Archive for 3月, 2013

新マネーが解りやすい貯蓄税の実例が起きた

日曜日, 3月 17th, 2013

ユーロ圏、キプロス支援で合意=1.3兆円融資、貯蓄税を徴収

 「欧州連合(EU)のユーロ圏諸国は15日、ブリュッセルで臨時の財務相会合を開き、16日未明まで議論の末、ギリシャの債務危機で銀行が深刻な打撃を受けたキプロスに対する金融支援で合意した。支援額は最大100億ユーロ(約1兆2500億円)。
 ユーロ圏による危機支援は、ギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペインに次ぎ5カ国目。キプロスは2012年6月に支援要請後、ユーロ圏との交渉が難航していたが、ようやく一区切り付いた。
 融資には国際通貨基金(IMF)も参加する。キプロスは支援と引き換えに、同国の銀行預金を対象に最大9.9%の貯蓄税を徴収。財務相会合の声明によると、キプロスは法人税率の引き上げや、劣後債保有者に損失負担を要請することも約束した。(2013/03/16 時事通信)」

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 このニュースは実に貯蓄税付電子マネーシステムを理解する上でとても解りやすいものだ。

 これはキプロスの財政援助で、ユーロ圏財務相が100億ユーロ(約1兆2500億円)貸し出す代わりに、キプロス国民の預金(貯蓄)に税金を10万ユーロ以上持っている人には9.9%、10万円ユーロ以下は6.75%を急に預金封鎖して、キプロスの国内総生産(GDP)の3分の1に相当する約58億ユーロ(約7200億円)の貯蓄税を一気に集めてしまうものだ。

 これを貯蓄税付電子マネーでいうと、新マネー発行額 100億ユーロ、貯蓄税率10万ユーロ貯蓄者10%、10万ユーロ未満の貯蓄者6.75%ということになる。

 ユーロが紙幣のため、預金封鎖しなければならないが、もし、電子マネーの場合は常に銀行の電子マネーであるために、預金封鎖する必要がない。

 ジンバブエのハイパーインフレは多額の紙幣を印刷して起きる現象だが、このユーロ財務相のように、多額の紙幣の貸出をする担保として、貯蓄税として、その徴収が返済とする場合、インフレにはならない。

 この貯蓄税は財政破綻のキプロスで行われたのであるが、それは震災復興支援金でも可能である。新しい財政支援は貸出とその返済で行われるように、財政再建も、復興資金も、貯蓄税付き電子マネーの発行で可能である。

 貨幣があたかも金のような物質や紙に書いた数字のようについ思いこんでしまうが、現在の貨幣流通は借金とその返済から成り立つ信用債券である。そして、その貨幣流通は労働や金融投資においてされる不確かな借金返済力(不確かな約束事)にある。

 その不確かさを支えているのが法律である。貨幣が法貨といわれるのはその所以でもある。法律を改正するだけで、新貨幣である税付き電子マネーは財源なしで発行できる。

 キプロスのような財政再建の事例から、信用債券という貨幣制度の欠陥を補うような新しい貯蓄税付き電子マネーの発行が待たれる。

 

 

みんな神様道 3

火曜日, 3月 12th, 2013

 三章  道って何?

  神様とみんなについて考えると、それは「自分の意識」が出発点になってくる。そして、三本柱の道についてはこの「自分の意識」をどこに置くかということなのだ。

 「道」とは「生き方」である。当初、「みんな神様術」にしようかと考えたが、好きな柔道を柔術にはしたくなかったからだ。「術」とは「技術・知識」みたいで、狭くなるので、「自由な生き方」というような意味で広くとらえたテクニックにしたかったからだ。

 四章  みんな神様道って何?

  これを簡単にいうと、「もし自分もみんなも神様だったら、この世界をどうする?」という空想を楽しむティータイムである。

 実際、私はあの世が近いのだが、「もし生死が自由にできる神様になれたら」、私は自由にあの世もこの世も出入りできる存在になる。これほどおもしろい空想もあるまいと思うからだ。

 確かに現実的には悲惨で苦しい毎日があっても、空想だけはそんな現実に左右されないで、神様仏様にも、また、どんな姿にもなれるし、宇宙や世界だって、いくらでも変えられることも確かなのだ。

 あの震災で二万人亡くなったかもしれないが、空想ではあっという間にその二万人を生き返らすことだってできるほど、自由自在なのである。

 しかし、この自由自在の神様空想ゲームをよりおもしろくするには、ルールが必要であり、ルールがなければゲームもできない。

 この空想ゲームのルールはただ一つ、自分も神様であると同時に他人もすべて神様であるとするルールである。そのため、なかなか自分の思い通りに空想は進まないってことになる。

 例えば、あいつは殺したいと思って殺しても、相手も神様なので、殺されてもすぐに生き返ってしまうことになり、そして、復讐されて自分も殺されるが、また再生してやりなおすってことになる。

  神様というのは殺せないのだ。いわば、将棋みたいなもので、敵駒をとって、好きなところに味方の駒としておける存在のようなものである。

 

みんな神様道 2

火曜日, 3月 12th, 2013

 二章  みんなって何?

