一休がアラジンのランプを手にしたら・・

アラジンのランプをこすると魔神が現れ

「(人生において一度だけ)どんな願いも3つだけ叶えよう」と言われた場合・・

 

貴方はどんな願いを3つするだろうか?

欲望はその時その場でも違ってくるし、その一つを叶えられてもまた次の欲望が湧いてくる。

飽くなき欲望とか、欲望の泥沼とか、終わることのない欲望とか言われ、それは無限に増幅していく性質がある。

それを3つに限定することは難しいが、その時その場においての自分の状態で、叶えたい夢の優先順位を決めれば、上位3位まで上げればいいだけである。

 

だが、一休さんだったら、きっとこう答えるに違いない

どんな願いも叶えられる力を1つだけお与えください

「3つも要りません。1つだけで十分でございます」

「なんとまあ、欲のない者だな。解った。一体それは何じゃ?」

「どんな望みでもですね?本当に約束してくださいますか?」

「くどい! どんな望みでも叶えてあげよう。約束する!」

「そうですか、ありがとうございます!

どんな望みでも叶えられる力を私にお与えください!

 

さて、その後、魔神と一休はどうなっただろうか?

 

魔神は一言も発せず、魔神もアラジンのランプも、

その場から一切消えてしまい、

魔神は一休の心の中に、アラジンのランプは一休の体の中に

溶けるように入り込んでいった。

 

かくて、

一休の心は魔神に

一休の体は魔法のランプに

なったとさ! 

END

これは

チームの力を最大限に発揮するコツである

1人はみんなのために、 みんなは1人のために

1 for All. All for 1.

の精神と同じで、すべての願いは一つの願いに、 一つの願いはすべての願いに成る

という、絶対1と相対Allの総合力が最も自然かつ奇跡的な力を生み出す原理からの譬え話にしてみた。

 

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生1と死0の二進法ですべて表現できる

今思索や計算する時、最も使われているのはパソコンである。

このパソコンは電気信号のスイッチONを1、スイッチOFFを0として、どんな数字もどんな言語もどんな絵もどんな映画も表現できる。

それは五次元の意識において、存在を1、無を0という絶対(存在と存在しない)と相対(存在と無)を四次元の世界をその1と0の組み合わせで表現できる。

二進法とは

0 と 1 とー(負)と、小数点の4 種類の記号のみですべての実数の表現ができる。

通常使われる十進法を二進法で表すには・・

人間も、個人も、その遺伝子情報もまたそれらの組み合わせで表現できる。

また

一次元  1m 1の一乗 長さ

二次元を 1㎡ 1の二乗 面積

三次元を 1㎥ 1の三乗 堆積

四次元を 人が1m歩く速度を1秒とすると・・その運動量は

  1の四乗 1m×1秒 運動(エネルギー)量

と表現できる

同じ数字を掛け合わせる累乗(冪・・べき)で次元が繰り上がる

二進法(にしんほう)とは、2 を底(てい)とし、底およびその冪(べき・累乗)を基準にして数を表す方法である。

英語でバイナリ (binary) という。binaryという語には「二進法」の他に「二個一組」「二個単位」といったような語義もある。

片手の指だけで31まで数えられる二進法は

右手指から

2の0乗=1 2の1乗=2 2の2乗=4 2の3乗=8 2の4乗=16

とし、指を伸ばすとスイッチON=1、指を縮めるとスイッチOFF=0の二進法の数字の組み合わせになる

10010(2進法)=18(10進法)

言葉には相対的また対義語、類似語があり、それらは物事の本質が生と死の二進法の意識がそれをベースにしてなっているからである。雌雄合体や細胞分裂による生命の繁殖もまた同様である。

1を絶対、1と0を相対、10010のようなものが総合

であり、物事をパソコンのように二進法で表現でき、

また、

絶対と相対と総合で真実を意識的に把握していくことができる

 

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相対と絶対そして総合力

何かと思索すると

相対的思考と絶対的思考にぶつかり、

その両者の違いを明確にしないと、さらなる思索ができなくなってくる。

 

相対と絶対の違いは・・

五次元における意識の世界において

存在と無または生と死の二者択一をする場合において、

存在する :  存在しない とした場合・・存在がするかしないかにおいては、存在が絶対になる

存在しないモノを無と仮定とした場合

存在  :   無  として対立させた場合・・それは存在しない有を無として想定するので相対となる

 

