心身を車に、人生を山登りに譬えると・・

心身を車に例えると

 

昨日、意識をハンドル 無意識をエンジンに例えた。

昨年は

交感神経をアクセル 副交感神経をブレーキに例えた。

そこで、

その他の機能を車に例えてみた

勇気はギア 休んでいるときは ギアはニュートラル

 

人生を山登りに例えると

山の大石や大木を神として祀ることが多く、中には山自体を神と祭っている美輪山もある

なぜ山に登るのですか?

そこに山があるから!

というのが、有名な登山家の言葉だ。

これはそこの山があると無意識にその頂上に登りたくなるということだ。

人の本能がナンバーワンに成りたいと願う

また、目の前に障害があると、その生涯を乗り越えようとする

人は本能的にゲームやギャンブルを好む傾向にあるし、

自分という存在がオンリーワンという特質から生まれる本能が他と比べてナンバーワンを目指すようにできている。

人間だけでなく、どんな生物もより強く生きられるように進化また自然と調和しようとするのが生命の特質であり、人間の知性知欲はその一つである。

そこで

なぜ山に登ろうとするのですか?

そこに山という障害があるから!

と答えられるだろう。

 

山登りしようとするときに

脇に落ちている枝木を杖として持ちたくなる。

人は生まれた時は4本足で這い、成長すると2本足、老いると杖をつく3本足になるといわれるが

 

転ばぬ先の杖

実際に杖を使って歩くと、その杖があってもなくてもあまり関係ない。

杖で何をつついたり、歩く先を杖でたたいたりして、遊んだりするが、その杖がよほど丈夫で軽くないと体を支えることが難しい。

転ばす先の杖のように、身体を支えられる杖は金属などで補強して、作らないと難しい。そうでないと、杖は頼ると危険になり、むしろ両手が使えなくて、転んだときに、邪魔になる。

杖が役に立つとしたら、

めったにないが、動物に襲われたときに、その動物を威嚇したり、撃退できるかもしれないが、銃ほどの威力は期待できないかもしれない。

むしろ、人に動物に襲われるより、動物が人に襲われる危険の方がより高い。そのために杖を持って歩くほうがもっと苦労が多いので、それはまさに取り越し苦労である。

杖を人生に例えるならば

転ばぬ先の銭頼り

になるようなものであろう。競って、より強い杖、より美しい杖を求めて作るような金銭であり、

また敵からの防衛のために武器としての杖またそれを作るための金銭を多く持とうとする。

金銭や武器は杖のように取り越し苦労をするようなものであろう。

最初、ブッダの

「自らを信じ、自らを頼りとし、そして法を頼りに生きよ」

当初、自分は自分の手足で、法は杖だと思ったが、杖だとしたら、法はあまりにも頼りどころか、役にもたたないし、取り越し苦労である。

頼りとなる法はむしろ足跡であろう。頂上への道は歩きやすいように、また何人も歩いた、また自分が歩いた足跡があり、その足跡があるところを頼りに歩くと、山に迷うことがなく、頂上にも、街にもいける。自分の手足や知識だけでは、山に迷うことが多いからである。

法は道ともいい、人とのもめごとがあったときに、それを治めるアイデアや取り決めを法というので、山のような障害越えのための道が法であるというえよう。

足跡には、登山者への道案内として赤の布切れを木に結んだり、看板をたててあったりする。山道は山の法であろう。

登山をブッダのように言うと、

自分の手足を信じ頼りにし、山道の足跡や案内を頼りに歩け

ということだろう。

山道は

急がば回れ

というように、まっすく登る降りするのは苦労や危険が大きいが、

右左、蛇行したり、して、螺旋階段のようにゆっくりと大きく登り下りするのが

安全かつ楽しさがある。

人生もまた

急がば回れであり、

急かず、ゆっくりと、回り道してこそ、楽しけれ

であろう。

 

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意識はハンドル、無意識はエンジンだ

近くの山登りを行ってきた

頂上の向かって登っているとき

転ばないようにするには足元だけを注意して

地面と足の接地面がしっかりつけるかどうかを確認しながら登った。

時々、その接地面が頂上への道ではないと思えるとき、当たりを見渡し、正しい道か迷ったかを確認する。

そうしないと、

数メートル先や遠くをみて歩いていると、足元の石や根っこに躓いたり、落ち葉に滑ったりする。

いわば、よそ見して運転するようなものである。

手足腰に動きは無意識に動いている。

だが、どちらに歩くかという場合は、足は止まり、意識的に頂上への道が合っているかを確める。

つまり 意識は無意識で動く手足腰の方向を指し示すもので、意識が無意識を強制的に動かすものではない。

五臓六腑に動きも、いちいち意識的に動かしているのではなく、無意識に動いている。

そういう無意識に動くものは自然の動きであり、意識的に動かすものは人為的であるとも言える。

 

我々が技能というのは、無意識の動きを意識する方向に行かせるのではないか。

例えば、字をきれいに書こうとすると、そのバランスがある方向に無意識に動けるようにすることでもある。

ところが、そのバランスに関係なく、自分の癖で無意識に動く文字をかけば、きれいに書けない。

 