 今日、3月11日震災2年目、全国で午後2時46分に犠牲者への黙祷が捧げられた。

 その様子がテレビ朝日ではとくに原発近くで帰宅OKの村でライブされていた。しかし誰もそこに帰宅してこない、これない現状を踏まえて放送していた。特に除染されたとされる家を取材している様子にはびっくりした。

 除染した後も周囲の木の枯れ葉などで、放射線量が増えている。しかも、除染して山積みになった土砂が近くに放置されたままで、その行き先も決まっていない。とても、帰れる場所ではない。

 つまり、原発周辺は復旧も復興もできないという現実がある。それはもう二度と取り返しがきかない死の町をいっており、チェルノブイリと同じ惨劇があるということだ。

 しかし、衆院選の再稼働を進める自民党圧勝以降、脱原発への声は消えていっている。国民の多くの関心は株と通貨の上がり下がり、そして、TPP参加である。

 さて、被災された人たちにむかって言う「みんな」と、与党を選んだ多くの国民に向かっていう「みんな」とはあきらかに違いがある。

 「みんな」とは一体どういう内容なのか?

 壇上で演説するときに、「みなさん」という場合、演説を聴く人たち全員をさしている。演説する自分が「みなさん」に入っている場合と入っていない場合があり、それは話の内容で選択される。

 そして、「みなさん」はその演説を聴いていないその他大勢の人たちはさしていない。

 つまり、「みんな」とは、そこに自分が入っているかいないかはっきりしないし、その場その場で、変わってしまう内容だということだ。

 しかも、「みんな」という発言者個人の意識の対象者であって、「みんな」という存在が実際にあるのではないし、固定できるものではない。

 しかし、神様は何かという対象でと同じで、小さな集合体から大きな集合体をさすともいえるが、そうした集合体も固定してなく、変動するものである。

 そのため、「みんな」とは自分が意識する対象者全員であるといえる。もし、自分が井戸に住むカエルだったら、「井の中の蛙大海を知らず」ということになり、「みんな」とは同じ井戸の中に住む他のカエルにあたる。

 もし、自分の意識が変わればみんなも変わる。「世界を変えたければ自分を変えればいい」と言われる所以である。

 そのため、「みんな」とは「自分」のことであり、「自分が意識する他人全体」のことだとして考えていきたい。

 

みんな神様道 1

月曜日, 3月 11th, 2013

 一章  神様って何?

 「みんな神様道」は、「みんな」「神様」「道」の三つの柱で成り立っている。

 三本柱にしたのは、大体、物事を決めたりするのは最低三人必要であり、知恵だって、三人集まれば文殊の知恵というではないか。

 この中でもっとも目立つのが神様という言葉なので、それから始めてみよう。

 十代の頃、神様が何か死ぬほど悩んだことがあった。死ぬほど? というと、大げさのようだけど、当時「なんのために生きるのか?」と悩み抜き、あげくのはてに、精神病院まで入院したことがあった。

 それは「生きる理由がわからないと、生きられなくなる」という時期がある。そして、若くして自殺に走ることだってあるのだ。

 人間は肉体と精神(心)を持っており、肉体の病気のように、精神も「生きられない悩み」も生じる。最近はうつ病が注目されている、うつ病はいわば自分で自分を生きられないような精神的状況においやってしまうものだ。逆にそう病はまわりの人に対して生きにくくしてしまうものである。

 ウイルスのような病原菌は人にうつる場合と、うつらない場合があるように、精神もまた自分だけおかす病と、他人をもおかす病がある。その他人にうつらない代表がそううつ病であろう。