相対の場合・・

相対は必ず両者は同格になり、その力の優劣はなく、本質的に同じ力量を持つ。

だが、この世界にまったく同じモノは存在しないし、また、相対するモノは想定として成立するもので、四次元の世界の自我のようなもので、過去の自我と今の自我と未来の自我は似ているが、まったく同じではない。

無機物におけるまったく同じ質量形であっても、それが空間的にどこにあるかでも違い、また、それが時間的にそこにいつあったかでも違ってくるので、まったく同じモノは4次元世界ではないといえよう。

だが、意識の五次元の世界では

自分もその存在も、鏡をみるように想定することができるが、それは何かが必ず反対(相対)になっているモノが想定できる。

4次元では

人は死んだら無であるが

5次元では

人は死んだらあの世に逝き、霊となる

つまり、死んだ時の個我を存在するかのように、霊といい、生きている世界をこの世といい、死んでいる世界を彼の世として存在しているかのように想定することができる。

数字でいえば、

0 の発見である。 0 を想定しなければ、どんな数学も成り立たない。数字だけでなく、言葉も知性も感情も働かない。

そこで問題になるのが

存在と存在しないという絶対的な意識による思索や知性がありえるか? ということである。

数字に 0 がないとしたら、どういう生活ができるか?ということでもある。

0 を 1ではない・・2ではない・・3ではない・・

だったら、何だ? 解らない! となるだろうし、思索の堂々巡りになり、何事も空回りして、何事もできなく、また生きることさえもできなく、自殺に追い込まれてしまうほどの病気になってしまうだろう。

また、この世界に絶対的存在としての創造神がつくる宗教的世界だとしたら・・

神の存在しかなく、それ以外はみな神ではなく、存在もしていない

ことになり、その思索の行先は

すべては神 どこにも神がおり、すべての心の中に神がいる

ということになってしまう。

そして、神に相対する悪魔は存在しないことになり、もし、神と悪を戦わすような事象があったら、矛盾することになり、神は絶対的存在とは言えなくなる。

神をこの世を創造した存在とするならば・・

創造する神も創造される神も同じ存在でなければ絶対的な存在とは言えない。

つまり、絶対的な意識では

神か? 神でないか? この二者択一しかなく、同じところを永遠に回り続けるエンジンのようなエネルギー体としてしか表しえない。

物理学のエネルギー保存の法則(孤立系エネルギーの総量は変化しない)のようなもので、エネルギーが相対するモノに伝わったとしても、両者のエネルギーの総量は変化せず一定であるということでもある。

神という存在をエネルギーとして捉えると相対するモノではなく、相対する両者を合わせた総量であるエネルギー体ということになる。

神と悪魔と相対的な戦いとしてではなく、神と悪魔両者の力を足した総合生命力が本当の神(創造力)といえるだろう。

絶対的思考が堂々巡りになってしまうため、それを治めるためには、

相対的思考を総合して捉える総合思考というものにすれば堂々巡りを静止させることができる。

例えば

矛盾という言葉の成立をみると。。

どんな戦争でもこの矛盾の戦いである

絶対的思考・・

「この矛はどんな盾でも貫く」

「この盾はどんな矛も貫かせない」

それで、人々は言い争いになるので、論議の堂々巡りの争いごとになる

だが、

「その矛でその盾を突いたらどうなる?」

これが実際的解決法であり、相対的思考に当たる。

それは絶対的矛と絶対的盾を想定した場合、その両者を合わせたらどうなるか実験、実証してみよう。

「その結果

その矛はその盾を貫いたが・・

その矛はあの盾を貫くことができなかった・・

あの盾は別な矛に貫かれた・・」

こういう現象が続くのが古今東西の歴史でもあろう。

そして、

 

その実験実証を具体的にまとめて、総合した結果は科学である。

この科学はいわば総合力であり、総合的思考ということになる

そして、その総合的範囲はすべてではなく、みな一部にしかならないので、

エネルギー保存の法則のように、孤立系エネルギーの総量であり、孤立系組織における総合的思考になるので、それらはみな具体的事象でなければ無意味である。善とか悪とかのような抽象的な事象には使えないものである。

こうして

絶対的 相対的 総合的な思考を考えてみると・・

物事の問題をこの三者の意識で解決していくことができると思える。

 

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意識は無意識にどう接したらいいか?

どんな訓練も教育も鍛錬も・・自分の無意識を自分の意識に従わせるか?

