椎の木と人間

東京板橋で毎朝散歩に行っていた椎木公園に、スダジイという写真で収まりくれない椎ノ木がある。

権爺と名付けた

幹を叩いて、そこから今日のパワーをもらっていた。

このスダジイはドングリの中では、そのまま食べても、また炒っても苦味がなく、美味しく食べられる。

縄文時代でも、重要な食物であったようだ。八幡の起業祭の屋台でも炒った椎の実が現代も売られている。

 

それから5年ほどたって、白兎神社脇で、車中泊した時、強烈な海風で、車体が揺られ、雨も激しく打ちつけたが、その暴風雨から私を守ってくれたのが、シイノキ郡だった。

人間は生物界の王様のように地球を我儘に占領しているが、人類は生物の一種にすぎず、寿命だって、椎木やゾウガメやホッキョククジラに比べれば、まして、不老不死として5億年も生きれるベニクラゲと比較さえもできなくくらいだ。

生きて行く為の便利さや豊かさを求めて、人類が生物界で一番進化していると思い込んでいるが、生物界では、人類は井の中の蛙に過ぎない。

 

人の心は

数万年前の縄文人や数千年前の釈迦やイエスと現代人がどれほど変わったと言えるだろうか?

あの時代遅れのイスラム国の残虐さと迷信に翻弄され、数百万人の難民が流民移動しているのを、世界中がテレビで見ているが、最も進化したような国の兵士が空から無差別に爆弾を落としている。

太陽や星だって、命あるもののように、誕生と死を何度も繰り返す

人類も星や絶滅種のように、繁栄と荒廃、進化と退化を繰り返す波や星の煌めきのように時代の流れを感じながら生きては死を繰り返す。

だから、一瞬の命かもしれないが、せめて寿命があるくらいは楽しく遊んで生きてみようではないか。

互いに殺し合い、罵り合い、あえて、苦しんで生きても、死んでも、つまらぬ、空しかろう。

般遊という地球船に乗って、宇宙を旅し、寿命を全うしたいものである。

 

 

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相対的な現象を広狭的な命題として捉えると解決策が見えてくる

数学1で、対偶証明と背理法という間接証明がある。

対偶証明と背理法の違い

対偶証明法とは、「AならばB」といった命題を直接証明することが難しい場合に、「対偶が真なら命題も真」であることを利用し、「BでないならばAでない」ことを証明する方法であり、

「背理法」とは、「~がAであることを証明せよ」という問題に際し、「Aでない」と仮定した場合に起きる矛盾を見つけることで、「Aである」ことを証明する方法である。

そもそも対偶とは何か? それをはっきりさせないとよく解らない!

ちなみに、Aを犬 Bを動物として、犬Aが動物Bに含まれるという命題を例にすると

『AならばBである』という前提に対して、
『BならばAである』を「逆」と言う。
『AでなければBではない』を「裏」と言う。
『BでなければAではない』を「対偶」と言う。

前提『AならばBである』が正しければ、
その「対偶」は常に正しい。
しかし「逆」と「裏」は正しいとは限らない。

「AはBである」という定義はAが狭義で、Bが広義である場合も使われる。

そのため、AがBに含まれるという場合、AはBであるが、Bが必ずしもAであるとは限らないので、逆は真ならずともいう。

それを解りやすく図式化すると

犬は動物に含まれるので、犬は動物であるとは言えるが、逆に動物がみな犬であるとは言えない。

しかし、対偶として、動物でないならば犬でもないとは真に言える。

この狭義広義の含まれるという概念はABの二種類だけでなく、何種類にも使える。

よく善悪などの正反する対照的な議論が平行線に陥る場合はそれらを大小や広狭で定義し、それを共有すればその論議は交わって協議発展もできてくる。

例えば、性善説と性悪説はどちらが正しいにか、卵と鶏はどっちが先かという平行線的な議論にも応用できる。

「人は神であり、悪魔でもある」という矛盾するかのようなことが本当のように語られてしまうと、実際にはどうしたらいいのか迷うことになる。

そこで、心の大きさに応じて、神と人と悪魔を定義してみる

悪魔 < 人 < 神様

心の小さい人は悪魔であり、心の大きい人は神様である。

鬼の目にも涙のように、悪魔は人であるが人はみな悪魔であるとは限らない。

人イエスが神キリストと崇められるように、人は神様であるが、神様がみな人であるとは限らない。

この広狭概念から性善説を適応すると

また 卵が先か鶏が先かという堂々巡りは

 

これらの広狭概念と論理は生物界にはまったく同一なものは存在しないが、無生物界にはまったく同一なものは存在する。

それは可動域の大きさによって、無生物と生物を定義することもできる

さらに、人の病気と健康の定義にも応用できる

また、金銭システムを金銀銅の命のない物としてとらえるか、生物としての命ある者としてとらえるかでも

それが病的か健全かを判断できてくる

戦争で無駄な金や血が流され、金儲け競争で、ほんの一部の細胞人に血のほとんどは集まり、他の多くの細胞人には血が廻らない金銭社会は病気であって、けして健全とは言えないだろう。

金銀銅を人に貸し借りできても、人の血を貸し借りなどできるだろうか? まして、利息が付いて回ることなんかありえるだろうか?

病人に輸血できても、病人がそのお礼に、健康な人に輸血できるだろうか? まして、輸血された以上の利息をつけて健康人に輸血返却できるだろうか?

