでも自然に育つ。

だが、陸稲は人がどんなに水あげ、雑草抜き、マルチシートにしても、手間と費用がかかり、自然には育てることは難しい。

 

いったなぜか?

 

陸稲は水稲でなく、畑でも稲が育つよう品種改良されたものである。

その品種はとトヨハタモチがほとんどであるが、その畑作が難しく今はモチ米として流通しているのは水田で栽培された水稲である。

それは稲が夏草で水辺に生えるのが原種の特質であり、どんなに品種改良(遺伝子組み換えも含む)しても、人手と資本をかけなければ冬にまた畑には育たない。

その原種の稲の特質にあった自然の育て方をしないと、

労多くして功少なし

骨折り損の草臥れ儲け

犬の尾を食うて回る

なぜ?犬は自分の尻尾を追いかけるのか?

それがストレスであるとしたら、その結果はさらなるストレスである。

タバコやギャンブルの依存症に通じるものである。

 

その欲望は自然に合っているか?

 

水草の稲を畑で育てようとするのは人間の欲望であって、稲の欲望ではない。

人間が食べやすくするために、稲のような他の生物をいろいろと品種改良したり、農法を変えたりすることは、人間の都合勝手のエゴであり、相手との共存を考えすに強制的に支配しようとする人為的であり、それは多種多様な生物が共存して成り立つ自然の欲望に合致していない。

 

どんな夢も叶うと言うが?・・・・?

 

あきらめずに、コツコツやっていればいつか叶うともいうが・・・?

 

それらの行為がよくよく他との共存ではなく、自分だけのエゴのためだったとしたら、そんな夢も欲望も、叶わない方が世のため人のためであろう。

 

陸稲だって、その気持ちになれば、無理してストレスを感じて、生きようとはしないだろう。

人間からいくら過保護に育てられても、それはよけいなお世話であって、無理やり生かされるより、自殺してしまいたくなるのがむしろ自然ではないか?

 

麦と陸稲の二毛作を8年間追いかけてきたが、

今回の古代麦と蕎麦と陸稲の三毛作の実験結果において次のような結論が出てきた。

 

1.いろいろな麦を育てた結果、6500年間も品種改良されていない古代小麦が一番自然に育ちやすく、その味も美味しい。粉に加工しなくても、そのまま粒としてごはんのように食べられる。

それは品種改良したり、遺伝子操作したりして、人間の都合のいいように作られたものは アレルギー反応が出たり、その品種をめぐって、お金や権利で喧嘩の種になりやすい。

自然の品種に、著作権はない。それらを中心に手間がかからない自然に育つ作物を中心に農業していこう。

 

2.陸稲トヨハタモチの栽培を諦めることにする。

今回 陸稲の種20キロ、自家栽培の陸稲の種5キロを全部播いた結果が、ほとんど芽が出なかったことから解ったこと。

二毛作自体、手間がかかるので、しかも畑作だったら、手間も費用も半端なくかかり、自然に合致しない農法であり、「諦めが肝心」である。

自然に合致しない夢は諦めた方が無難で、取り越し苦労しなくてもすむ。

 

 

3.野沢菜と蕎麦は自然に育つ

8年で、自然に繁茂したのが野沢菜である。

7月で枯れ、その種が零れ落ちて、また芽が出てきた。

野沢菜が枯れ、その種が零れ落ちまた芽を出した2018,7,15

蕎麦の種も零れ落ちて、そこからまた蕎麦の芽が出てきた。

蕎麦の種が零れ落ち、また蕎麦の芽がでた2018.7.15

昨年地這えキュウリの種をたくさん自家採取して、今年播いたが、まったく芽が出なかった。

その地這えキュウリはF1種か、品種改良されたものであったと思われる。

今後、種を自家採種また、採種しなくても、毎年芽を出すような雑草のような作物を中心に、雑草負けしない、雑草と共存できる作物を探すため、陸稲をやめたところに、ランダムに種や球根や苗を植えてみる実験に切り替えることにした。

 