それを克己ともいう。無意識は才能であり、意識は努力である。

だが、古今東西、意識と無意識の戦いは永遠の課題にもなっており、意識が無意識に勝つことは不可能であり、自分に打ち克った状態を悟りともいうが、それは不可能なので 悟れず(不悟)と言い切ることができる。

古代のソクラテスは教師を産婆に譬えている

「産婆たちと同様の事情で、ぼくは智慧を生めない身なのだ。

だから、既に多くの人たちがぼくを難じて、 他人にたずねるばかりで、自分は何の智慧もないものだから、 何ごとについても、自分一個の見識は示さないと言ったのは、 いかにもかれらの非難の通りである。

これにはしかし、次のような仔細があるのだ。 ぼくは取り上げの役を受け持つように、神が定め給い、 生む方の役は、封じてしまわれたのだ。

だからこそ、ぼく自身は、まったく少しの智慧もない身であり、 自分の精神が生んだもので、これといって智慧者めいた発見などは、 何もないのだ。

ところが、ぼくと交わりを結ぶ者はというと、 当初のうちこそ全然の無智と見える者もないではないが、 やがてこの交わりが進むにつれて、 神の許しさえあれば、 すべての者が、わが目にも他の目にも、驚くばかりの進歩を遂げることは、 疑いないのだ。

それがしかも、これは紛れもない事実なのだが、 ついぞこれまで、何ひとつとしてぼくから学んだというわけではなく、 ただ自分だけで、自分自身の許から、数々の美事なものを発見し、 出産してのことなのだ。

ただしそうは言っても、 その際の取り上げは神の御業であり、ぼくもまた、それには微力を 致しているのである」

 

意識は教師、無意識は生徒 知恵は自然の力

知恵は生まれる子であり、教師と生徒はお互いに話し合い(弁証法)しながら、いつのまにか、そこから知恵が生まれてくる。その知恵の赤子を生み出すのは神の御業である。

社会において方向性を示す意識は政府、実現するのは国民無意識である。

政府が常に正しいとは限らず、国民がまた常に正しいとは限らない。

それは教師と生徒との関係でもそうであろう。

 

ソクラテスの産婆術から見えてくるのは・・

意識と無意識を大いに語らせ合い、そこから新しい道・・自然の道を・・を生み出していくところに

本当の生きる道が見えてくる。

意識が悪い欲望から出た洗脳とか、教育、また法律もある。

だからこそ、意識で常に無意識を強制的に従わせようとすると、自然に背いてしまうし、本当の自然の道は開けてこない。

 

緩消法を産婆術に譬えてみると・・

筋肉が伸縮できるのは・・

筋肉は中心に向かって縮む一方向の力しかないが、

その筋肉を伸ばす力は対となる拮抗筋が縮むことで可能になる。

筋肉は中心に向かって縮む一歩横行しかできないが、その対となる拮抗筋が縮んで伸ばす

 

つまり、意識と無意識の関係は・・筋肉における相対する拮抗筋の関係になる。

筋肉とその拮抗筋はアンバランスなことが多く、一流のスポーツ選手はそのバランスをよくしようとして、拮抗筋が大きくなることが多い。

克己と鍛錬はいわば筋肉にように、意識と無意識のバランス(調和)をさせることによって、自然の力(意識+無意識)が働くことである。ソクラテスの弁証法でいえば、正反合は正は意識 反は無意識 合は知恵(自然力)である。

 

緩消法においては、

緊張物質は伸縮によって排出されるが腱や関節に残留しやすい

そこで、

指先1センチ幅を500g程の手の重さ位で、緊張物質が溜まって痛いところに圧し、2秒ごとの伸縮を繰り返すことで、緊張物質(痛み)を消していく。その伸縮は拮抗筋もともに行わわれ、調和させていく。

知覚される意識や感じられる無意識の動き(問題や痛み)はもっとも深い原因となるものがあることが多い。

それは筋肉全体が腰(丹田)中心に全身とつながっているように、その意識やその無意識の原因となるものを探して解消することも必要になってくる。

丹田に繋がる上半身の筋肉

 

丹田に繋がる下半身の筋肉

全身の重力や筋力の中心の丹田に緊張物質が溜まらないような無緊張状態にする

・・これが禅でいう空であり、、何にも捕らわれることなく自由に行動(伸縮自在)できる健康状態をいう。

例えば

ダイエットしようとするのは 意識・・筋力

食べたいという欲求は 無意識・・拮抗筋

両者を調和させ、どちらの葛藤を根本的に解決するのが・・

食事と運動のバランス、食事内容のバランス、生活リズムの安定化などを

ダイエットと食欲(リバウンド)を何度も繰り返し、そのストレス(葛藤・苦しみ)が無くなるまで

ゆっくりとやり続けることが自然な健康への道であろう。

 

