Archive for 8月, 2010

自分がたくさんいる

日曜日, 8月 15th, 2010

 昨夜、コーヒーを飲みながら、菓子を食べ過ぎて胃酸過多になってしまった。胃がムカムカして眠れなくなり、太田胃散と水をしこたま飲み、そして嘔吐して、食べ過ぎたものを出して、やっと胃がおさまった。

 いったい、どうして暴飲暴食をするんだい?

 と、自分の胃袋に話しかけた。

 「だって、おいしかったんだもん!」

 「おいしいからといって、食べ過ぎたら、あとで苦しむのはわかりきっていることではないのか?」

 と、自問自答した。

 そこで、ふと気が付いたのは

自分はたくさんいる!

 胃袋も自分だし、食べ過ぎをいさめる頭も自分だし、・・・この手足も自分だし・・・五臓六腑四肢のすべてが自分だってことだ。

 あのガン細胞だって、自分の一部が変化したものだから、やはり自分だ。

 ひょっとして、自殺というのはいわば心のガン細胞みたいな自分かもしれない。

 自分の身体も心はみな自分の一部ではあると同時に独立した自分でもあるというのがわかる。

 自分の一部であっても、その一部は自分のいうとおりには動いてくれないで、独立して動くことができるいわば社会における個人のような人格がある。

 自分とは何か?

 と考ええると、それは日本とその国民の1人1人のようなもので、自分という細胞や臓器が四肢が独立して動き、かつ全体でつながっているようなものだということだ。

 つまり、自分というのは、自分という社会をとりしきっている国の首相が代表だってことになる。いくら自分国の首相であっても、国民のすべてが支配できるわけでもない。いうことをきく細胞もあるし、ない細胞もある。

 自分というのはいわば社会そのもの縮図のようなもので、いわば、個人個人の細胞の寄せ集めにすぎないが、それが統一されて活動されている。その統一がされないと、自分を見失うということになる。

 そして、自分国の首相が選ばれた自分国民の代表になって、統一をまかされることになる。

 もし、社会を変えようとした場合、それが実現できるかどうかの目安が自分国内の統一度で推測が可能である。

 自分自身を思いどうりに動かすことができないと、それは活動家・政治家としては失格になるだろう。

 昨夜のような暴飲暴食をして体を悪くするような自分国の首相は、社会活動家や政治家には向かないことになるだろう。

 もちろん、アイデアもそうで、実現可能なアイデアマンになるには、やはり、自分国の管理ができるようでないと、いいアイデアは生まれないような気がする。

 それにしても、

 こんなに独立採算するような自分がたくさんいるとはびっくり仰天させられた。

 自分が社会だなんて!

 一度もそんなことを思ったこともなかった。

種の生産地は海外が多い

木曜日, 8月 12th, 2010

野菜の種を買ったら、その産地が海外が多かったのにはびっくりさせられた。

菜の花と小松菜はイタリア産、つるなしインゲンはアメリカ産、ニンジンはニュージーランド産、キューリは中国産であり、日本産はキャベツは京都府産、白菜は北海道産である。

牧場の飼料である大豆やとうもろこしが海外産のようなもので、まさか野菜の種まで海外からくるとはびっくりさせられた。

昔から地産地消といって、地元で生産されたものを地元で消費することが一番健康にいいということだが、いつも食べている野菜も海外から来る方が多いのかと唖然とした。

野菜の種をどうして海外で生産するのか?

いくら、日本国内で野菜を生産しても、その種が海外産だったら、何か解せない。

 今朝、冷蔵庫に入れてあったナスが腐りかけてしまい、捨てようとした。でも、そのナスの種はその中にあるではないか。もしかしたら、この腐りかけたナスをそのまま土にもどせば、またナスがなるのではないだろうか?

 トマトだってそうなら、ナスもキュウリもそうではないだろうか?

 そこで、思い出したのが、ノールウエーの鯖漁である。年間のサバの漁獲量を制限して、全部とりつくさないことが、自然の循環には必要なことだ。

 また、アイヌの狩猟だって、必要以上の動物を殺さないことが豊かな自然を守ることになる。

 だったら、野菜の種だって、全部の野菜を食べないで、一部を種にすることが大事ではないだろうか?