 生き死にを分けるとき、英語では「OH MY GOD」であり、「あー、神様助けてください」と世界共通の叫びであり、祈りである。

 もし、その人が無神論者だったら、神様の代わりに、「お母さん、助けて」もしくは「お父さん助けて」になるだろう。

 自分の命を授けてくれた存在は親であり、神様であるからだ。

 自分の命を授けてくれた存在を次元を大きくしていくと、神様の具体的姿が見えてくる。

 血筋をたどると、

1,自分を生んでくれた母親 2.自分を生んでくれた父親 3.父母の先祖

 生みの親より育ての親というように、
 育てをたどると

1,自分を育ててくれた人 2.自分を育ててくれた組織や社会 3,国、民族、世界、人類、地球、宇宙

 というようにどんどん大きくなってくる。

 一番大きな宇宙の存在になると、「天地創造する存在」を神様と呼ぶことになり、もっとも位の高い存在・・つまり、もっとも大きな視点が位になってくる。

 私達が上下の位を競争することが好きである。スポーツやギャンブルでは勝負に勝った方が位が上になるからだ。

 人は本能的に一番上を目指すようにできているようだ。この一番という位を一つの視点としてみると、それは一つの意識であるともいえる。

 我々が生きているかどうかの判断は「意識があるかないか」でさえる。それが自己意識でなくても、植物人間であっても、反射機能のような意識があれば、生きていると判断される。眼にライトをあてて、その瞳が動くかどうかで反応があるかないかが生死の判断になる。

 そのような意識を視点として物事を判断してくと、人は神様のような意識を持つことができる。それは、人は真っ白なキャンパスに自由に絵が描けるように、人は自由自在に想像することができるということだ。

 「想像できることは実現できる」ことだとも言われる。

 これは「夢は必ず叶う」とも信じられている。その理由は「もしそれが不可能であったり、存在しないのであれば、けして想像さえもできないはずである」ということがあるからだ。

 さて、ここで問題なのが、「すべての想像」と、「すべての存在」と、「すべての実現」とはまったくイコールではないことだ。

 「夢は叶うこともあるし、叶わないこともある」というのが現実である。それは神様という存在にもいえて、「神様はいるときもあるし、いないときもある」というのが世の中である。

 さて、神様とはなんぞやである。

 そこで、私は思うのだが、「神様とは一つの大きな意識であり、一つの大きな視点であり、一つの大きな想像力である」と。

 つまり、神様は夢と同じで、実現することも、しないこともあるが、少なくとも、我々の問題を解決してくれる最も頼れる存在であり、視点であり、知恵であり、そして、想像力であると思うのだ。

 この意識と視点は「もし自分が神様だったら、この世界をどうするか? どう想像するか?」になり、そこから、始めてみようと思うのだ。

 もちろん、そこからの想像が実現するかしないかはわからないが、少なくともその空想は充分楽しめるものであり、自分が自由自在に宇宙や人類を操れる想像主になれるものだ。

 人はファンタジーのような空想が大好きで、まるでありえない話が大好きである。それは人は本能的に自分が神様のような意識をもつことができるからだろう。

  いわば、みんな神様道というのはファンタジーな神様物語を描くようなものなのである。

 

みんな神様道 0 

月曜日, 3月 11th, 2013

 序章

 残り少ない人生で考えるとしたら、生きている間に自分ができること、いや、自分しかできないことは何かである。

 自分しかできないことというのは、今まで自分が悩みながらも発見したことを後世に伝えることではないだろうか。

 十代のとき、死ぬほど苦しかった過去の自分と、その苦しみを乗り越えてのんびり生かされている今の自分と比べてみると、明日の自分は何をすべきかが解ってくる。

 自分の子どもの苦しみを観察すると、当時自分が苦しんだ内容と同じもの、違うものがある。違うとすれば、その時代時代がみんなで解決した内容であったり、逆に昔はそんな問題はなかった内容である。

 でも、百年たっても、同じ問題を抱えている内容もある。いわばそれは永遠のテーマであり、人間の生と死に集約することができる。

 永い経験で、どんな問題もその次元を大きくしていくと解決できてしまう。逆に、どんな問題もその次元を小さくしていくと、どんどん問題が大きくなってしまい、にっちもさっちもいかなくなる。

 最近、ユーザー車検でブレーキランプが切れてスムーズに通らなかったときだ。そんな小さな問題にくよくよしたり、はらはらしてあせってしまう自分に驚くことがあった。まるで生きるか死ぬかのようなドキドキしたのだから、あきれてしまった。歳のせいか? 歳にしてはとりすぎている。はて? 猿も木から落ちるということか? いやいや年寄りはほんの小さな段差でもつまづくというではないか、やはり老化が原因ではないのか?

 とまあ、悩むのはいくつになっても同じのようだ。

 生と死は時代も年代も超えて、悩むテーマである。そこで、生と死の問題において、これから自分しかできないような発想をして、後世に伝えたいと思う。

 その視点を「みんな神様道」と名付けてみた。