かように、相対的な現象の問題解決には、広狭の命題定義からリセットして、再構築すると、そに解決策は見えてくるだろう。

 

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火と自然循環

2回目の健康と自然の会に、車中泊と自炊を中心にした行き帰りした。会では月に一度なので、プロパンガスの毎月の基本料が使う量以下なので、車中泊で使う同じガスカセットを使って料理しており、お湯とご飯は電気ポットと電気釜でしていた。

暖房は囲炉裏と薪ストーブで、私が担当したのが、薪風呂だったが、水漏れしていて、沸かすのが1日かかった。

帰宅後、テント生活をし、薪コンロで料理ついでに、家庭ゴミを燃料にしたゴミコンロの実験をした。

なんと、薪に火を付け、火力を強めるのに、紙ミックスとプラゴミが有効で、問題の悪臭有毒ガスと有毒灰が、高温おそらく800度以上にすれば出ないという確信がもてた。

つまり、薪と紙で激しく燃えている時にプラゴミを投入また、三者を混ぜて、一緒に燃やすと、800度以上になり、煙がほとんどでないし、黒煙も、悪臭もしないという結果がえられ、それで調理した料理も湯も薪で調理したものと、変わりがないと経験できた。

生ゴミは電気乾燥し肥料化して畑で使っているが、それと同じように、家庭ゴミが家庭の調理エネルギーとして、使えるという結果は人は自然の子であるように、人が出すどんなゴミもまた生命維持と再生エネルギーとなれるということだ。

自然はゴミを出さないが人はゴミを出すと思っていたが

人は自然のようにゴミをださずに生活すると健康になる

ゴミ不足で輸入するノールウェー

家庭ゴミで、家庭の給湯をするようにもできるはずで、

プラゴミをボイラーや発電にすれば 生ゴミを肥料にするように、家庭ゴミを給湯と発電にでき、自然に合わせた生活ができる。

家庭ゴミで調理できる

生命の3条件は

1.境界を持つ

2.代謝エネルギーのやり取りを行う

3.自己複製 自分のコピーを作る能力を持つ

に合わせると、

家庭という境界で 生産と消費のエネルギーのやり取りをゴミ調理によって行うと、自分の身体の新陳代謝を生活レベルででき、生きているという実感が持てるようになる。

 

 

 

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改めて金銭考察

金銭が世界のモノとサービスを分配するシステムであるという定義から、改めて考察してみると、

将来予想される金銭を分配することは予言を信じて行動するようなもので、信じてはならないシステムである。

そもそもモノ・サービスと交換する基準となる数値が毎日、毎分違ってしまうのは、狂っている秤でモノサービスを交換するようなものであって、健全なシステムではない。

こうした狂った金銭システムの元凶は金銭を貸し借りできるものであるとしたことである。

共に生きて行くために食べ物を分かち合うためのシステム法が金銭であるから、食べ物は与え貰うしかできず、貸し借りなんかはできない。

将来生産できる食べ物を前もって分配する約束をしてしまうことは分配されない人は飢え、分配される人は肥満になる。世界のモノサービスを数十人が72億人の命を支配する格差社会が現実になってしまうのは当然の理である。

現在あるモノサービスだけを分配する金銭システムにしたら、金銭の発行金額もそれに合わせたものになり、モノサービスの価格は現在のモノサービスの需要と供給で決まり、将来予想した投資金額の需要と供給では決められなくなる。

今生きているということが重要で、この先の不安や幸福が重要ではない。先は常に未知であり、それが命が奇跡の贈り物であるということでもある。

明日を人は決めつけてはならない。明日は自然の新しき命のプレゼントであるからだ。我々の個々の細胞は常に新陳代謝して生まれ変わっているではないか!

海を渡る天の橋立には、井戸があり、それは海水と混じることはない真水が飲める。こんなことを予想出来ただろうか? たまたま掘ってみたら真水が出てきたということであろう。

 

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何を信じればいいのか

健康と自然の集まりの中で

栄養学の大学院生が そこに集まっている人達の大学で学んだ知識とは真逆の考え方が多いことに戸惑い、彼が講義する時に、

「一体 貴方達は何を信じて生きていますか?」

と、問いかけから始まった。

古老の多くは 経験と言ったが、彼はそれでは納得せず、他に直感ともいう人が出て来たが、声高に

「科学的に実証されたことを信ずるべき」

と言ったが、その実証もあてにはならないのが、科学の歴史ではないかと論議は進んでしまい、討論だけの討論になってしまった。

この健康と自然の集まりに参加してくるのは、大学や世間の常識に対して可笑しいと思っている人が多く、自分の考えを強く押し出す人も多く、それに対抗できる自分の考えに自信がないと 、そうかもしれないと思い込まされてしまう。

こうした討論ができる場があることが、そもそも素晴らしいことで、他ではまったく、常識に流されるか、特殊な思想に洗脳されるかで、疑問同士が ぶつかり合えない。

そのため、ここで話される内容においては、自分で実験、また論理展開して、自分自身が納得できないと、それらを信じることはできないとなる。

また、彼らを納得させるには、実際にその場で、実証してみせる必要もでてくる。

ここでは、権威で信じさせることはできない、ムードがあり、参加者全員が講師であり、学生であるというような基本姿勢があるので、そこで何が飛び出すか、分からないのが魅力にもなっている。

神や人を信じるな! 自分自身を信じよ!

ということは、自分で実際に行動し、思索し、納得できたことを信じていくということが自信を持つということで、最初から自信なんかあるわけでも、できるわけではなく、たゆまぬ思考錯誤と、多くの挑戦とその成功と失敗から、積み上げてきた経験が信じられる根拠になってくる。

自信は一生かかって積み重ねられた経験によって築かれる。

科学的実験も 人の経験ではなく、自分の経験であることが、必要も不可欠であるともいえる。

科学におけるデータの改ざんもよくある犯罪であるから、即信用していいとは限らないだろう。

邪馬台国が奈良にあったというその住居跡をみたが、実際にみると余りにも小さいので、その話は信用できなくなった。これも自分の目で確かめなかったら単なる知識それを信じてしまっただろう。

 

 

 

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