人が死んだら何処に逝くのか・・

循環とは何か?

と思いめぐらすときにまず思い出すのが聖書のイエスの返答である。

「イエス様どうお思いでしょうか、お教えください。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。
「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、
「これは、だれの肖像と銘か」 と言われた。
彼らは、「皇帝のものです」と言った。
すると、イエスは言われた。
「では、
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

・・・・・マタイによる福音書 22章 17~21・・・・・

これは

「お金はそれを作った者に返しなさい」

神を自然に置き換えられるので

「自然が作ったモノは自然に返しなさい」

という意味で、それはまさにテレビCMにあったように

「(窓を)開けたら閉めなさい」と・・どんなモノも元にあったところに戻しなさい・・

という意味でもある。

それが循環であり、物事がすべて回るく治まるための仕事であり、かつ遊びでもある。

 

五次元は意識の世界で、意識が在るか? 無いか? また それは存在するか? それは存在しない無か?

生命においても、 生きているか? 死んでいるか? のように、二者択一の世界である。

 

人が最も関心が高いのが・・

「人は死んだらどこに行くのか?」

それは情緒的に「星になる」「あの世に逝く」「天国に行く」とかいうが、この世ではない世界でないことは確かだ。

それに

「人が死んだらどこに行くのか?」と疑問は・・・

「人はどこから生まれてきたか?」と同じ疑問である。

両親から産まれたと答えたら、その両親はどこから生まれてきたか?・・その両親はどこから・・・と延々に疑問は続くだろう。どんな両親も人であるから、最初の疑問は人はどこから生まれてきたのか? に戻っていることになる。

そして、

「人が死んだらどこに行くのか?」という問いに

「人が生まれる前の世界に戻る」という答えが一番しっくりするはずである。

どんな命もモノも誕生と死を循環しているからである。

銀河系のような宇宙も存在と無を繰り返し循環している。

我々が生活や仕事をするときに、どんなモノも、

この元にあったところに戻すということを

意識的また無意識てもすることが 自然に合った最も効率的でかつ快適な作業環境になると言えよう。

 

再生可能また自然エネルギーだけが人類を平和で持続可能な生存へ導く

 

カレー・小麦ナン・小豆・湯・焼き芋と

ゴミコンロの燃料は人間が作った紙やプラスチック、大地が作った薪であるが・・

それらの燃料を有の世界から元にあった無の世界に戻すとエネルギーが生じる。

その元に戻るエネルギーを無駄なく利用しようとして、残り火の小コンロ、その灰で焼き芋を作った。

ゴミ薪コンロの残り火で焼き芋に小豆ヨーグルトと大豆ヨーグルトが出来た

だが、

原発の燃料であるウランは元の無の世界に戻るには何十万年もかかる。その時に発生するエネルギーは広島原爆のように一瞬で数十万人の命を奪うだけでなく、生きながらえても数百万人が被爆して、子が産めない体に、癌や奇形に苦しみ死んでいく。

チェルノブイリや福島原発事故のように、人の死のみならず、その土地に戻ることさえもできなくなり、しかも、その放射性廃棄物を捨てる場所もなく、捨てる場所があっても、そこから発生するエネルギーが人に無害になるまで、何十万年もかかる。

原発事故を起こさなくても、稼働するだけで、三重水素は除去できないため、海に捨てているし、それ以外の放射性ゴミは何十万年も有害危険物として保管しなくてはならない。

また、三重水素を燃料として核融合させる水爆であれば、原発による放射線はでないが、太陽と同じで、宇宙線を出すので、その無害化は今の人類技術には程遠い段階であり、その技術が確立させるまで、そうした原爆水爆戦争も、原発の平和利用もしない方が人類をより長生きさせることができよう。

つまり、薪、石炭、石油、ガス、ウラン・・などの燃料も、無から有へ 有から無に戻すという循環が大事であり、その循環ができないような技術・仕事・生活は長続きしないだけでなく、人類を破滅に追い込むことになる。

再生エネルギーだけを使うことがいかに人類を長生きさせる知恵であるかということでもある。

上記の中でいうなら、今の人類技術では薪だけが唯一可能な再生エネルギーであるといえよう。電気ならば太陽光風力水力地熱などの自然なエネルギーを中心にして、原発や石油に頼らないことが無難である。

 

今、世界は石油に頼る産業が繁栄しており、その石油産出国に金銭は集中して流れ込んでいく。金銭だけでなく、その石油利権を奪い合うようにして、戦争も起きてきている。

石油は再生可能なエネルギーではない。日本の石炭にように、いずれ枯渇してしまう日がくることも十分考えられる。また、石油を燃やすことで、地球温暖化などの問題も出てくる。

再生可能なエネルギーと自然エネルギーを使って、モノを循環させることが、いかに、人類を平和的安定的に生活できる技術であると言えよう。

 