蕎麦や野沢菜や長ネギのように雑草まけせず、手間もかからなく育つ作物を探す旅をしていこう。

夢や欲望を叶えることが重要ではない。

自然に合った夢や欲望を探すのが重要なのだろう。

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Sell jungle from oil palm

ボルネオ島の先住民「首狩族」による民族紛争

先住民であるダヤク族の土地に、政府がマドラ島の住民を強制移住させたのが、発端である。

アマゾンの森の伐採業者と先住民の闘いは政府は法だけ作ってその執行は先住民まかせである

そもそもボルネオ島はインドネシア・マレーシア・ブルネイの三つに分かれていなかった。

それが、オランダとイギリスの侵略と、そこに住む民族間の争いから生まれてしまった。

華僑の多いシンガポールもまた独立したのも、そういう歴史があった。

ボルネオの熱帯の森は日本の経済発展のために、次々と乱伐されていることも、こうした先住民の生活を阻害していることには変わりがない。

こうしたグローバル社会の問題はローカル社会と比例するので、

侵略したローカルなイギリスの森の取り組みが将来グローバルなボルネオの森の取り組みになってくるだろう。

我々は侵略し略奪する視点から、逆の侵略され、略奪される原住民や野生動物の視点にたって、この世界を見つめなおしてみることから、まず始めてみよう。

私は40年前、ゴリラの恰好をして結婚式や誕生会に花束やメッセージカードを届けるゴリラ便という商売をしていた。

その時、絶滅危惧種であるゴリラの気持ちになって人間社会を見つけたことがある。

ゴリラと同じ類人猿・絶滅危惧種であるボルネオのオラウータンの気持ちになり、また国境など関係ない先住民の心を受け取ってみれば・・これからの平和なまた持続可能な森と社会と農業に行き着くことができよう。

その原生林や野生動物とは反対照的な続可能な未来都市をどう建設していくかということにも繋がっている。

自分の姿は鏡を通じてみることができるように、森の民と都市の民の未来の想像をして、そこからどう地球の森と都市の生活を結び付けるかというアイデアが出てくる。

それは経済と環境の矛盾をどう解決するか?

一つの提案をここでしたいと思う。

グリーンツーリズム 都会人が田舎での農業生活体験する旅のことである。

である。

これを50年前から国際的なボランティア(グリーン)ツーリズム

国連と連携して、今は世界遺産を守るボランティアが主流になってきている。

それはまた、

都市と田舎、海外コミュニケーション、現代人と原住民との交流

それは森と都会の調和、環境と経済の調和への一歩は互いの理解から始まる、

ボルネオの先住民と一緒に暮らす体験

マレーシアの少数民族イバン族のくらしを知り、守る2週間。ボルネオ島ワークキャンプ

日本の中高生が現地の子供たちとスタディツアーをして理解しあう

持続可能な農業とは

持続可能な森と都市であり、国際交流であり、古代と現代の理解であり、野生生物と人間との共存である。

理解はまず偏見なく出会うことから始まり、

ともに生活し、語り合い、共存への道を探ることであろう

そこから、

森の環境と都会の観光経済とが出会い、調和する未来が見えてくる。

ボルネオ先住民族の文化と伝統を学ぶ「マリマリ文化村」

こうした観光とともに、一緒に生活体験するグリーンツーリズムまたボランティア・ワークキャンプを合わせた森と都市の理解しあう一歩があるだろう。

持続可能な農業も社会も強大な国家が強制的に治めるピラミッド構造ではなく、

多様な民族・宗教・考え方・生活・生物がまるで語り合い、理解しあって楽しめる環境の地球のような円い構造であることが必要だろう。

我々人間もあらゆる生物もみな ピラミッド建造物に住んではいない、円く回っている地球に住んでいることは真実なのだから。

その真実を認めて、明日を見つめてみよう。

 

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千年一昔

縄文展に行って感じた。

縄文の生活はつい一昔だと。

人類誕生を赤ちゃんが生まれたと仮定すると、

1000年は1年に相当し、人類は今50歳になる。

弥生時代は2年前で、縄文時代は15年前に始まった。

その前までは寒冷化で、石器時代で他の動物との暮らしの差はさほどない。

温暖化になって、動植物が繁栄し、地域によっては、縄文時代の暮らしをしている先住民も熱帯地域にいる。

今文明が栄えというのは、弥生時代あたりで、

哲学・宗教・科学が発展したのは2年前あたりだ。

世界史を見てみよう。

今の世界の国々ができたのは1か月前であり、科学技術が発展したのは2か月前である。

1年半前はローマ帝国や三国志の時代である。

先日、50年前の高校のクラス会があり、風貌は変わったが、中の心はほとんど変わりがない。

肉体は変化するけど、心はほとんど変化しないのがよくわかる。

人類の生活スタイルは大きく変わっても、心はほとんど変わりがないともいえる。

最近、医師や免疫学の大学教授に教えられたのだが、

今の西洋医学は原始宗教とほとんど変わりがない。

儀式や占いや迷信の科学技術だと知らされ、驚嘆したばかりである。

美の観念も、縄文と今と比べてみれば、偉く違うが、心は同じであるのがわかる。

同じ彫刻であり、究極の美はまるで逆であるが・・・・その美の心は同じであるといえよう。

今は空間的な視点で 地球村とか 地球家族という視点が重要になっているが、これからは

時間的な視点で、人類の千年一昔というように考えて、

体重やお金や健康を数字で判断して、ストレスを感じて、病気になったり、犯罪に走ったりしないで、もっと ゆったり のらりくらり 適当に喧嘩仲良くして、楽しく生涯を暮らしたいものである。

 

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