 それは面倒で手間がかかるかもしれないが、野菜に対する人の心が豊かな自然の営みを維持することになっていくような気がする。

 人の自立が社会を健全に支えるように、地産地消や自給率・・・地方自治・・・といった海外に頼らないで、せめて食料だけは国内で自然循環させたらどうだろうか?

 それは、お金にもいえるだろう。食料の自給率をあげることは、国内の食料通貨を発行することが必要であろう。それが国際交流を平等な立場で行う最低限の日本人自立策ではないだろうか?

見合いの見直し

水曜日, 8月 11th, 2010

 家庭がすぐに崩壊する事件をニュースでみてくると、そもそも家庭を作るところから、見直しした方がいいのかもしれない。

 今は核家族で、しかも自由恋愛が基本になっている。結婚する出会いそのものがなかなか難しい状況のため、合コンなどのような婚活をする必要がでてくる。

 そうした婚活を進めるのが業者や地域や友人であったりすることが多くなり、昔のように、親が子供の婚活を進めることがほとんどなくなった。

 子供の結婚は親に対して事実上事後報告になっている。そして、その相手がどうだこうだと賛否するしかない。

 子供の幸せにとって、一番大きなことは結婚相手しだいであるから、その出会いがもっとも大事なことになる。仕事と結婚と比べると、やはり結婚と家族の方が仕事よりも重要になる。

 というのは、仕事はいくらでも変えられるが、結婚相手はそうはいかない。その子供の命と人生がかかっているから、自分の命くらい大事だと思えるのである。

 私は見合いも合コンもしたことがない。そのため、自由恋愛するしか道がなかったのだが、それはことごとく失敗したため、結婚をあきらめたことがあった。40過ぎで結婚できたのは、南太平洋のサモアの旅をしたときに、現地の娘さんに惹かれ、その話をその親にしたことで、その親が私の結婚を決めたようなものだった。

 というのは、現地では昔の日本に近く、限定があるが、娘の場合は親が決めるからだ。そのため、相手と自由恋愛したわけではなく、相手の親と私が決めた結婚だった。

 自由恋愛が主流の日本人相手では私は今も結婚できなかったかもしれない。私と歳が近い友人の多くが今も独身の人が多く、自由恋愛に慣れていない世代のような気がする。

 今が自由恋愛の時代でも、相手の選び方が単に感情のままで決めるような感じで、二人で子供を育み家庭を築くという力にかなり欠けているように思える。そのあおりをうけるのが、結局親になってしまうのなら、そういう結婚の失敗を防止するために、昔の見合いを親が現代風にアレンジして、出会いの場を演出するような親心があってもいいのではないだろうか。

自由恋愛は基本でもいいが、問題はその相手との出会いだ! その出会いの一部でも親が明るく演出することがあっていいのではないだろうか。

特に娘親の場合は、娘が選ぶ相手よりも父親が選ぶ相手の方がより確かな縁をとりもつことができそうに思うからだ。

同性同士の方が冷静に相手の人格をみやすいように思うからだ。あとで、悩むよりも、前もって、問題を少なくした方がいいように思える。

 といっても、親が娘の相手をどう捜すかが非常に難しいことなのだが・・・

 いったい、親はどこまで子供の幸せに責任をもたされるのか・・・?? 

 一生かもしれないなあ!

意志の不可思議

月曜日, 8月 9th, 2010

 100歳以上の行方不明数が70数名になっている。また、児童虐待や孤独死の事件が続くと、家族や地域の絆がうすくなってきたことを思い知らされる。

 お金のシステムを、ベーシックインカムと合わせて考えていると、どうしても、一緒に考えねばならないのが、地域や家族の絆である心のシステムである。

 例えば、前述の生活通貨の提案も、「税金」を「寄付」にしてシステム化するしかなくなる。それは、人の命を支えるのはお金だけではなく、人の心の意志が必要だからである。人を自由にするにはその意志が最も重要である。

