梅は咲いたか♫桜はまだかいな?

今は梅が満開だ。 近くに桜もあるが まだ芽吹いているだけ。桜に戯れる鶯の姿が待ち遠しい♬

 

 

 

♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~

♪ 浅蜊(あさり)とれたか 蛤(はまぐり)ャまだかいな 鮑(あわび)くよくよ片想い
さざえは悋気(りんき)で角(つの)ばっかり しょんがいな~

♪ 柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第
舟から上がって土手八町 吉原へご案内

♪ 梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に
梅と桜を 咲かせたい しょんがいな~

♪ 昨日 北風 今日は南風 明日は浮名の たつみ風
恋の風なら 色ばっかり しょんがいな~

♪ 桜さくらと 浮かれているわいな 弥生三月 花見月
あなたは花より 酒ばっかり しょんがいな~

♪ 銀座八丁 行こうじゃないかいな 山の狐が 七化けて
黒い眉引く 袖を引く しょんがいな~

♪ 恋の浅草 二人で行こかいな 何を言問 都鳥
末は千鳥で 泪橋 しょんがいな~

(^^♪ この春の浮かれて 口ずさむ歌を Metisは春咲く桜の応援歌にした

梅や桜の白い花がなぜか 戦火跡のウエディング ドレス に見えてくる

Newly-wed Syrian couple Nada Merhi,18, and Syrian army soldier Hassan Youssef,27, pose for a wedding picture amid heavily damaged buildings in the war ravaged city of Homs on February 5, 2016. A Syrian photographer thought of using the destruction of Homs to take pictures of newly wed couples to show that life is stronger than death.   / AFP / JOSEPH EID        (Photo credit should read JOSEPH EID/AFP/Getty Images)

生は死より強し2

生は死より強し

梅は咲いたか♫ 桜はまだかいな(^^♪ 流れ流れてシリアは ♬

せっかく生まれたというのに 殺し合い しょうがないなあ~

 

 

 

 

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イスラム教盲信からの脱却

イスラム教には信教の自由がないどころか、

「棄教すると死刑」だとする聖典の箇所を探した

棄教は死刑1jpg

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アブー・ムーサー(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、ある男がイスラームを受容した後、ユダヤ教徒になりました。
するとそこにムアーズ・ブン・ジャバルがやって来て、‐その男はアブー・ムーサーのもとにいました‐言いました:
「“一体この男はどうしたのだ?”
(アブー・ムーサーは)言いました:
“イスラームを受け入れた後にユダヤ教徒になったのだ。”
(ムアーズは)言いました:
“私は彼を殺すまで腰を下ろすまい。(それは)アッラーとその使徒が定めたことなのだ。”」
(アル=ブハーリーとムスリムの伝承6)
ブハーリーのハディース集成書『真正集』「聖戦」第149節2項、
「背教者と反抗者に悔い改めを求めること、および彼らと戦うこと」第2節1項など

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一方 コーラン(クルアーン)2章256には

「宗教には強制があってはならない」

信教の自由は保障されている。

この矛盾に対して

ピュー・リサーチ・センターPew Research Centerの調査結果によると

自国におけるシャリーア(イスラム法)の適用を支持率は

イスラム法支持率1

 

 

「棄教(背教)者は死刑に処するべきですか」という質問

棄教は死刑支持1

「信教の自由を支持しますか」という質問

信仰の自由1

イスラム教徒にとって、信教は自由だが、棄教は死刑であるということが矛盾ではなく、当然として受け入れられているのは一体どういうことなのか?

これは「イスラム教を信じるかどうかは自由だが、一度信じたら、アラーの神に命を捧げなさい。もし、背教したり、棄教した場合は死をもって償いなさい」ということであろう。

なぜ、イスラム教徒は信教の自由を誤解しているのかというと、「アラーは唯一の神であり、他に神はいない」ということを信じ、公言したら、それに背くことはアラーの神への冒涜であり、地獄へ落とされるという特殊な信仰だからであろう。アラーの神だけは、他の神と違って、アラーの神を信じる信じないは自由ではないのである。

こうした背教の死刑は、古今東西の軍隊でも同様に行われていた。軍の上司には絶対服従であり、脱走は死刑に処されるという恐怖心を植え付けることで、軍全体の統一を鉄壁のように固くすることで、強い軍隊が出来上がるからである。