 

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痛みをとる緩消法

指一本で痛みを完治させる・・

 

身体が痛いときは筋肉が固まっている

筋肉中に老廃物やカルシウムという緊張物質が入ることによって筋肉の緊張を引き起こしている。

筋肉は伸縮運動によって緊張成分を外に出している

筋腹の部分なら緊張物質は排出しやすいが、腱の部分はどうしても残りやすい構造になっている。

腱はほとんど関節に集まっているので、これが関節痛の原因になる

筋肉内からすべて緊張成分を取り除くと「無緊張」と呼ばれる状態になる。

 

緩衝法とは

緊張している筋肉に指を当てたまま筋肉を伸縮させる

指を当てることによって、筋肉内の伸縮のバランスが崩れる

そうすると緊張物質が排出される

バランスを崩すためには指一本の太さ面積のアプローチでないと、筋肉をやわらかくできない

一度腰部の深層部まで無緊張にさせてしまうと

筋肉は常に伸縮するので固まれないので、痛み度7以上にならなくなり、二度と再発できない状態になる

 

なぜ完治するのか

筋肉は固まると「縮む力」が働くので骨を引っ張たり、血管を潰したりする

下半身の完治の場合

血管と神経の関係の位置が特定できているので

どこをどうしたらこの痛みが消えるかがハッキリと答えられる。

 

上半身の完治の場合

腰の筋肉が固まると肋骨を下に引っ張る力が働く

肋間筋を固めて肋骨が下に行かないように無理やり止めている

最後は肩でしか負担を受け止めるところがないので

肩こり四十肩五十肩になる。

肩の筋肉が固くなると腕が痺れたり、冷えが出たりする

首の筋肉が固くなると視力低下したり、花粉症になったり、耳が聞こえなくなったりする

完全に治す場合、腰の筋肉を一度すべて柔らかくする必要がある

 

慢性痛と言われるものはすべて完治する

古傷の痛み、花粉症や喘息は治り、血圧は下がって安定するようになる

緩消法のアプローチしていると同時に脂肪の分解もできるのでウエストが細くなったり、顔が小さくなったりとか、部分痩せができる

緩消法には

慢性痛を完治するのに利用する

その場の痛みを即効で消す「即効緩消法」

2つがある。最初は即効で痛みを消して信頼関係を持ち

完治するには、通院か、自分でこうすればできるかを教える

 

緩消法のポイントは

1.筋肉にかける圧は500gで統一する

2.筋繊維に対して直角に指を当てる

3.指を当てる面積は1㎠ 以内(指先を当てるイメージ)

4.2秒間で筋肉を伸縮させる

 

四十肩五十肩の場合、上腕部や肩の筋肉を弛緩しても痛みが改善しない場合が多い。

本当の原因は別の部分にある。それを探す場合、一番伸びている筋肉を弛緩するとよい。

腕のの付け根にある大胸筋の一番固く痛い部分を探し、それを弛緩する。

縮めた後に伸縮を0.5秒以上止めると緊張物質が排出できない

慣れてくると一往復毎に慣れない場合は2往復3往復してから、、2秒間以上指圧を離し、同じ場所か、違った場所を再び指圧し筋肉を伸縮させる

ずっと指圧しつづけると緊張物質が排出できない。

筋肉の名前を覚える必要はなく、固いところを柔らかくするだけでいいから。

指先に当たる筋肉が伸縮するのが解ればOKである。

一番痛いときに、一番緊張している筋肉を柔らかくしていく。

腰痛

 

 

→その他、症状別50本の動画の無料配信が見られるweb

 

単に背骨を腰から首までの背骨を10分間揺らすだけで痛みを解消させることができる。

特別な指や技を使うのではなく、背骨を中心に揺らすだけである。

 

この揺らし運動は自分で金魚運動をすればできる。

 

背中の筋肉や腱は自分で指で押せないので、こうした背骨を揺らすことで、筋肉を和らげることができると思える。

「ためしてガッテン」

腰痛は寝返りを15回以上する人は腰痛が起きないと発見される

そのことは、この寝返り運動はいわば背骨を揺らす運動であり、また金魚運動でもある。

だから、寝返り運動を意識的に15回以上すれば、背骨の周りの筋肉は柔らかくなるので、

腰痛予防体操には最適であろう。

 

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