健康と病気を考えた場合、

例えば、美味しいものを意識して食べ過ぎてしまうと肥満になって病気に向かう。

美味しいものも意識して食べ過ぎないようにすると肥満にならずに健康に向かう。

煙草やギャンブルの依存症の場合、最初は意識的にそして、無意識に、煙草を吸いすぎになり、ギャンブルも賭け過ぎになった状態であるが、

それを意識的に禁煙したり、禁ギャンブルして、その忍耐が無意識に楽にできるようになった時に、健康健全になってくる。

つまり

意識が健康的に向かうか、病的に向かうかが最も大事であり、無意識が自然にそちらに向かうようにリハビリするのが治療であり、本人の努力=自己治癒なのだろう。

ただ、意識には力がない、ただの方向付けだけで、力があるのは無意識だけである。無意識はただ登山する手足腰のように繰り返し動くだけであり、エンジンのような動力である。だが、意識はハンドルであり、ハンドルに動力はない、タイヤの方向を変える小さな力しかない。その小さな力で、エンジンは回すことは不可能であり、それをしようとすれば、ハンドルは折れてしまうし、エンジンに吹き飛ばされてしまうだろう。

それは

政府と国民との関係にもいえる。政府は意識のハンドルであり、国民は無意識のエンジンである

健康な心身も、健全な社会も、意識(人為的)と無意識(自然的)のきちんとした把握をすることをベースとすることが大切と思われる。

 

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心(脳)は色受想行識の炎で渦まく炎のよう

こころの時代・・心はいかにして生まれるのか?

 

ブッダは心は五つの炎が集まり渦を巻くように燃え盛る炎である。

五つの炎とは五蘊(ごうん)であり、

心の炎は色受想行識の五蘊の炎が集まり渦巻く

色・・人間の体・・木や草など形あるもの・・知覚

受・・感覚・感受・・感情・喜怒哀楽

想・・表象作用・・イメージを総合する統覚

行・・意思・欲求・形成力・運動領・欲望・思索・自然に起きるもの・無意識から意識に・煩悩

識・・認識・分別・判断・論理的思考・

 

ロウソクを見た時・・

 

五蘊はみな独自に存在できず、複雑に絡み合い、意識として統合されたものが心である。

これが自然の生成力・エネルギー、動的なプロセス・変化する形が炎のような心である。

ウオルター・J・フリーマン(1927-2016)複雑系理論

混沌からの秩序の生成、すなわち自己組織化が脳活動の本質である。

脳幹にある海馬から脳全体に信号を送りながら、0.1秒の速度で5回転する。それが無意識で行われ

また0.1秒毎に意識がその無意識を感知し、無意識の行先をコントロールしていく。

その回転の動きが一瞬とまった静止状態のとき、「閃き・アイデア」が出てくる。

人は常に海馬を中心に頭を回転しており、海馬が疲れてしまった時に、アルツハイマー病が起こる。

神経伝達細胞はグルタメートといい、神経を興奮させる半面、毒性を持っている。出過ぎると神経が死んでしまう。海馬が破壊されると、頭内が統合できなくなってしまい、心が飛んで行ってしまう。

 

洗心の必要性

フリーマンは人間の頭はがんじがらめになっているという。固定観念の塊になって、身動きがとれなくなる。

それを一回綺麗にする必要がある。それをブレーン・ウオッシングという。または、アンラーニング(脱学習)という、それが非常に大事になっている。

それで、日課として、座禅や瞑想をすることは絶え間なく働く脳を鎮める効果として、非常にいいことだと思われる。

 

1 for All.  All for 1

 

人間の筋肉が張力統合体tensegrityとして、全体がつながっているように、脳の各部分も信号伝達統合体(心)としてつながっている。

一部が凝り固まると全体が動かなくなるが、固まっていない部分を動かすことで、固まった部分を回復させることもできてくる。

1 for All.  All for 1 は社会やチームだけでなく、身体も頭脳もやはり張力統合体として、動いている。

 

整えられた自己

燃え盛る煩悩を鎮め整えることで、幸福になれる。

 

生命の発生の頂点に脳(心)がある

 

生命の歴史があり、その頂点に脳がある。身体の刺激なしに脳はなりたたない。

ビーカーに入れられた脳は必ず死んでしまう。脳が解れば人間が解るというのは幻想であり、

世界を理解することを同化するという。身体全体のインテグリティintegrity 同一性を考えないと、世界を

理解また同化することはできない。

 

創発・・混沌カオスから秩序が生まれる

 

これは空間自体が持つ性質としかいえない。空間それはエネルギーであり、電磁場であって、その電磁場が自己蘇生していく性質なのであろう。宇宙にダークマターがどのくらいとか、新粒子が発見されたとしても、大事なのは現実の生活をみて、その中で自分がどう生きていくかである。

ブッダが

自らを信じ、自らを頼りとし、そして法を頼りとして生きよ

といったように、宇宙の知識よりも、人間的次元の中で、自分を考えることが大事であろう。

・・・

銀河系のような渦巻くような姿が脳と心の五蘊としての五柱で構成されていたことも、

また、荘子が命のバトンとして、薪が火が燃え移る様のように、

脳と心が燃え盛る姿を見せられた感じがした。

昔、日本は世界の縮図といえると聞いたことがあるが、宇宙の縮図は生命であり、生命の縮図は人体であり、人体の縮図は心つまり脳であると思える内容である。

 

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意識がなによりも大事な宝

命と金どっちが大事か?