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確率や予測は仕事にせず、遊びとしよう

保険屋は病気や事故の過去の確率から算出した商売である。

金融業また金銭そのものも、みなその貸した金額の返済の信用度の確率で成り立つ

事業そのものも、需要と供給の両者の明日の予測とその予測が当たる確率で成りたつ。

だが、

実際の時間の一方通行の特性は明日がすべて100%未知であるので、

過去の延長としての未来の予測確率をしても、社会全体はその確率に近くなっても、

個々人にとってはその確率はほとんど当てにはならないものである。

そのため、予測確率商売は運不運が大きくなり、経済格差は大きくなってくる。

 

過去の経験や学んだ知識や信頼できそうな人を信じて、その明日の確率を当てにして動かざるをえない現実がある。

それは歩くときは一歩先を、走る時はもう10歩先を観ないと、安心して前に進めないからだ。

足元ばかりみていては、自分がどこに向かっているのかさえ解らなくなり、道に迷ってしまうだろう。

また、見えにくいもっと遠く、またもっと上を向いて歩いたら、やはり、足元がふらついておぼつかないだろう。

 

つまり、今の自分にとってどのくらい先を、予測して歩けば、安全かということである。

安心というのは欲望の満足した状態をいう。

そして、予測や確率は満足内の不必要な遊び20%に入るとすれば、その遊びは予測の当たりはずれを楽しむ行為にあたり、その予測がはずれでも気にすることもなく、予測が当たっても有頂天になることもないで、ほんのりと、他人との心の繋がりと会話や交流を楽しむことが、悪事なき不満足状態の予測確率は病的依存症になり、自分にも社会にも悪影響(不健康)を及ぼす。

満足内の不必要な予測遊びは個々人の経験や学習や知識や人間関係に合わせたものになるため、社会的な予測傾向には左右されにくいともいえよう。

日々充実(満足)した予測や確率は遊びの中でやることが健康によく、それを仕事として頼った場合は不健康に陥りやすい。

それは事業や金銭に100%頼った生き方はその秒鉄器依存症になり、それなしには生きられないと勘違いしてしまうので、そういうものは、仕事としてというより、自分の20%くらいの遊びとして捉えて、仕事や金銭にとらわれないようにした方が、自分も社会も健全な方向に維持できてくる。

 

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明日は未知100%

四次元の時間が一直線ではなく、地球のように回るく巡るものであり、

その流れは水や血液のように一方通行であるようだ。

五次元の意識から、時間を眺めると タイムスリップができるのだが、

時間が誕生と死を巡るような姿から、未来は過去に似てくるが、

時間が一方通行であるために、未来は過去とまったく同じにはならない。

未来は常に未知であり、悟ることができない。過去の事例から予測することができても、それは100%当たることはありえない。

例えば、明日はきっと今日と同じような日になるだろうと予測できても、明日交通事故で死ぬこともあるし、自然災害で家も流され失ってしまうことだってある。そうした例は特例であっても、誰にでも起こり得ることであり、それを予測することは非常に難しい。

しかも、その事故や災害に合う確率は保険屋みたいに、統計的にできることはできるが、その確率にすべての人が当てはまるということではない。それは過去の事故災害があった事例を統計して得られた確率であり、占いと同じで、当たるも八卦当たらぬも八卦であり、当たるか当たらないかの二者択一の五分五分であり、それは社会の平均値や確率とは違う、個々人の自分にとっては、真実100%未知であるということである。

それは多人数の社会においての、平均寿命や事故や災害に合う確率は推計できるが、個々人にとっては、明日死ぬかは生きるかは生きられる確率は0%か100%の二者択一であって、

社会の平均値や確率は単なる参考値や感情値であり、

実際には0か100かの確率であり、平均確率とは無縁であり、

それは明日どうなるかは100%未知である

それが4次元の時間の特質である。

神仏やそれに類似た人が未来を予言しても、それはその時代の単なる社会的感情論であり、

それらを考慮するにはあまりにも時間の本質を無視している。

神や仏のように全知となるというのは、

未来においては当たらず、未来は100%無知不知不悟であるのが時間の特質としての真実であり、

過去においては、どれだけ探求してきたかによる100%未満の真実でしか解らず、

ただ、

今だけは、神仏に限らず人は誰でも全知できる。

それは見て聴いて匂い食べて触って、やってみて そのままの五感と経験を受け入れることである。

その真実を認めるのが全知であり、その真実を認めないのが無知である。

例えば、

戦争で、敵を殺したとしよう。

敵は悪人であったのか? 自分とは違った人間だったのか?

ちょっと運が悪ければ、殺されたのは自分であったかもしれない。

戦争でないときに、その人を殺そうとしただろうか? その人は私を殺そうとしただろうか?