宗教や軍隊の組織は絶対君主制であり、ピラミッド型で、神と将軍に絶対服従させて、統率させるのが通常である。

歴史上、モンゴル帝国、そして、オスマン帝国は強い軍隊でもって、アジア・ヨーロッパを征服支配した。そうした軍隊の規律にはイスラム教は実にマッチしたのだろう。

モンゴル帝国1 オスマン帝国1

 

 

現在のイスラム圏とも合致してくる。

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今日、イスラム教徒をやめた人から聞きました

「アルカイーダ、イスラム国、ボコ・ハラム、…等々、ほぼ凶悪テロ組織ってイスラム教ですよね、
何だかんだ言っても、イスラム教とは関係ないとか、イスラム教はテロを認めていないとか、イスラム教が邪教だと迫害されはしないか心配だとか、いくら一所懸命に言い訳して言い繕ってはみても、
実際に行われている事実としては、大規模的に残虐凶悪テロを実行し繰り返している組織の殆どは限りなく九分九厘に近くイスラム教ということはまぎれも無い事実ですよね、
ということは、イスラム教という宗教に多いに問題の根源が存在するが故と解釈できるのではと結論付けざるを得ない、
冷静に客観的に論理的に考察するに、こんな宗教は全世界から地球上から抹殺してくれよ、という人々の心からの本音の魂の叫び、これ当り前の感覚の上での言動ではないか、
洗脳カルト宗教と言われても致し方無し、ハッキリ言って、もうこうなったらイスラム教禁止令なんかを国連でやってくれませんか、
地球と世界の平和の為に、これ以上バカげた何の罪も落度も無い人々が殺されることを阻止する為に、私は改心しました」

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実は私もいくつかの宗教を信じ、盲信した経験がある。

一度 どっぷりと信仰してしまうと、そこからなかなか抜け出せない。宗教は阿片であるとマルクスが言ったように、心の麻薬性が強く、神にすべてを依存して生きていくようになり、神なしではとても生きられなくなるのである。

 

だが、十数年かけて、そこから抜け出るには、特に教祖のスキャンダルがないと、その宗教がおかしいとは気が付かないものであった。

イスラム教においても、その信徒や指導者が、残忍な行為をするのは、まさに教祖のスキャンダルと同じであり、そうした凶悪な事件がないと、その宗教が根本的に間違ったものであるという疑問がわかないのである。

イスラム教に限らず、どんな宗教にも一長一短があり、絶対的に正しい宗教なんてあるものではない。まして、アラーの神だけが唯一絶対の神だと、この科学的な時代にあって、信じることさえ、すぐに盲信であると気がつくものだが、それがなかなかできないのが、麻薬と同じ宗教依存症という心の病気であるからだ。

本当に辛いことであり、そこから脱却するには相当の年月と、深い思索と、しっかりと現実をみることが必要である。

まず 「人にとって何が一番大切なのか?」「それは神であろうか?」「人の命であろうか?」

そこから問いかけていくことが必要であろう。そして、「神とは何か?」そこまで、探っていくことが、神への依存症から脱却する地道な方法である。

 

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ゲゼルの減価貨幣を貸し借りできない夢貨幣に変えてみた

シリビオ・ゲゼルのロビンソンクルーソ

の漫画を変えてみた

今のお金は中央銀行が発行して、それが市中銀行へ 貸し出され、
それから
国へ、企業へ、個人へと
次々に貸し出されていきます。

でも

小麦を貸し出すことはできるでしょうか?
小麦は食べれば無くなります。
小麦を種として播けば
うまくいけば同じ小麦がたくさんできますが
常に成功するとは限りません。

そのため、企業債券が株券に変化して売買流通しましたが、
この夢券は貸し借りできない証明書として変化したため
株券のように売買も、現通貨のように貸し借りはできません。

この夢券の1%とはいわば取引保障する国税であり
国民一人一人に平等に分配される収穫された夢であり、

いわばベイシックインカムとして負の税金として
この二人の取引者にも、もどってくるものです。

小麦をくれたロビンに、夢券の1%という約束をすれば
メンサナは収穫の98%を労働の成果として手にすることができ、
余ったら、ロビンのように、他の誰かへ
小麦をあげて 夢券をいただけば、

夢はより大きく拡がっていくでしょう。

この貸し借りも売買もできない、
取引国税付き、夢券こそ、
新しい貨幣として 流通することができるものです。

 

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そもそもお金の貸し借りは正当なのか?