もちろん、命である。

命の中で、心と身体どっちが大事か?

人類史をみるかぎり、善人を生かし、悪人を殺すという選択が多いことからも

善悪などの心をそれを宿す身体よりも優先する。

では

心の中で、意識と無意識どっちが大事か?

意識があると生きているが、植物人間のように無意識でただ身体が活動している脳死は死んでいると判断されるので、

意識の方が大事になる。

映画 雨あがる

「人は何をしたかではなく、何をしようとしたか? それが大事だと思います」という女房の言葉は

しみてくる。

また剣岳 点の記 でも

「何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です」

というセリフがこの映画のメインのテーマになっている。

 

その人に良かれと思うことをやろうとした時、逆に迷惑にとられてしまうことがある。

また、その人に良かれと思ってやったことが、逆に怒りと恨みをかったこともある。

 

人はついその人の言葉や行動でその人を判断してしまうが、その人がなぜそれを言い、どうしてそうしたかを知った時に始めて、その人の心と真実を知ることができる。

真実は言葉や行為の事実だけにあるのではなく、その言葉や行為の中の心であり、その心が何を意識し、何を目的にしたかをはっきりと捉えないと見えてこない。その心の意識はその人の人生全体をみていかないと、一部の言葉や行為を抜粋しただけでは、理解できない。

 

スポーツ選手で、世界一になった者だけが一番偉く、もてはやされるが、それは行為の結果だけしかみていない。二位三位であれ、最下位であれ、そのスポーツ選手がどんな気持ちでそのスポーツ試合をしたか、それが結果よりも、それを望む姿勢が大事だということに最終的になることが多い。

ドーピングで金メダルを取ったとしても、後ではく奪され、しかも選手生命がなくなることだってある。

 

五次元は意識である。意識が在るか無いか? それは存在するか存在しない無か? その二者択一の世界である。

一次元は始まりや終わりなどの点

二次元は水平線のように平面

三次元は天地のような上下や高低

四次元は早い遅い、永遠と一瞬のような時間の長さ

五次元はそれら・・ 点 線 天地 時間・・ が存在するか?存在しない無か?

であり、空間と時間を支え決定づけるものである。

もし、あなたが今意識がないとしたら、この世界の何事にも関心は無くなるだろう。

でも、あなたが今何を意識しているかで、その世界の姿が大きく広がり、それは創造されていくといってもいいだろう。

 

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生活の豊かさを経済的豊かさと勘違い

生活の豊かさより経済的金儲けの方を優先することで、

馬鹿げた政策が実行され、暮らしは物質的には以前より楽になってきたが、国際関係や人間関係そして家族の中は争いが絶えなくなってきている。

久しぶりに近くの棚山登山に行ってきた。

真下にほったらかし温泉とフルーツ公園そして、我が自宅がその先にある

以前はその麓のフルーツ公園に散歩に行っていたのだが、公園を歩き回るのと、山登りをするのと、どちらがより癒されるか?

登山の方がより疲れるが、はるかに多く癒される。

フルーツ公園には多種の果樹が植えられているが、それらは観賞用で実ったとしても、取って食べてはならない。もし食べようものなら、盗人扱いになってしまう。

だが、棚山全体に雑木の一部を多種の果樹を植えたら、きっとどんな観光客も動物も同じようにそこで実った果樹を食べて楽しむだろう。

都会の公園内ではホームレスがブルーシートでテントをはって生活しているが、無断使用で強制的に追い出されてしまう。

だが、山奥にテントをはって生活しても、けして追い出されることはない。ホームレスだけでなく、キャンプを楽しむ者、その他の動物もみな巣を作って生活しても、怒られない。

山に入ると沢山の薪があり、燃料にはことかかない。

食べ物はといえば、ドングリがたくさん転がっている。

これらのドングリは苦味が多くて、そのままではとても食べられない。でもスタジイのようなドングリだと、そのままでも苦味がなくてたべられる。

また、栗も少々ながら落ちているので、腐る前に保存しておけば充分食べられる。

つまり、雑木を食べられる果樹に植え替えれば、どんな人も動物もその山の中で豊かに暮らすことができる。

公園の管理にどの位の金銭が必要だろうか?

そこで働く人の給与だって支払うのは大変だ。

だが、山ではそこで暮らすホームレスやキャンプらが自主的に山を管理しないと、持続的に暮らせないので、ボランティアでやるようになるだろう。

観光客を呼び込んで金儲けしようと公園を整備するより、そこにある山で、だれでもが動物と同じく自由に暮らしていけるようにした方がどれほど生活を社会を豊かにすることができるだろうか?

それは意識が経済的金儲けにあるか、生活と社会の豊かさにあるかどうかで、政策も変わってくるのである。

 

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