 

この時、自分が生きて、その人が死んだという事実をそのまま受け入れ、

国や社会的な敵味方関係なく自分と同じような人間であったことを認めることである。

 

全知とは今の真実をそのままみな認めるということであり、過去現在未来のすべてを知ることではない。

知るというのは知欲であり、それは食欲性欲物欲と同じ欲望であり、生きるための欲望の一つである。

知欲よりも生きる欲望の方が大きく、

全知とは知欲が満足した状態である。

 

知欲もまた「足るを知る」ことで本当の満足をえることができる。

自分の生活に必要な知欲を満たし、自分に不必要な知欲を明日を占うような遊びとすることで、本当の満足を得る。

しかし 自分の生活には無関係なすべての知欲の不満足はどこまでいっても不満足であるが、

その不満足を認めず、不満足をさも必要な知欲として思い込んでしまうのは、自分を全知全能の神仏と勘違い思い違いしてしまう状態であるといえる。それは単なる知らないことを知っているといると他人に信じ込ませるようなものである。その本人もその信者も、神仏なしでは生きられない病人つまり神仏依存症の患者である。

神仏依存症の人間以外、その他生きとし生けるものすべてに、神仏という言葉も観念がなくても十分楽しく生きているのが真実であろう。

大事なことは

知らないことを知らないと認め、

知っていることを知っていると認め、

どんな予測も当てにならないことを認めることである。

 

明日は未知100%

今日は認知100%

過去は探知確率50%

くらいの足るを知る・・知欲が健康的に丁度いい生き方であろう。

 

今朝目覚め、今日と明日が100%未知であると思う時と、

今朝目覚め、今日と明日は昨日と一昨日の連続した似たような日々になると思う時と

どう違うだろうか?

また、

どんな予想も占いも当てにならないとして、自分の今日と明日を見つめたときと、

社会的事象からの推測からみて、自分の今日と明日がどうなるか予想したときと、

どう違うだろうか?

そもそも人が持つ細胞はみな毎日新陳代謝しているように、

自分自身の心身も毎日新陳代謝していると認めたら、

今朝目覚めた時は、生まれ出た赤ん坊のように、回りの世界を見渡すだろう。

だが、

毎日細胞も自分も新陳代謝せずに、過去が堆積していくように・・

親や周りに

執拗に恐れや快感をもたらされたら、

生まれ出た赤ん坊はしつけされ、条件反射するような心身になって、

回りの社会全体の感情世界と同じような世界を見てしまうだろう。

 

社会や周りの人間の言動に左右されず

毎朝、新しく生まれ変わり、生まれ出た赤子のように周りの世界を見つめることができたら、

今日明日がどれほど快く感じられることだろうか。

 

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時間は一直線ではないかも

地球は二次元のように真ッ平で遠くは水平線が見えた。

だが実際は三次元の球形で回るく、水平線の向こういくと、後ろに帰ってきた。

太陽は東から出て西に沈んで、地球の上を回るものに見えたが

実際は、地球が太陽を一年かけて回っていた。

時間は三次元の空間の上に無限に続く直線のように見えたが

実際は???????

前の水平線の向こうにいくと、自分の後ろに帰ってくるように・・・

時間は無限に先の未来に進むのではなく、いつしか自分の過去に帰ってくるのではないか?

太陽も銀河系も、宇宙も 誕生と死を繰り返している。

命あるものすべてがやはり誕生と死を繰り返している。

その事実からすれば、時間は誕生と死を繰り返して回る時計の針のようなものではないだろうか?

遠い星の誕生を望遠鏡で見ることができるが、その星の誕生は数億年前の事実であり、今の姿ではない。

逆に、遠くの星から地球を眺めれば、数億年前の地球の姿を見ることができる。

それを親しい人の一生の姿を地球から光の速度よりも少々早めに遠くからみれば、その過去の姿をまるで録画映画をみるように見えてくるだろう。その事実を。

それは過去のどんな事実も消えないし、未来にその事実を観ることができるということでもある。

そうした過去のすべての事実を未来が観察できることは、時間が一直線ではなく、未来と過去とが回っているということではないか。一直線ではないが、過去現在未来への流れは一方通行ではあるが、時間を超えた五次元意識では未来は見えないが、過去のすべてを観ることは可能であるということである。

未来は過去の出来事を模倣して想像したり、占うことができても、当たるも八卦当たらぬも八卦で、五分五分の確立で「当たる」「当たらない」の二者択一である。

癌を予知され、余命3か月と言われても、それが当たる確率はやはり五分五分である。未来はどんな人間でも、どんな神様仏様でも予測できない事態が起こっていることがそもそも宇宙の四次元世界である。

 