物々交換から発生した貨幣は古来からいろいろな問題があった。

イスラム教では利息は禁止されている。

シルビオ・ゲゼルの減価する貨幣論も注目されている。

最近ではビットコインという仮想通貨も数十億米ドルと交換売買され、流通している。

貨幣を貸し借りすることで、その価値が増減し、その差益を狙った貨幣売買も盛んに行われている。

もし、貨幣の貸し借りや貨幣の売買ができないとしたら、現貨幣制度は崩壊する。

もし、貨幣が食料の配給券のように、分配券だったら、貸し借りや売買はできなくなる。

すると、賭け麻雀において「催促なしのある時払い」のように、

譲与するか、譲与されるかになり、友情は壊れなくてすむようになる。

 

◎ そもそもお金の貸し借りは正当な行為となりえるのだろうか?

・元金 100円 利息(+と-)50% 福利と単利 で計算してみると、

金利計算法


元金で、年利(n)プラス0.5(50%) とマイナス0.5(50%)
の両者を比較(1円以下は四捨五入)
マイナスの利息
元利合計額 (y)
貸借行為
年数(x)
プラスの利息による
元利合計額(y)
単利(円) 複利(円) 期間(年)  複利(円) 単利(円)
100 100 100 100
50 50 150 150
25 225 200
13 338 250
506 300
759 350
1,139 400
1,709 450
2,563 500
3845 550
10 5767 600

 

     

10年以上経つと、元金100円はプラスの金利では無限大に増大し、マイナス金利では0となり、どちらも返済は不可能になる。

つまり、お金の利息あるなしに関わらず、貸し借りそのものは論理的に成立できない。それに正当性はありえないということである。

それ故に、お金の貸し借りやそこから発展した売買で、お金が増減した取引の正当性はなく、幻であり、それは単なる詐欺や言葉や権力によるトリックにすぎない。

中央銀行がお金を発行し、市中銀行に貸し出す行為そのもの自体、正当性はなく、詐欺行為と脅迫行為でしかない。

中央銀行が貸し出しの金利を上げ下げするだけで、株価や為替が乱高下するのは みな金儲けをたくらむ投資家の心情を反映しただけのものになっていることも、うなづける現象である。

 

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人は考える足である

人は考える葦である1

 

「人は考える葦である」

パスカル パンセ(随想録)より

「人間は自然のうちでも最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。
これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。
なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。
われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。
それゆえ、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根原がある。」

「我思う故に我在り」

デカルト「方法序説」より

「葦(アシ、ヨシ)

葦1

日本では

”あし”は「悪(あ)し」にも 通ずるため、「善(よ)し」の 別名をもうけられ、

茎の中は空洞になっているのも 面白い。

茎の中が空洞であることから、この葦で船も造られたことがある。

葦船1

「私」という存在は

人が生まれ死ぬまでの意識の源であり、

そこから湧き出る泉は「私の心」である。

私の心は

泉の水面に月の姿が映るように、

空き部屋に色々なモノが入るように

悪しき姿も良しき姿も映り、入ってきては

葦船のように漂う。

その様をみて、人の性悪説、性善説も生まれてくる

 

古来の日本人は海外のどんな神々や仏も、みな

遠くからやってきた旅人のように、尊敬し、受け入れてきた文化を持っている。

その受け入れ方は 言葉の駄洒落のような発想法で、変換され

日本独自の文化として 発展してきた。

葦は「悪し」では縁起が悪いので、「良し」とも呼ぶことにしたのもそうである。

私もフランスのパスカルの言葉 「人は考える葦である」を駄洒落して

日本人文化らしく、「人は考える足である」という諺を作ってみた。

 

人は考える足である

ありがたや権兵衛

哲学の道1哲学の道・・24歳の時、私も夕方散策したが、
恋人たちが抱き合う姿が多く、思索どころか、心が大いに乱れた記憶が残っている(ハイデルベルグ)

 

通常人は座って頭で考えるが、健康的には散歩しながら考えた方がいい。

禅には静的禅と動的禅があるように、

哲学者も古来から散歩しながら学生たちと会話したりして、一緒に考えていた。

記者は真実を探るべく、現地に足を運び、関係者の話を聞きにいく。

人は足で考えた方がより真実に近くなる。

それは
より真実に近づくため、人は考える足になる。

まことに

人は考える足である。

 

 

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