 心とは何か? と探っていくと、それが欲望になる。さらに、その欲望を追いかけると、矛盾する意志にぶつかるのである。

例えば、ダイエットを志したときに、自分の意志に2つの心の葛藤が起きる。食べたい:食べたくない 運動したい:運動したくない というような矛盾する葛藤である。

 こうした矛盾の心を人格化すると、天使のような人格と悪魔のような人格が自分の中でぶつかりあっているようなものである。善と悪の戦いがまさに自分の心の中で起きている。

 これは、宗教的なジレンマにもあって、どっちが「本当の自分」でどっちが「偽の自分」なのか、解らなくなってしまう。その本当の自分の葛藤は洗脳に利用されてしまうこともあり、本当の自分は教祖の意志になり、偽の自分は本来の自分の意志になったりする。

 思想的にも、人は「もともと善人」という立場と、「もともと悪人」という立場にも分かれることになる。また唯心論と唯物論というような心と肉体で分けてしまう。

 法律でも、その葛藤があり、犯罪者の意志が正気か病気かによって、有罪か無罪かに分かれることになる。

ダイエットにおける葛藤はまさに意志の不可思議をよく表している。

 やせたい(食べたくない)と食べたい(太りたい)は相反するどちらの意志も、明らかに両方とも自分の意志である。どちらの結果になっても、自分の意志の結果である。

 国際間の紛争も、この葛藤をしているような気もする。

 もし、矛盾する意志を両方満足させるような知恵が生まれたら、まさに平和の時代がやってくることになる。また、人は自分自身を克服して、もっと自由になれる。

 自分自身の中にある、この相反する意志の研究は最も必要な学問になっていくような気がする。

1億3000年も生きている

土曜日, 8月 7th, 2010

 一体、地球上で一番長く生きているものは誰だろうか?

 亀は100数十年生きるので長寿だが、そうした動物よりも植物は樹齢1000年以上のものがけっこういる。

だが、もっと生きているのは森で、1億3000年も生きている。

 そこは、オーストラリアの世界遺産になっている、クイーンズランド湿潤熱帯地域とそこから流れ出た川が入り込んだ世界最大の珊瑚礁グレート・バリア・リーフである。

 

         クイーンズランド湿潤熱帯地域

     グレート・バリア・リーフ

ケアンズ旅行社がこんなふうに書いている。

熱帯雨林のエコシステム

 熱帯雨林では木々が狭い範囲で折り重なるように成長します。木々が層を成し、更に蘭やシダなどが宿り木の枝や幹の上に育ち、木によっては高さ50〜60mにも及びます。

 植物が密生しているため、太陽の光は地上にほとんど届きません。地面に植物があまりないのはそのためです。
1ヘクタールに約120種類(他の森では約30種)の植物が生長しているのですから、熱帯雨林のエコシステムの効率の良さが想像できます。木の皮、枯れ葉、花、フルーツ、動物の糞などが地面に落ち、シロアリや微生物、ミミズなどによって分解され、腐葉土となり、植物の生長を助けます。

 花の多くは昆虫が蜜を取りやすいよう、大きかったり、強い香りを放ったり、蛾やコウモリが来やすいように夜間に開いたり、明るい色彩だったりします。動物は、熱帯雨林の木の上で暮らしやすいよう、しっぽや爪が発達していたり、飛ぶことができたりします。

 森の中の植物、動物はお互いが食べ物、隠れ家などになりながら共存しています。」

1億3000年前は恐竜全盛の時代である。そのときの植物がここで今も生きている。

 今地球は隕石落下の自然災害ではなく、人為的災害で、地球規模の森が砂漠化している。

 世界の砂漠化地図

 ここの世界遺産にせまっている勢いである。

 自然農を学んでいると、ここの1億3000年も生き続けられるようなシステムを学ぶ必要があるように思える。

 中国で砂漠化したところを、森を作ろうとした1人の主婦がいた。

 数百本の苗木を植えたが枯れてしまったが、思い直し、少しでも雑草が生えているところにその苗木を植えたら、育った。そして、広大な森は再生されていった。

 雑草が自然農の導きのような感じがする。そして、この世界遺産のような動植物の共生がいかに人類を長生きさせる道を与えているような気がする。