五次元の意識が過去の事実を把握できても、未来の事実を把握でききないのは、時間は一直線ではなく、巡っていても、それは過去への回想はできても、未来への占いはできないという一方通行の姿である。

 

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癌の原因の方が治療より重要なはず

病気の人4人の1人の割合で癌患者がいるというが・・

もう何十年も癌の治療が進歩しているが・・

一向に癌による死者は減るどころか増えているようにさえ感じる。

戦前では結核で死ぬ人が多かったが、癌で死ぬ人は今ほどではなかったように思える。

結核の原因が解り、その菌を殺すアオカビから作られたペニシリンで劇的に死亡率が下がった。

癌は正常細胞が異常細胞に変化して、増殖し、死に至らしめることは解明されているが、

正常細胞がなぜ異常な癌細胞に変質してしまうのかが解明されていないので、

癌の根本原因が解らないので予防も、治療の方法も解らないで長く混迷している。

 

戦前と戦後の大きな違いは、食べ物が変わったことだ。

癌を誘発する化学物質が次々と発見されてはそれが使用禁止されるが、癌患者は減る方向にはいかない。

 

はっきりと癌になるといえるのは放射性物質が食べ物に混入することである。

福島原発事故が起きる前から、世界中の原発排水から除去できない、水に溶け込んでしまうトリチウム(三重水素)は海に垂れ流しされてきている。

それは癌を誘発する物質であることは、その大量摂取での死亡例もあることからも言えるが、それが除去できないという理由だけで海に放出してきていた。

その垂れ流しした放射性三重水素は近海の魚に入り込んでいるし、また、蒸発して、雨となって田畑に降り注いで、動植物に入り込むこともあるだろう。だが、ほとんど水に溶け込んでいるため、三種水素を検出できないために、摂取しても安全となっているといえるのではないか。

原発を稼働している国の食べ物はみな放射性三重水素が入っているとすれば、それを食べて、それが何年もかけて、食べた人体に蓄積して癌に侵されることもありえる。

だが、それがはたして原発排水からでた三重水素が原因であるとは断定できないから、それが原因でないとしてして今の食べ物は安全であるとしている。

癌を誘発する放射性物質による遺伝子の異常な組み換えは人体の正常細胞だけでなく、多くの食べ物においても、放射線をあてて、遺伝子組み換えをして、自然界にはない食べ物を作っている。

その遺伝子組み換え食品を食べても、それが癌になるとは断定できないから、安全であるとしているが、その癌になる時間は数十年もかけて刺激や蓄積されて起こるもので、一時の試験結果だけで特定できるはずもないものである。

だが、人は直観的に、癌が異常な遺伝子組み換えから起こるのだから、それに関した食べ物は食べない方が癌になりにくいのではないかと、感じることができる。証明は難しいが、何か自然に反した行為が病気を引き起こすことは他にいろいろあるからだ。

そもそも健康は自然に合わせたことをするもので、自然に反したことをすると病気になることは体験的にも痛感できるものである。

そういうことからの自分の直観や経験から、自分の健康を管理し、怪しい食物を食べない方が無難であろう。まさに、自分の命は自分で守るようなもので、自分の病気は自分で予防するという意気が必要な時代である。

 

だが、科学的証明が難しいといっても、数学の対偶証明などを用いれば、簡単に証明できる方法もあるはずである。

 

「三重水素の垂れ流しが癌の原因である」

という科学的証明が難しい場合なので、対偶証明を用いると、

「癌の原因でないならば 三重水素の垂れ流しはない」と証明すればよいことになる。

つまり、

原発稼働せず、三重水素を海に垂れ流しを数十年間しないと、癌が減るということを検証すればいい。

しかし、日本のように原発稼働国での数十年間の停止しての検証が難しいので、

過去数十年間原発三重水素の排水の影響がなかった国や地域と、原発稼働国との癌発生率を比較して、その差がどのくらいあったかで検証が可能である。

だが、そうした科学的検証はすぐできるのに、実際に、検証しようとは国も大学や研究機関はしていない、それがそもそも問題である。

また、

世界各国と地域の食物と癌発生率の統計データも集めることによって、三重水素垂れ流しだけでなく、癌の原因物質を特定することも可能であり、そういう癌の原因探求よりも、癌治療ばかり進化しても、癌患者を減らすことも、癌撲滅もできないだろう。

病気になった時に、なぜその病気になったかをその原因を突き止めることで本当の治療が行えるはずであるが、単に痛み緩和だけは一時の気休めであって病気治療ではない。

科学的検証が難しいということが逃げ口上になり、検証されないなら灰色とならずに、安全になってしまう現実が今の癌の蔓延した日本なのであろう。

科学的検証が難しいなら、科学的検証が易しい道を探るのが、そもそも科学的態度ではないだろうか。

 

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